トトガノート

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Tag:如来蔵

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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「三.中観派の唯識批判」を読みました。

《以下引用》
最後にこの瑜伽行派の唯識説、そして如来蔵思想にたいして起こされたインドの大乗仏教内部からの批判についても、一言しておきたいと思います。その要点は、アーラヤ識とか如来蔵とか、なにやら絶対的な原理を立てて、その実在を主張するのは外教のアートマン説に近く、仏教の無我説に違反するというものです。
《引用終わり》

詳しい主張は本書を見ていただくとして、お互いが他方を未了義(方便)、自説を了義(究極の教え)と主張し合い、対立してきたそうです。

筆者の考えを最後に述べているので、メモっておきます。

《以下引用》
アーラヤ識の実在性というのは、わたくしは、さきほど申しました転依、つまり宗教的な転換の主体たるものということ、すなわち、それなくしては迷悟を論ずるのも無意義となる、修行者各自の実存を意味しているものと考えます。

これは如来蔵についても言えることで、如来蔵・仏性というのは修道論的要請としての実在というべきで、決して存在論的に不変の実在というわけではありません。ただし、如来蔵が普遍性を強調され、それだけに実体性を付与される恐れが強いのにたいし、アーラヤ識はより個々の修行者に密着して設定されているといえましょう。実存とよぶゆえんです。

修行者の実存という点では中観派における菩薩も同じように思われます。ただ中観派はそういう主体の問題については一切論じません。それにもかかわらず、たとえば慈悲の問題を取り上げるときなどは、宗教的実存としての菩薩をぬきにしては考えられないことは明らかで、わたくしから見ると、それこそ如来蔵・仏性の具現者としての菩薩像がそこにあると言わざるをえないほどです。要はすべて「真実を見る」ことを要請されている、この無我なる自己の主体的問題、ということに帰着するのではないでしょうか。
《以下引用》

絶対的真理がピタリと言葉で表現できるわけではないから、一つの説に統一できないのは当然ではないかと思います。いろいろな説が並存する中で、あれこれ思いをめぐらすのが修行ではないでしょうか。

《最初から読む》
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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「二.さとりの可能性」を読みました。

《以下引用》
…瑜伽行派で問題としたもうひとつのこと、そして日本の法相宗が他宗から批判される原因となったことについて触れておきましょう。…

さとりの可能性は広く仏性とか如来蔵の名でよばれており、大乗仏教は一般にすべての衆生がさとりを得る可能性がある、仏性をもっていると教えるものとみなされております。そのなかで、瑜伽行派の人々は、衆生のなかにはさとりの可能性のないものがあるという主張をもっていました。また、ひとくちにさとりといってもいろいろあり、仏と同じ完全なさとりは、菩薩となったものにだけ可能であり、声聞とか独覚の道を選んだものたちにはそれぞれのさとりはあるが、仏のさとりには至らないとも述べております。…

そして、それぞれは一種先天的な性質によるとして、この先天的な性質を種姓(ゴートラ)と名づけております。この説は「五姓各別説」ともよばれますが、さとりの可能性を生まれによって決め、あまつさえ、まったくさとりの能力のない存在(無種姓)を認めたことが、他の大乗諸宗から批難されたわけです。
《引用終わり》

確かに、これは大乗なのか?という感じ。

《以下引用》
如来蔵思想では唯識説で言う意味の転依、よりどころの転換は成り立ちません。…如来蔵思想ではさとりの原動力は心真如として衆生に本来具わっているというのですから、そしてまよっているのは本来的でない無明がそこにあり、業を起こすからで、この邪魔ものさえなくなれば、心はその本来のあり方を実現する、それがさとりにほかならないというのですから、心自体に変化、転換はないことになります。
《引用終わり》

これに対し、唯識は、
《以下引用》
…アーラヤ識が衆生の本来のあり方、しかし、あるべきあり方ではないとし、そこを出発点とする唯識説では、どうしてもアーラヤ識の自己変革・自己否定がさとりにとっての前提となります。そこを転依と言っているのですから、唯識思想は宗教的回心を重んじる仏教、努力主義の宗教、行の宗教です。
《引用終わり》

