トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:体

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決して虐待推奨の話ではありません。主旨は「かわいい子には旅をさせろ」とか「鉄は熱いうちに打て」とか「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とか。「競争すると子供がかわいそうだから…」という親心は本当のやさしさではない!ということです。

立ったばかりの子供、歩き始めたばかりの子供、当然のことながらよく転びます。でも、そうやって立ち方や歩き方を覚えます。

うちの娘も、広くて全く凹凸の無いところで何度も転びました。そんな娘たちの姿を見ていて、小さいうちに転ぶのが大事なんだな…と気づきました。

頭からズテ〜ンと行っても、大した怪我はしないのです。大人だったらもっともっとすりむいているはずだし、年寄りだったら骨折していたかも。だけど、子供はちょっとすりむくくらい。

これはどうしてだろう?運動エネルギーで考えますと、転んだ時の衝撃は身長と体重に比例するはずです。その衝撃を転んだ瞬間に腕や頭や膝が受け止めることになりますが、身長と体重が大人の半分だとしても衝撃は1/4になります。

だから、絶対に子供の方が転び得(?)なのです。柔道の受け身の練習ではありませんが、小さいうちにあらゆる転倒パターンを習得して、転び方に熟達しておく方がいいのです。

体だけではなく、心の場合もそうだと思います。小さいうちにつらいことや悲しいことをある程度は体験して、心を強くしておいた方がいい。一時的にしょげることはあっても、大人になってからおかしくなるよりはいいんじゃないかと思うのです。(もちろん「転ぶ」というのは、ほどほどの程度のものですよぉ。一発で致命的なものは大人も子供も関係なくダメです。)

「競争にさらすのはかわいそうだ」という気持ちはわかりますが、競争にさらさないのは無菌室で育てるようなものです。子供のうちに抵抗力をつけておかないと、外(社会)に出た途端に倒れてしまいます。

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 長い生命の歴史をずっと見続けてきた人はどこにもいる筈がないので、進化論もひとつの仮説に過ぎないのですが、それが正しいとして話を進めます。そうすると、私たちの血液は、35億年前に細菌やらん藻の姿をしていた祖先の血液が基になっています。背骨は、5億4千万年前に魚の姿をしていた祖先の背骨をモデルチェンジしたもの。腎臓は5億年前、歯は4億5千万年前の魚の時代に原形ができたそうです。は3億7千万年前、5本指の手足は3億6千万年前の両生類の時代。は2億3千万年前、体毛は2億2千万年前、胎盤は1億年前の哺乳類の時代に原形ができたものを継承しています。

 背骨が一番わかりやすいかもしれませんが、水中用に設計したものを陸に上げて、しかも横向きに使っていたものを縦向きにして使っているわけです。これって、5億4千万年前から想定内のことだったんでしょうか?進化の歴史をみると、「ダメでモトモト、結果オーライ」のようなので、想定内だとはとても思えないのです。ですから、うまく動かなくて当たり前のように思うのですが、それでも私たちはうまく活動できているわけで、これは奇跡のようなスゴイことに思えてきます。

 よくお客様から「何もしていないのに、肩が凝る!腰が痛い!どうして?」という質問を頂きます。「何もしていないからではないでしょうか?」というのが、私の率直な意見です。細菌の姿をしていた進化の出発点で、4億5千万年後には陸上で二足歩行するという前提があったら、私たちの骨格や筋肉の造りはかなり違ったものになっていたことでしょう。私たちの体は自動車で例えるなら、最初から陸上を走る乗り物として設計されたものではなく、まず潜水艦を造り、その部品変更を繰り返しながら少しずつ陸上にあがってきた自動車なのです。肩凝りや腰痛は、横向きに使っていた体を縦向きにしたための弊害であり、構造的な問題です。「何か」をしなければ、肩凝りや腰痛になるのは、むしろ自然なことのように思います。
 ただ、誤解が無いように申し添えますが、「何か」というのは鍼灸のことではありません。ストレッチや筋力トレーニングを行ったり、良い姿勢や腰を痛めない動作を心がけたりすることです。それが至らなくて痛くなってしまった場合には、鍼灸は有効な選択肢のひとつですから、是非連絡を頂きたいわけですが・・・。

 そういう意味で、「体の使い方」を学び習得することは、人として必要なことだと思います。「体の使い方」の研究は最近盛んに行われておりまして、昔の人の立ち居振る舞いもかなり参考になるようです。研究の進展が待たれます。
 更に付け加えますと、私たちは今日のような高度な社会生活を営むことを前提に生まれてきたのでもないだろう、ということです。だから「体の使い方」と同じように、「心の使い方」とか「頭の使い方」とかを皆が心がけないと、世の中はまとまらないのがむしろ自然なのでしょう。長い時間の中で祖先の努力の積み重ねがあり、そのおかげで今日の私たちの生活が営まれているようなのですが、それが当たり前になって自覚されないでいるため、何が必要で何が必要でないか、取捨選択が非常に難しく厄介です。そんな中で、私たちは新しい社会システムの構築を迫られています。そちらの方の研究も進展が待たれるところです。

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