遺伝子組み換えの倫理について、私は巷の議論とは違う意見を持っています。もちろん、積極的に大賛成!と考えているわけではありません。遺伝子組み換え技術を、神に対する冒涜みたいに特別視するのはどうかな?ということです。

確かに、顕微鏡などを使って受精卵に直接手を加えたりする技術と聞けば抵抗はあります。でも、今までにも品種改良ということは行われてきました。馬とロバを掛け合わせたりということも、遺伝子組み換えの一種だと私は思います。縄文時代の遺跡で発見された栗の品種が一つであることから、その品種を選択的に栽培していたと考えられていますが、それは品種改良も行っていたということでしょう。そもそも、私たちが今、口にしている農作物で品種改良がなされていない物ってあるんでしょうか?

これまでの品種改良と最近の遺伝子組み換えとの違いは、人手が加わっている度合いが違うだけだと思います。つまり、程度の差であって、本質的に違うものではない。だから、技術内容ではっきりと区別することはできるにしても、倫理性とか食の安全性という観点ではっきり線が引けるのか、疑わしいところです。

この本を読んで最後に思ったことは、科学と倫理は全く別のものだということです。だから、将来的にも科学が進歩することによって倫理性を内包していくことはないだろう、と。我々は、科学のほかに倫理についても考察し追及していかなければいけない。物と心、知識と幸福、科学と精神性の探求は、相補的にバランス良く組み合わせて行かなければいけないようです。

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