また如来蔵思想に戻ると、
《以下引用》
…如来蔵思想は、仏から見た理想論として、仏性の根拠も結局は仏の慈悲のはたらきの絶対性に求めることになります。したがって、そこにのこるのは仏からの救済論であり、それにたいする応えとしては信の宗教ということになります。少なくとも出発点に仏性のあることを信ずることからはじまります。唯識説がどちらかというと自己不信、成仏できるかどうか疑うところから出発し、それを行によって確かめようとする(これはなにほどかキリスト教の新教の救済論――神の召命とその確認のための職業の実践――に似ています)のとは対蹠的です。

そして、仏の立場からものを見る如来蔵思想は、後に密教の起こるに際して有力な基盤となったように思われます。唯識思想は自己変革の思想、如来蔵思想は本来の自己実現の思想とよんでもよいでしょう。
《引用終わり》

性善説と性悪説の違いのようでもあります。自分の思想信条の軸足をどちら側に置くかは別にして、どちらの思想をも踏まえておく必要はありますね。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第一章.虚妄分別とはなにか」の「五.空性と有」を読みました。

虚妄分別の有

唯識説で「虚妄分別は有り」と言っているのは、自性をもって存在するという意味ではありません。虚妄に分別したり、ひるがえって正しい判断をしたりする主体、修行の実践主体を眼目において「有る」と言っています。実践主体とは我々一人一人であり、そのあり方は縁起(「依他」)しています。

唯識説では、実践主体(を指示する「虚妄分別」)を除いて、あらゆる法を、我の観念とともに、縁起したものではなく、ただ概念として設定されたもの、仮構されたものとみなします。

竜樹は、すべての縁起したものは概念として設定されたものとしました。唯識説は、縁起したものと、概念として設定されたものを再び分けました。ただ、仮構されたものの存在性を徹底的に排除し、仮構する機能の中に吸収してしまいました。「仮構されたあり方」のものが、「縁起したあり方」のもののほかに別にあるのではありません。

空性の有

「虚妄分別に空性がある」=「虚妄分別は空性について不空」というのは、竜樹のように無自性の意味にとっても、唯識説のように虚妄分別に二つのないことの意味にとっても、その空性なるものが諸法なり虚妄分別なりのほかに実在するわけではありません。それは空であることという道理という意味で真実ではありますが、存在するものではありません。
空性のあり方が、空なるもの(諸法なり虚妄分別なり)を貫いているということです。

さとりとしての空性

空性にはさとりの意味もあります。さとり、つまり円成実性のあることを認めないと修行が無意味になってしまいます。虚妄分別が、その意識から所取・能取の二の実在という観念を捨てることによって実現する境地として、虚妄分別と別ではありません。このような「完成したあり方」としての虚妄分別は、そのとき智と呼ばれます。虚妄分別は智に転換します。

同じことを、この智(無分別智)は空性を見る(さとる)とも表現します。このあり方は、さとりによって(さとったものの智の内容として)はじめて現われますが、さとっても、さとらなくても、ものの真実のあり方としては不変である道理です。その意味で実在とも言えると、瑜伽行派は考える傾向がありますが、中観派は徹底的に排除します。

このようなさとられた真実としてのあり方としての空性は、「真如」とか「法界」とか「実際」などと表現されます。

ブッダとしての空性

この空性をさとったもの、つまり仏は、そのさとりにおいて、能所の二が空となった方ですから、その智と空性とがひとつとなっていると解釈します。法(真理)とひとつになった身という意味で「法身」と呼びます。

これは如来蔵思想の基本をなしている考え方で、唯識説も、仏身観においては同じ考えを示しています。この法身は、「法界」という言葉同様、全てに遍くゆきわたっているとされ、「どんなものでも、法身(法界)の外にあるものではない」。「虚妄分別(個々の実存者)はすべて空性においてある」(空性はすべての存在に通徹している)ということになります。

