トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:大乗起信論

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「瞑想の心理学」(法蔵館)
「エピローグ」を読みました。

《以下引用》
…生と死の境が曖昧になるだけでなく、そのいずれにもリアリティが感じられなくなった現代に、私は改めて意味を与えようとしたのではない。むしろ、生と死は本来われわれが考えているほど確かなリアリティを持ってはいないという立場に私は立っている。そして、このリアリティのなさが一体どこから生じてくるかを私は明らかにしようとしたのかもしれない。何よりも時代は(いつの時代もそうなのだが)、生きる意味や理由ではなく、生(死)そのものを根本的に問い糺すことを求めているように私には思えるからだ。自らの実存に深く根を下ろすためにも、こういう問題に対して真摯に向かい合う勇気ある人が、一人でも多く現れてくることを私は密かに願っている。…
《引用終わり》

仕事柄、死について考えさせられることは多いです。「老」とは、「病」と「死」を毎日見つめることかもしれません。その苦しみに、ずっと昔に着目したブッダはやはり偉大です。

日々生きることに哲学は余り必要ではありません。忙しい今日、底の見えない深い穴に足を突っ込んでいる暇はありません。そんな、準備が全くない現代人は、青天の霹靂のように突如として、この深い穴に放り込まれます。

毎日覗いていたからといって、底が見えてくるような穴では決してありません。それでも、暇を見つけて覗いておきたいのです。真摯に向かい合う勇気を持ち続けたいと思うのです。

《最初から読む》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「自己実現」を読みました。

止観双修によって至る境地心真如の相ニルヴァーナ一元性の世界離言真如転識得智心源(大海水波の比喩)真如門大死(仮我の死)大覚と、いろんな言葉で表現されてきました「悟り」。今回はキリスト教から引用したいと思います。

《以下引用》
一なるものを私は見ることができない。パウロは何も見ていなかったが、それは神であった。神は無であるが、また一なるものである。(エックハルト『無である神について』)

「一なるものを私は見ることができない」とはエックハルトの卓見であり、恐らく彼自らの悟りの体験から得られた結論であろう。というのも、われわれ人間は二なるもの(二元性)しか見ることができず、徒に混乱しているからだ。そして、パウロが目は開いていたにもかかわらず何も見ていなかったというが、実は、すべての被造物が無となったその時、彼は神を見ていたのだと、エックハルトは自らの体験に照らして理解したのだ。この無であるとともに、一なるもの(神)をわれわれは肉眼(衆生眼)を通して見ることはできない。

このように、被造物を無、あるいは空こそ人間にとって最も貴重な時であり、体験的に真理(一なるもの)を知る瞬間でもあるのだ。
《引用終わり》

私はキリスト教についてもあまり詳しくは知りませんが、天地創造は、闇の中に光を創り、昼と夜を創り、天と地を創り…ということになっているようです。この妄念の共同幻想の世界が、二元性の導入によって創造されていると読むことができそうです。仏教もキリスト教も根本的なところは一緒のようです。本書ではイスラームからの引用も多く、イスラームについても同様のことが言えそうです。

《以下引用》
これが仏教(宗教)における自己実現の意味であり、何よりも無自己(無我)を実現することなのだ。決して自己を実現することではない。それはいわば人の道であり、それがどんなものかはこれまで縷々述べてきたところから明らかであろう。そして、宗教的に自己を実現したとき、その後には『起信論』が言うところの「自然業(利他)」あるのみ、というのも「私が見ているものは私自身にほかならない」(ビスターミーの言葉)からだ。
《引用終わり》

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「止観双修」を読みました。

実践法の解説は、この章に凝縮されているようです。その実践法が止観双修です。

《以下引用》
止とは一切の境界の相を止むるを謂う
観とは因縁生滅の相を分別するを謂う
   (『起信論』95)

…「止」とは「一切の心識の相を止める」(「心識の相」とはわれわれの心の働きを言う)と理解する方がいいだろう。なぜなら、世界はわれわれの心と密接に結びついているのであるから、われわれは直接世界に働きかけるのではなく、自分の心(妄心)に働きかけることによって、一切の境界(の相)を止めることが可能になるからだ。
《引用終わり》

しかし、「止」だけでは心は重く沈み、眠りこけてしまうので、「観」が必要になる。

《以下引用》
復次に、若し人にして唯止のみを修するときは、則ち心は沈没し、或は懈怠(けだい)を起し、衆善を楽(ねが)わずして、大悲を遠離せん。是の故に、観をも修すべし。
   (『起信論』103)

