トトガノート

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Tag:命

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仏の心と言えば、慈悲の心。どうして「悲」なのだろう?という素朴な疑問がありました。悲嘆にくれても仕方が無いじゃないか…という疑問。

「大悲とは、仏が常に衆生の苦難を救済しようとする大慈悲の心をもっていること。」ということですが、「救済しよう」という積極的な気持ちと「悲」という感情とが自分の中ではなかなか結びつかないでおりました。

それが、ある日、納得できるようになりました。「命のノート」を読んで、ボロボロ泣いているときに、「なるほど!これか!」と思いました。

何も悪いことをしてないのに、純粋無垢な小さな命が病気に負けて消えていかなければいけない。救う術は何もない。医者も最大限の努力をし、実の親のように悲しんでいるのだから、責めることはできない。このいたたまれない気持ち。何ともできない歯がゆさ。自分が何かできることはないのだろうか?何かをしてあげたい!という強い衝動。積極的であります。

積極的であるけれども、これは「怒」ではなくて、「悲」です。

このような「悲」は、自分と他者の区別が(涙で?)ぼやけてきます。「悲」は、利己的な気持ちを弱めます(自他の区別が薄らぐのですから)。そして「悲」は、他者を責める気持ちをも弱めます。

老・病・死という苦が無くならない現実は、誰の責任でもありません。そして、根絶することは絶対にできません。であれば、これを現実として「受け止める」必要があります。そして、この苦しみが少しでも減るように(量的改善)、少しでも緩和されるように(質的改善)、即ち救済を願い続けるしかありません。

痛み続ける胸に、両手を合わせてグッと押しつける…つまり、祈るしかありません。「非」の字のような手が、「心」の上にある。これを以って「悲」となす。

そんなことを考えながら、お盆を迎えようとしています。我が家は明日、墓参りです。
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「命のノート」という本を読みました。亮太先生にはいつもお世話になっています。

亮太先生のお話は、涙なしでは聞けなくて、テレビも最後まで見れませんでした。映画もきっと感動的なのでしょうが、とても見る気になれません。

子を持つ親として、とても興味のあることなのですが、親であるがゆえにそのつらさには耐えられない…とおっしゃる方が多いです。

この本は、子ども向けに書いてあるので、ボリュームも少なく、さらっと書いてあります。涙はもちろん出ましたが、文字が大きいし、短編なので、なんとか読み切ることができました。

私は、お年寄りに接することが多い仕事なので、毎日痛みに耐えながら先の短い人生を生きることについて、どう捉えていいのか日々悩んでいました。

でも、世の中にはもっともっとつらいことがある。そして、そういう人たちに毎日優しく接している人たちがいる。この事実は、直接の答えにはなりませんが、大きなヒントであり、励ましでもありました。
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先日、あることを考えていて、人間は他の生き物を食べない限り生きていけないということに気づきました。だとすると、「殺生するべからず」という戒めを守ったら生きてはいけない。

宗教などでもそうだと思うのですが、人間と他の生き物の間にはっきりと線を引くのが一般的です。人間は知能を持ち意識を持っているから、他の生き物とは違うのだと。この考え方は殺生戒を合理化するためにあるんじゃないでしょうか?人間の命と他の生き物の命では重さが違う。だから、なるべく殺さないように心がける程度で良く、最小限の食事のためにはやむを得ない、と納得するために。

科学の解明が進んで、生き物はDNAとかRNAとかで遺伝情報を代々伝えていく存在であることがわかりました。人間と他の哺乳類のDNAの配列もそんなに違わないことがわかってきた。そうなってくると、人間と他の生き物との間の境目がぼやけてきました。本当に私たちは大きな口を開けて食事をしていいんでしょうか?

さらに、人間が生きるために家畜を殺してもいいのであれば、自分の利益のためにアイツを殺していいんじゃないか?という理屈も出てくるでしょう。命の重さというのは、一枚の絵の値段のようなものかもしれない。考え方しだいで重くもなれば軽くもなる。

命の価値が下落すれば、人を殺したくらいで死刑になるのはかわいそうだろうという意見も出るかもしれない。逆に、悪いことした人なんか簡単に死刑にしてもいいってことでしょうという意見も出るでしょう。

でもこういう議論は本当に殺生な話。まさにこういう殺生(な議論)はするべからず!が殺生戒の本意ではないかとさえ思えてきます。この議論、当面結論は出ないでしょうから、さしあたって食事の際は、命を捧げてくれた生き物たちと手をかけて調理してくださった方々に深く深く感謝をして「いただきます」と言いましょう。

《つづく》
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 1人の人間の命は地球よりも重い!などという言葉も聞かれるほどに命の重さを計るのは難しいことだと思います。地球などというとてつもないものと比べるのはどうかと思います。ただ、同じ1人の人間の命は、基本的には同等ではないでしょうか?

  この原則に立てば、人を1人でも殺してしまったら、死刑になるのが当たり前だと私は思います。人の命を奪うということは、その人の全ての可能性を奪うことです。そういう行為を本人の同意も得ず勝手に行うのですから、自分の命は助けてもらおうというのは身勝手もはなはだしい!というものです。殺意の有無や精神状態は、余り問題ではないと思うのです。

  先日、みのもんたさんが「仇討ちを復活すべきだ」というコメントをしたのを聞いて、思わず拍手してしまいました。犯罪者の人権ばかりを考慮した死刑廃止論よりも、被害者とその遺族の気持ちを配慮した江戸時代の制度の方が、合理的かつ人道的であるように思います。

 有識者は「死刑は野蛮だ!」と言いますが、これだけ殺人が日常化している野蛮国家において、刑罰だけ上品ぶっても仕方がないと思います。「紙一重」という言葉がありますが、専門家の先生方は勉強のし過ぎで常識的な判断ができなくなっているようです。  プロの歌手よりも素人のど自慢に出てくる人の方が歌がうまい場合があるように、専門家の意見が常に適切とは限りません。

「うろん語」第三巻目次(その1)を見る
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