電磁気学とかでも、電荷というミクロからのアプローチと、電場というマクロからのアプローチがありますが、唯識説と如来蔵思想の間にも、何かアプローチの違いのようなものを感じます。

《つづく》
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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「八章 修行者の理想像」を読みました。

アビダルマ教学確立の中で組織化された修行者の階位がいろいろあるようですが、それは本書を読んでいただくことにします。

ブッダ以来、出家の修行者の最高位は阿羅漢であり、阿羅漢になっても仏にはなれないと考えられてきました。これに対し、大乗は、万人に仏と同じ阿耨多羅三貘三菩提を得ることを究極の目的とさせ、発心したかぎりでのすべての修行者を、悟る前の仏と同じ「菩薩」と呼びました。

この菩薩の階位もいろいろあり、『般若経』では四位、『華厳経』では四十二位が並び、『梵網経』では五十二位、等々あるそうです。

ですが、大乗経典中最も強調されていることは、「菩薩はその衆生済度の誓願のあついゆえに、自ら仏となるより先に、すべての衆生を彼岸にわたそうと努める存在である」ということです。「智慧によって、生死に住せず、慈悲によって、涅槃に住せず」といわれ、生死にも涅槃にもとどまらないがゆえに、菩薩のあり方を「無住処涅槃」と称しています。これが利他に生きる菩薩の理想像です。

《以下引用》
…菩薩はすべてが行の完成者なのではない。そもそも発菩提心したのが菩薩であるから、そのままでは凡夫の菩薩であり、しかもその数は無数である。実はすべての衆生が菩薩となりうるし、菩薩とならなければならない。そこに大乗仏教の理想があるといえよう。このことは『法華経』において高らかに強調され、やがてそれが如来蔵思想を生む母胎の一つとなった。いわゆる「一乗」の教えである。
《引用終わり》

唯識説は三乗説を唱えているようなのでメモっておきます。

《以下引用》
…しかし、インドの大乗仏教の歴史を見ると、三乗説もなかなか根強い。これは先天的な種姓というよりも、行のむずかしさを主張し、行の重要性を強調するところに由来するのである。現実の人間のあり方を直視するとき、いかに執着をなくし、苦を滅し、悟りをひらき、仏となるのが困難なことか、衆生がいかに仏とは遠く隔たった存在であるかが容易に想い起こされる。それに打ち克つ行こそが仏道であると見る人びとは、三乗説にこそ真実を見出している。その代表が唯識説を説く瑜伽行派である。…
《引用終わり》

階位を設けることは、修行の道のりが遠いことを示しながらも、修行者のモチベーションを下げさせない工夫として、意味があるのかもしれません。

《つづく》


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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「七章 心」の後半を読みました。

唯識説は迷っている凡夫の心のあり方を説明しているのに対し、どんなに迷っていても心は清らかで、仏の心と同じだという見方があります。この心を「自性清浄心」と言います。

唯識説でいう心は、狭義ではアーラヤ識だけを指しますが、広義ではマナス(意)や六識や、心に伴って現れる種々の心作用(心所法)にいたるまでが含まれます。

《以下引用》
…それに対し、この考え方によると、心と、心にともなう作用(あるいは属性というのも同じ)としての煩悩などとを切り離し、煩悩などは心の上に外からやってくる客、つまり一時的滞在者のようなものだという(客塵煩悩)。外からやってくるからといって、どこかに煩悩が実在しているわけではなく、それはもともと存在しないのだが、心がものの道理をわきまえず真理を知らないとき、つまり無知(無明)であるときに現われ出て心に付着し、心を汚す。それが凡夫における状態である。場合によっては、それは月の光をさえぎる雲にも喩えられる。雲が行き過ぎれば月はまたもとどおり皓皓と輝く。悟りというものは、ちょうどこの雲間を過ぎてふたたび光をとりもどした月のようなものである。さらに言えば、雲がおおい、光をさえぎっているように見えても、実は、月の光は前も後も少しも変わらずに光り輝いているように、迷悟にかかわらず、衆生の心もつねに輝いている。心それ自体は汚れることはない。…
…同じ変わらぬ清浄な心が、修行によって、そのことを知るか否かによって、あり方の異なっていることが教えられており、したがって修行、訓練による心の変化が要求されているが、ただ唯識説のように心自体の転換ではなく、心の状態の変化(心そのものは不変)としてとらえられている。
《引用終わり》