…「観」とは「因縁生滅の相を分別する」とあるが、それはわれわれの外側だけではなく、内側で起こっているすべての事物・事象(因縁生滅の相)を深く観察し、存在の本質を洞察する智恵を養うことである。誤解してならないのは、「分別」という言葉を、そのまま是非・善悪などを判断(分別)すると理解してはならないことだ。…

従って、妄りに分別する心を止め(シャマタ)、われわれの内と外で起こるすべての事物・事象に批判を加えるのではなく、ただ見つめ、観察することによって(ヴィパシャナー)、見るもの(主)と見られるもの(客)という主客の二元論を解消し、一元性の世界…へと帰っていくというのが止観(シャマタ・ヴィパシャナー)の大方の道筋である…
《引用終わり》

心を静かにするためには、呼吸法も有効な手段です。しかし、最終的には呼吸法に依存してはいけないようです。

《以下引用》
『起信論』は「若し止を修せんとせば、静処に住し、端坐して意を正し、気息にも依らず」と言い、呼吸法(気息)を用いるのではないという。…確かに呼吸法は瞑想状態(三昧)に入る有効な手段であり、この入息と出息の二つに心を留める練習は必要であるが、その心が実は、心源の不覚によって生じた妄心であるから、いつかその心さえも除かなければ本当のサマーディに入っていくことはできない…呼吸に心を留めることも放棄しなければならないときが来るということだ。
《引用終わり》

そして、呼吸について上述したことは、心についても言える。

《以下引用》
一切の諸想を念に随って皆除き、亦除想をも遣れ
   (『起信論』95)

瞑想(止観双修)の始めは、どんな心が起こってこようとも、その心に善し悪しの判断を下すこともなく観察し、見守っていなければならないが、いずれ観察している心(主)をも除かなければならない時が来る。そして、妄りに起こる心(客)を観察し、除くことはそれほど難しくはないが、観察している心(主)をも除いて、本当の無心になることはとても難しい。
《引用終わり》

以前も止観の方法を岩波文庫版を基にまとめましたが、この本(「瞑想の心理学」)の方が分かりやすいようです。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「瞑想の心理学」を読みました。

今回は本のタイトルと同じ章ですので、これまでのことがギッシリまとめてあります。

《以下引用》
心は美しい夢から悪夢までどんな夢をも作り出し、その実現に向けてわれわれはこれまで多大のエネルギーを注いできた。が、われわれが目にしているあらゆる現実は、個人から国家に至るまで、もとはと言えば、われわれの心を一瞬掠めた思考(想念)にほかならない。そして、心はその心にとってのみ意味のある世界をいくらでも作り出しているが、それらはいずれも、本源から紡ぎ出された心像(幻境)に過ぎない(自心所現の幻境)。この良くも悪くも現実という夢を生み出しているのは心(思考)であり、心が存続する限り、われわれ人間はそれが夢(大夢)であることに気づくこともなく、またどこに向かおうとしているかも分からないまま、共同幻想の夢を追い、その結果、悲喜劇は果てしなく繰り返されることになる。そして、この夢から目醒めることを説いたのがほかならぬ宗教なのだ。
《引用終わり》

仏教は悟りの、あるいは成仏の宗教と言われ、そのためには修行、特に苦行のイメージが一般的には強いかもしれませんが、どうなのでしょう。そもそも、苦行では悟れない!というのが、ブッダが独自に模索を始めた出発点のはず。

《以下引用》
仏に成るというと、どうしてもわれわれが日常生活の中で何か目標を設定し、それに向けて努力した結果、常に成功と失敗が問われるようなものと同じレベルで考えられがちであるが、悟り(成仏)の体験は因果成敗というような二元対立の彼方にある
《引用終わり》

しかも、われわれ衆生は本来仏であり、自らの本性に全てを具えているというのが『起信論』の考え方です。ですから、このうえ修行し、努力し、功徳を積み上げて、仏に成るという問題ではないのです。

《以下引用》
まず、明確にしておかねばならないのは、われわれは自分の意志や努力によって仏になるのではないということだ。なぜなら、仏に成ろうとしているのは、実はわれわれ自身の心(妄心)であり、そこからは妄境界(生死の世界)しか現れてこない。そんな心でもって仏に成ろうとしても金輪際ありえないし、生死を超えることも叶わない。というのも、その心が真理を覆うヴェールになっているから、心はいつかどこかで消え去らねばならないのだ。
《引用終わり》

さて、心を消し去るにはどうしたらいいか。思考(心)が具体的なイメージとなって、一定の方向に定まると、その実現のためにわれわれは努力を惜しまないが、思考も心ならば、その実現に向けて努力するのも同じ心である。そして、思考と思考するものの間にある見せかけのギャップに欺かれ、思考を追い求めていくことが欲望である。

