数か月前のことだったと思うが、「プリウスは元が取れないから買うもんか!」とアメリカ人が言っているという記事を見かけたような気がする。その時は、アメリカ国民の総意ではないだろうし、だから何なのだろう?と思った。そんなトンチンカンな人がアメリカにもいるんだな、とも思ったが、こんなくだらないことを太平洋のこちら側まで知らせてくれる人がいるというのも、これまたくだらない話だなと思った。

プリウスは燃料を節約するためのあらゆる工夫を装備した、重装備のエコカーである。だから、コストはかかる。それでも普及させたいから採算には目をつぶった値付けをしている、と発売当初からトヨタが言っていた。それでも割高である、という説明は当時から有った。燃料費で元を取るのはかなり乗らないと難しいだろう、という説明も。

それでも世に出したところにプリウスの意味がある。トヨタの先見性と格好良さがあったのである。プリウスに乗るということは「元を取れないけど、環境に貢献したいからプリウスに乗るんだ!環境のために少しは負担したいんだ!」という意思表示でもあったはずなのだ。

それは前世紀から分かっていたこと、それを今さらプリウスで元を取ろうだなんて…と笑った。でも、この不見識は、対岸の遠い国の一部の人だけではないことに気が付いた。

原発再稼働を議論する場で、日本の国際競争力の低下を懸念するなどの理由から、必要なものは必要なんだから原発で発電すればいいでしょう?という意見が、産業界から強く出たことである。

何とかしてエネルギー消費を縮小して、地球環境の悪化を食い止め、人類の滅亡を回避しましょう!というのが、20世紀の終り頃から始まった歴史の文脈なのだ。全人類の命がかかっているのだから、これよりも大きな課題は無いはずなのである。大震災が起こったくらいで、優先順位が入れ替わるようなちっぽけな課題でも無いのである。原発から放射性物質が大量に放出され続けている状況であるならば、なおさら喫緊の課題になったはずなのである。

まず唯一の被爆国である我が国から脱原発の社会的・技術的課題を解決していこう、という方向性を持てないのか?まず「もったいないの心」を持つ我が国からエネルギー消費を縮小していく行動を起こしていこう、とならないのか?一部のアメリカ人の不見識を一笑に付して、プリウスを生んだ我が国がまず…というリーダーシップを取れないのか?

日本の国際競争力の低下を懸念…という論拠から、私は二つの世界大戦の戦間期における軍縮の動きを思い出した。第一次大戦の戦勝国間で、軍艦の保有比率の取り決めをしようとしたことである。これは温室効果ガスの排出枠と似ている。

「自国の国際競争力の低下を懸念」という論拠が何のためらいもなくまかり通ったら、それこそ軍縮条約の破綻が制限なき軍艦建造競争につながったように、地球環境保護は木っ端微塵に吹き飛んでもおかしくない。

電気自動車が「究極のエコカー」と呼ばれても、怪訝な顔をしない人は意外に多い。原発で発電した電気を使っているとしたら、電気自動車は放射性廃棄物を生み出しながら走っているのに等しい。火力発電で発電した電気を使っているとしたら、二酸化炭素を吐き出しながら走っている他の車と大した違いは無い。電気自動車とプリウスとでどっちがエコかというのは、実際のところ決しがたいはずなのである。

プラグインハイブリッドのプリウスであれば、ますます電気自動車とプリウスは近い存在になる。何で発電するか?によって、電気自動車やプリウスがどれだけエコであるかが決まるのである。車だけではない。震災の停電で、あれだけ痛い目をみたはずなのに、いまだにオール電化の家を建てている人が東北にもたくさんいる。これら電気製品すべてが、何で発電するかによってエコかどうかが一斉に決まるのである。

米ゼネラル・エレクトリック(GE)最高経営責任者(CEO)が、原子力発電は採算性が悪いと発言したらしい。

プリウスの採算性は、この発電の採算性から考慮されなければならない。環境負荷や万が一の賠償額も加味した上で。家計とか国家財政とか、そういう小さな枠組みではなく、全人類という枠組みで採算性を考慮していただきたい…

なぜ、脱原発を即刻行わないのか、私には分からない。

(8月7日記)