このような見方は阿含の教えの中にも多く見られましたが、アビダルマの仏教ではあまり関心が持たれず、大乗仏教になって急に脚光を浴びます。

《以下引用》
…『般若経』では、「自性が清浄」とは自性がないこと、つまり空という意味と解釈した。そうなると、唯識説のところで述べたように、迷うも悟るも心が要という教えと近くなる。もちろん、その教えと自性清浄心の考えとが矛盾するものではなく、両方の統一は可能であるが、『般若経』の場合は、それ以上に心の問題を掘り下げることをしなかった。…
《引用終わり》

自性清浄心の教えを出発点として学説を展開させた系統が、如来蔵思想ということになります。

《以下引用》
…自性清浄心が、全面的に無為法、真如、法界、法身という絶対的価値そのものと同一視されるようになると、煩悩の存在はますます影がうすくなって極小化される。そのあげくには、煩悩はもともと無いものだから、衆生は本来覚っている(本覚)という言い方まで出てくる。これは場合によっては修行による浄化という過程をも極小化させることにもなりかねない。また逆に、それにもかかわらず、現実にはどうしてこうも煩悩が多く、なかなか除くことができないかということを説明不可能にもさせる。実はアーラヤ識の説が生まれるについては、このような難問に対する解答という意味もあったようである。…
《引用終わり》

自性清浄心=如来蔵と、アーラヤ識とは、同じ一つの心の表と裏、楯の両面のように相反し、対立しつつも、決して切り離せません。そこで、それを同一視する考えが生まれ、それが『楞伽経』となり、『大乗起信論』で完結しました。『起信論』は、その基本を如来蔵のほうに置き、如来蔵の側面を「心真如」、アーラヤ識の方面を「心生滅」と呼んでいます。その場合でも、如来蔵の上にどうして本来ありもしない煩悩が現われるかというメカニズムは必ずしも巧みに説明されているようには見えない(そうです)。

《以下引用》
…唯識説では、如来蔵の学説は真如・法界の説明といっしょに導入され、円成実性と同一視されている。しかし、その重点は、迷悟転換の基盤としての中性的な場といった意味がつよくなり、悟りの原動力という意味あいはうすれている。そして悟りを、迷いの根元であるアーラヤ識の転換、自己否定に求めた点で、宗教的実践のうえで如来蔵思想以上の深みを示すけれども、どうしてそのような転換がおこるかについてのメカニズムについては必ずしも十分に成功しているとは見えない(術語でいうと、アーラヤ識に、それと本質上あい容れない無漏の種子が、法を聞いた余熏として生じて〔聞熏習の種子〕付着し、しだいに本体を抑え、消滅させるにいたるという)。結局、両思想は相補的に仏教の求めるもの、悟りにいたる実践の主体のあるべき姿を明かすものと言うべきであろう。…
《引用終わり》

「光は波である」という見方と「光は粒子である」という見方の両方を相補的に用いないと、光の性質を語ることができないのと同じようなことなのでしょうか…。

《つづく》
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ひらがなを覚え始めた頃、次女が「『だ』ってどう書くの?」と聞いてきました。「『た』に点々だよ。」と教えたのですが、次女は点々を書いてから『た』を書きました。

「書き順が違うよ」と注意しましたが、考えてみると、発音するときにはdを発音するかtを発音するかは最初から決めなければいけません。書く場合には、取りあえず『た』を書いておいて、後で『だ』にするという手順になりますから、逆の関係だと言えなくもない。

と、ひとりで納得しましたが、当時4歳にもなっていなかった次女がそこまで考えているはずがない。考えていないことは、すぐに分かりました。なぜなら『た』を書くときに、『だ』を書いてから点々を消しゴムで消していたからです。それも一度だけじゃなくて、二度も三度も…