走り続けている間は生き甲斐を感じることができても、立ち止まり、リタイアした途端に行き場をなくし、心をどう扱えばいいか分からなくなる。心は何か目的を持ち、何かをしていないと落ち着かないのだ。何もすることがなければ、退屈さのあまり、心は唯一の避難場所である眠りへと滑りこむ。

《以下引用》
従って、瞑想とは、しばらく走るのを止め、その流れから一歩脇に退いて、心にこれ以上エネルギーを注がないことだ。
《引用終わり》

悟りとは、心を消し去ること。ゆえに、悟ろうという目標設定さえ、心にエネルギーを与えることになるから、やってはいけない…。これを私、「悟りのパラドクス」と呼びたいと思います。

勝つと思うな、思えば負けよ♪みたいな考え方は、ここから来てるのかもしれません。

《つづく》
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第四章「方法論―止観双修」の「大夢と大覚」を読みました。

今回は「胡蝶の夢」の荘子からの引用。

《以下引用》
その夢見るにあたりては、その夢なるを知らざるなり。夢の中に、またその夢を占う。覚めて後に、その夢なるを知る。かつ大覚ありて、しかる後に、これその大夢なるを知るなり。(『荘子』〈斉物論篇〉)
《引用終わり》

妄心が描く現実を「大夢」と呼び、これから覚めることを「大覚」と呼んでいます。良寛は、われわれの目覚めた状態も夢のようだと言いました。ヴェーダーンタの哲学では「目覚めは夢の延長に過ぎない」と言っています。

《以下引用》
哀なるかな、哀なるかな、長眠(ちょうめん)の子(し)。苦なるかな、痛なるかな、狂酔の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。(空海『般若心経秘鍵』)
《引用終わり》

われわれの世界は共同幻想の世界(大夢)であると言ったところで、酔っ払いが素面の人間に食ってかかるように、それこそ戯言ではないかと笑って取り合わないでしょう。それでも宗教における方法論とは、この夢(大夢)を見ている最中に、それが夢だと気づく術を教えようということなのです。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「如実に自心を知る」を読みました。

「仮我の死によって真我に蘇る」ことは、「自心」を知ることと言い換えてもいいでしょう。もちろん、自心とは真我のことであり、仮我(妄心)のことではありません。

《以下引用》
…仏教のいう悟り(菩提)とは何かを『大日経』はきわめて明快に「実の如く自心を知る」ことであるとした。われわれ一人ひとりの心こそ、悟りそのものであると言うのだ。そして、釈尊が悟りを得たとき、何を覚ったのかというと、彼自身の心にすべての知恵・徳相はもとより備わっていたという事実であった。しかも、それはひとり彼だけではなく、「自家の宝蔵」は誰もが本来同じように備えている(黄檗)。だから後の世のわれわれも、求むべきは自分自身の心であるということだ。またその事実は、われわれがこれから善行を修し、功徳を積むことによって悟りを得るのではないことを示している。…

このように、宗教とは心を外から内へと廻らし、心の本源へと帰っていくことである。それを回心(廻心)と言うが、われわれは改心という言葉があることも知っている。回心と改心の違いは、後者の場合、われわれが為した行為について反省をし、心を改めるということで、これは倫理道徳の問題である。従って、改心しても、回心になるとは限らない。回心とは心を内へと転じ、心の本源へと入って行くプロセスであるからだ。
《引用終わり》

改心と回心の違いは、善行と悟りの違いと同意だと思います。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「生死を超える」を読みました。

「仮我の死によって真我に蘇る」ことは、「生死を超える」ことと言い換えてもいいでしょう。でも、善を積むこととは違う、と言っています。

《以下引用》
…忙しい現代にあっても、仏道修行と称して、苦行に励み、功徳を積もうとする人がいるかもしれない。そんな殊勝な心もなければ、時間もないわれわれ凡人の目に、その真摯な姿は畏敬に値するように映るかもしれない。しかし、そこには大きな落とし穴がありはしないかと彼らは見ているのだ。親鸞が激しく非難したのは、この自力作善(善を積むことによって生死を超えた悟りの世界に赴こうとすること)の人々であり、心は本の心ながら悟りを得ることありえないし、同じことであるが、生死を離れるために善行を積むなど、すべて雑毒雑修の善であり、輪廻生死の業(カルマ)に過ぎないと。
《引用終わり》

