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高校受験のとき、直江兼続ゆかりの亀岡文殊堂にお参りしました。その時、気づきました。自分の合格を祈るということは、別の人の不合格を祈ることにはならないか?だとしたら、これは祈りではなく呪いではないか?そんな願いに神仏は加担するだろうか?

自分やその周囲だけの利益のために祈ることは、時として呪いになることがある…

不合格が必ずしも不幸とは限らない。長い目で見れば、その落胆から這い上がるために頑張って結果的にはかえって良かったということもあり得る。だから、他人の不合格を祈ることになったとしても呪うのとは違う…と、その時は納得することにしました。

でも、ならば自分が合格だけを願うのはなぜか?合格でも不合格でもどちらでもいいのではないのか?

それから、私は具体的な内容の実現を祈ることをしなくなりました。

入試のように定員が決まっているものは、自分の合格は他の誰かの不合格につながります。幸と不幸の交換のようなもの。

でも、定員が決まっていないようなことでも、自分のあるひとつの願いがかなうということは、必ず他の場所に何らかの影響はあるはずです。

それは、直接身の周りにいる人や物に対してだけとは限りません。バタフライ効果を考えれば地球全体が自分の影響下にあると言えますし、EPR効果を考えれば地球の中だけに限定することすらできないようです。

自分のことだけを考えた時、願いは強く、しかも願いの方向性もシャープに決まります。ところが、目の前のごちそうを食べたいと思っている人間が他にもいて、その人たちのことも考えるということになると、何等分にしようとか、この前は譲ったから今回は僕に頂戴とか、願いの強さも方向性も弱くぼやけたものになっていきます。

視野をずっと広げていったときに、つまり誰をも呪うことにならない願いを設定しようとしたとき、その方向性はしだいにぼやけていきます。

そんな中での祈りとはなんでしょうか?「神の思し召しのままに」とか「仏の教えが普く広がりますように」とか、全く方向性のない、Let it be のような内容になるかと思います。それは一見、受動に徹する生き方のようにも見えますが、似て非なるものではないかと思います。

そんなわけで結局何を願うと言うこともなく、毎日お経を唱えています。