「どうせ消すんだから、点々書かなくていいでしょう?」と注意しましたが、濁点を後で消すという手順が何とも示唆的で、心に残りました。

先日、濁点の有無で大きく違ってしまう「かん細胞」と「がん細胞」の話を書きました。神の如き「かん細胞」が濁点が付いただけで悪魔の如き「がん細胞」になる。それは紙一重よりも小さな違いのように思いました。

濁点の無い姿を「如来蔵」と捉えれば、塵の如き濁点はまさに煩悩(客塵煩悩)。濁点を消す次女の姿が、己の煩悩を消し去ろうとする修行者と重なりました…

しかし、「点々は書かなくてもいい」という私の言葉に向きになって、ひたすら『だ』を書いてから『た』にする作業を繰り返す反抗心は、さすがに菩提心には程遠い…凡夫の生き様そのものです。
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神の視点については以前も考察しました。今回は、集中から分散への移行という観点で見てみたいと思います。

視点の人間化が分散化とイコールとは言えないかもしれませんが、唯一絶対の神の視点から約70億いると言われる人間に視点が移動するわけですから、必然的に分散すると思うのです。

唯一絶対の神が存在するということになると、卑しい我々の身近にはいなくて、天界のようなところにいらっしゃって、この世のすべてを統括する…というイメージになると思います。

私が会社に入社したころは、コンピュータ・システムも一極集中でした。高性能のホストコンピュータ(正に神のような存在)に回線接続して、最低限のデータ入出力回路が付いた端末で作業をしていました。

これが数年後、クライアント・サーバー・システムに移行しました。ホストコンピュータは中程度の性能のサーバーに、端末は少し性能アップしたクライアントになりました。クライアントはデータの入出力だけではなく、ある程度の演算処理も行う。その分、ホストの負担が減るからサーバー程度の性能で良くなったわけです。処理の分散化です。神(ホストコンピュータ)よりも能力が劣る人間たち(サーバー)の手に物事が託されるようになった…

さらにグリッド・コンピューティングという究極の分散化まで登場しました。が、逆に最近ではセキュリティの問題から、クライアントに情報を残さないシン・クライアントという形になったり、クラウド・コンピューティングが登場したりということで、分散化には若干逆行する傾向かもしれませんけど。

さて、この世はすべて法(法則)に支配されているというのが、仏教の世界観のようです。その法則の一つとして万有引力を例に考えてみましょう。

この世のすべての物質は万有引力の法則に支配されている。質量ある物質間には引力が生じる。身近な例では、リンゴが地球に引っ張られて木から落ちる。

古典力学では、質点という考え方を用います。地球ならば、その質量を持つ体積ゼロの点が地球の中心(厳密には重心)に存在する。リンゴもその重心にその質量をもつ質点が存在し、引力は地球の半径分だけ離れた二つの質点の間に生じる。こういう簡単化をすることで、二点間の問題に帰着させて、問題を解く。これは、まさに視点を集中させています。

ガッテン流に擬人化すれば、地球の中心にいる大男が地球上のすべての物質を引っ張っているイメージ。

ところが、厳密には物質を構成している数え切れない原子どうしで重力は発生しています。地表で考えると、地面を構成している地殻は比重がおもく、海は水ですから比重が軽い。そのため同じ地球上でも、エベレストの近くのように地殻が厚いところでは重力は強く、太平洋上のように地殻が薄いところでは重力は弱い、という現象が観測されています。

これを再びガッテン流に擬人化すれば、物質の中には質量に比例した数だけ重力を生じる「重力くん」なるものが隠れている。地面が分厚いところには重力くんがたくさん隠れているので、リンゴを落とした時、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力が強い。太平洋上では重力くんの数が若干少ないので、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力は若干弱い。

地球の中心にいた大男が散り散りに分かれて、小人になって遍在する。視点の分散化であります。

さらに話を拡大しまして、万有引力のみならず、この世のあらゆる法則を成立せしめる小人がいると考えます。それは「法」そのものですが、擬人化して体をつけているので「法身くん」と呼ぶことにします。