本書では親鸞の『教行信証』からの引用がここに入りますが、「これかならず不可なり」ときっぱり否定しています。

《以下引用》
…生滅を繰り返しながら、善くも悪くも妄りに起こる心ゆえに、われわれは生死の迷いの世界を転々しているのであるから、心の鎖を断つことによって肉体、つまり生死を超えていくのであり、決して善行を積むことによって生死を離れるということはありえない。それはいわば倫理道徳の道であって、人生の根本問題である生死を超えることには直接関わるものではない。だからと言って、私は人の道を語るとき、善悪を言うことに意味がないなどと言っているのではない。善悪、生死を初めとする二元葛藤の世界がどこから生じてくるかを、今一度明確にしなければならないと言いたいだけなのだ。
《引用終わり》

善悪の区別が絶対でないことを以前私も書いております。根本問題とは善悪の区別をも超えていくことですから、「善」などという表層的な概念で根本問題を解けるはずがありません。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「二つの死」を読みました。

《以下引用》
…瞑想のプロセスの中には、仮我が死して真我に蘇る一瞬があるのだ。この死を通して私たちは初めて無我ということを体験的に知り、また真我(本来の面目)をも覚ることになる。絶後に再び蘇る死を、われわれの誰もがいずれは行き着く肉体の死と区別して、禅は「大死一番」という。何が死ぬのかというと仮我であり、何に蘇るのかというと真我であり、何になるのかというと仏である。なぜなら、真我は仏にほかならないからだ。
《引用終わり》

仮我真我があり、仮我を消し去って真我を覚ることが仏教の目的ということになります。

《以下引用》
無我の思想は、釈尊の洞察として、恐らく世界の思想史においても最も注目すべきものであり、今後われわれが人間というものを、根本的に問い直す場合の鍵概念として、再度歴史の表舞台に登場してこなければ、今日の社会の混乱と狂態はますますその度合いを深めるばかりか、個々の人間が内に抱えている存在の空虚さと矛盾は一向に解決されないだろう。というのも、自己愛(エゴイズム)、あるいは組織エゴ(ノスイズム)を剥き出しにしながら、個人から国家に至るまで、保身と面子のためにわれわれは徒に混乱しているからだ。簡単に言えば、人間は仮我のままで良いのかということだ。「私とは誰か」という人間の根本問題が、人間はこのままで良いのかという刺激的な問いになるだろうと言った私の真意はここにある。
《引用終わり》

筆者が最も重要と考えているものが、ここにまとめられていると思います。

「二つの死」という考え方はイスラーム教の中にもあるそうなので、それを引用しておきます。

《以下引用》
死ぬ前に死になさい、死の苦しみを味わわないために。
光へと通じる死がある、墓の中に入るような死ではない。
       (ナスル『イスラーム芸術と霊性』)
《引用終わり》

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「真実の自己――無我の大我」を読みました。

《以下引用》
仏教が人類に呈示した教義の中で、最も特徴ある教えは無我(無自性・空)の思想であろう。存在するすべてのものには実体がなく、相互依存的に存在しているというものだ。
《引用終わり》

この教えの下、前回の仮我を消し去ることで、無我の大我となる。

《以下引用》
この大我はさらに「法界の大我」と表現されてくる。法界とは、人間はもとより存在するすべての本源(諸法の本源)であり、われわれが帰るべき生の源泉である。すると、大我とは万物と同根となった大いなる自己ということであり、宇宙に遍満し、すべてのすべてとなった自己を言う。この諸法の本源へと辿り着いて初めてわれわれは生死際なき迷いの世界を離れ、真の自由というものを手にするのだ。

仮我の狭い境界を超え、宇宙に遍満する「法界の大我」という考え方は、容易にイスラーム神秘主義の「普遍的人間(al-insan al-kamil)」を思い起こさせる。この考えを受けてルーミーは、人間を世俗的人間と霊的人間の二種類に分け、それぞれミクロコスモスとマクロコスモスを当てる。彼は「普遍的人間」をマクロコスモス、すなわち時間と空間を超えた存在と捉え、それをわれわれ人間が達成すべき「完全な人間」と見なしている。
《引用終わり》

イスラームの思想もなかなか興味深いです…。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「真我と仮我」を読みました。

《以下引用》
色・受・想・行・識の五蘊から成り立っているわれわれの身心が本当の私ではないことを、空海は「五蘊の仮我」と呼んだ。…身体(肉体)も四大の仮和合であるなら、良くも悪くも妄りに心が生じ、感情、思考、意志、意識など何層にもわたって連なる観念(妄念)の巣窟を、われわれは自分とみなしているのだ。
《引用終わり》

心が妄念の塊だというのはいいとして、身の方をあやふやなものにする禅語「父母未生以前の本来の面目」が紹介されています。私も以前、同じようなこと考えてたみたいです。

《つづく》
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