法身くんの頭の中には、この世のすべての法則が入っています。数え切れない無数の法身くんたちが、この世のあらゆるものの中に普く存在する。これって華厳経とか如来蔵思想の世界ですね。

遠いところにいた神という大男が分散して、我々人間や物質の中にまで存在する。これこそ神の視点から人間の視点への移行ではないでしょうか?大乗は視点の人間化の流れをそのまま継承しているように私は思います。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「勝鬘経」の「四 一諦章」「五 如来蔵章」「六 終章」を読みました。

《以下引用》…苦の滅とは、存在するものの消滅という意味ではありません。(苦が、そしてその原因たる煩悩が、本来、非存在であるということです。)…はじめも知られない昔から存在し、つくられたものでも、生まれたものでもなく、滅尽することもなく、…常住・堅固(・寂静・永続的)で、本性として清浄であり、あらゆる煩悩の蔽いから脱却しており、…知恵と不離なる、不可思議なほとけの諸徳性をそなえた如来の法身が、「苦の滅」という名によって示されているのだからです。…このまさに同じ法身が、まだ煩悩の蔽いから脱却していない状態にあるとき、それが如来蔵と呼ばれるのです。
…《引用終わり》


如来蔵に関する知とは、如来の空性の知です。如来蔵が空性を示すと知ること(如来蔵空智)は2種類の内容があります。
1.如来蔵には、(もともと法身と無関係で、さとりの知恵から切り離された、あらゆる)煩悩の蔽いが欠如している(つまり空である)。
2.(煩悩は虚妄で非存在であるが、)如来蔵は(法身と密着・不可分で)、(さとりの知恵と切り離しえない)ほとけの諸徳性を本来そなえている(つまり不空である)。

また、如来蔵は生死輪廻のよりどころです。生と死をあらわす輪廻とは如来蔵の別名です。死とは諸感官の機能停止、生とは新しい感官の発生です。ところが如来蔵には、生も死も滅も起もありません。如来蔵は有為の存在の領域を超えて、常住・堅固・寂静・永続的であります。

この本性として清浄な心が、煩悩によって汚されている。このことを信じましょう。…というのが結論のようです。

ちょっと気になるのは、この記述。
《以下引用》…
この三種の(如来の)家のよき男子や女子たち以外の衆生なるものは、もろもろの深遠な教えに対し、自分勝手な見解をいだいて、それを最上とみなし、あまつさえ、まちがった観念をもって執着しつつ、教え、説明します。…私は、彼らは真実の教えに背反するもの、異教徒、腐った種子の持ち主であるから、たとえ君側にあっても、調伏すべきである、と申し上げたい。
…《引用終わり》


異教徒は如来蔵ではないの?という疑問が湧きます。「やっていい戦争」があるというふうにも読めます。

「勝鬘経」は聖徳太子も好んで読んでいましたから、和を尊んだ彼も戦地に赴くときは、この辺りの記述を思い起こして力を得たのではないかと思われます。

「シュリーマーラー夫人が獅子吼した説示」という副題が付けられています。とっても怖い奥さんをイメージしてしまう(恐妻家だから?)のですが、こういう仏に関する大演説を「獅子吼」と表現するようです。四誓偈にも出てきます。

なぜ女性に言わせたのか?やはり、口では(口だけじゃない?)女にかなわないのが古今共通ということでしょうか…。

《つづく》
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悟りへの道 に参加中!
先日から如来蔵系の経典を読んでおります。そして、全ての人、全ての生きとし生けるもの、そして無機物に至るまで、本当はキラキラ黄金のように光り輝くものを内に秘めているのだとイメージするようにしています。

当初は、これによって人間の生きる意味がわかってくるかと思っておりましたが、他人に対する寛容の根拠も見つかるような気がしています。

私が最も不寛容になる瞬間、それはハンドルを握った時です。不便さを強いられた時、人は寛容になれるのではないか?とも思いましたが、結局「のど元過ぎれば…」なんですね。

すべてのものが「光」を内に秘め、しかもその「光」は自他の別を超えてひとつである…そういうイメージ。

対向車の運転手がどんなに悪い奴に見えても、そして実際にひどい運転をしていたとしても、その人の心の奥の奥は光り輝いている…

逆に、このイメージを自分自身に向けたとき、どんなに自分が嫌な奴でも、自分の可能性を信じることにつながるのではないか…

苦悩とかストレスの内訳を見てみると、他人に対する不寛容や自分に対する不寛容が多いのではないかと思います。「如来蔵」という光を信じることで何とかならないものか。そんな期待を胸に、読み進んでいきたいと思っています。
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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第二章「誤った見解の克服(対治邪執)」まで読みました。以下、自分なりにまとめてみます。

誤った見解(邪執)はすべて、ものの実体視(我見)にもとづいている。我見には、人我見(個人存在の実体視)と法我見(客観存在の実体視)がある。人我見は五種類に分類できる。

1.「如来の法身は究極において寂漠としている。それはちょうど、虚空の如くである」という経典中の説明を読んで、おおぞら(虚空)こそが如来の本性だと誤解する人がいる。


これは、実体はないが遍くゆきわたっていることを、大空に例えたものである。

2.「世間の諸存在は畢竟じて実体はない(体空)。ないしは、涅槃とか真如とよばれるものもまた畢竟じて実体はない。それらは、そのはじめからそれ自身実体なく(自空)、あらゆる特質づけ(相)を超越している」という経典中の説明を読んで、涅槃とか真如というのは本来何もないのだと誤解する人がいる。

前項同様、実体視する恐れがあるので、それを避けるためにこのような説明をしている。真如とか法身は無量の徳性を備えており、決して無内容なものではない(自体不空)。

3.「如来蔵は生滅を離れているので本質的に不増不減であるが、しかも、それ自身に如来のもつ一切の徳を具備している」という経典中の説明を読んで、如来蔵には物質と精神の両面にわたって種々の異なった特質が具わっていると誤解する人がいる。

如来蔵とはただ衆生の心の真実のあり方(真如)をさして説いている。そこに物質的・精神的な種々相が現象しているのは、無明にもとづく心の生滅において染汚しているからである。

4.「世間のすべての生死輪廻に伴う汚れの現象は、すべて心の真実のあり方たる如来蔵において有る。それ故、一切の諸現象は真実のあり方(真如)と別に独立して(離)存在するわけではない」という経典中の説明を読んで、如来蔵自体に本来、すべての世間的な生死輪廻にかかわる諸現象が具わっていると誤解する人がいる。

如来蔵は本来、無量の清浄な徳性のみが、真如と離れず断絶せず別異ならざるものとして具わっている(不離不断不異真如)。無量の煩悩の汚れた諸現象は、ただ根元的無知によって仮構された存在で(妄有)、本来あるものではなく、決して如来蔵と本質的に結びついたものではない。

5.「如来蔵にもとづいて生死輪廻もあり、如来蔵にもとづいて涅槃もある」という経典中の説明を読んで、輪廻する衆生は如来蔵の上にあるとき突然現れるという形で始まり、始めがあるから涅槃にも終りがあるだろうと誤解する人がいる。

如来蔵の始めは知られないし、その上にそれを隠すように現れている根元的無知の始めも知られない。

虚妄な執着をどうやって最終的に離れるか…

汚れているとか、清浄であるとか言っても、そういう現象はすべて相対的なもので、その固有の特質と言えるものがあるわけではない。一切の現象は本来、物質でもなく、精神でもなく、直観的な知恵でもなく、分析的な認識でもなく、存在でも非存在でもない。いかなる言葉によっても表現できない様相のものである。

それにもかかわらず言葉で説明するのは、これこそ如来の巧みな方便であり、便宜的に言葉を用いて衆生を導くためである。衆生が虚妄な心のはたらき(念)を離れ、心の真実のあり方に帰一するようにしたいと願うからである。

人がひとたび一切の現象を心に思い浮かべるならば、その時はいつでも心が動き、真実の認識(実智)に入るのを妨げる。

《つづく》
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