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「意識の形而上学」
第二部「存在論から意識論へ」の「?.「心真如」・「心生滅」」「?.現象顕現的境位における「真如」と「心」」「?.現象的世界の存在論的価値づけ」を読みました。


存在論の「真如」を「心」に置き換えて読んでいくことによって、存在論は意識論になっていく…。意識論でのA領域(絶対無分節態)とは何か?「無」意識!「無」の意識…

《以下引用》…この思想コンテクストでの「無」意識を、我々は否定的消極性においてのみ理解してはならない。つまり「無」意識は、消極的に何物の意識でもない(例えば、気絶失神などの場合のように)というだけのことではない。…反対にそれは、現象的「有」意識への限りなき可能態としての「無」意識、すなわち、「有」分節に向う内的衝迫の緊張に満ちた意識の「無」分節態なのである、恰度存在のゼロ・ポイントが、たんに一物もそこに存在しないという消極的状態ではなくて(確かに、現に一物の影すらないが)、限りない存在分節の可能性を孕んだ「有」的緊張の極限であったように。だからこそ、意識のゼロ・ポイントとしての「無」意識は、そのまま自己分節して「有」意識に転成するのだ。《引用終わり》

「心」もポニョの絵でモデル化しています。A領域は「心真如」として「絶対無分節的、未現象的意識」を表します。B領域は「心生滅」として「瞬時も止まず起滅する有分節的、現象的意識」を表します。A領域の上部に「仏心」、B領域の底部に「衆生心」を置きます。

第9章で、「三大」の概念について説明してあります。

《以下引用》…「三大」の第一は「体大」。「体」という字は、純粋な「真如」それ自体、前述の「真如」の本体を意味する。…現象的顕現形態はどれほど変わっても、「真如」の「体」そのものは時間的空間的限定を超えて変わらない…
次は「相大」――数限りない様相。「相」とは、本質的属性の意。「真如」の「体」(=本体)そのものは、A領域B領域を通じ終始一貫して不変不動だが、現象態における「真如」には、A領域では絶対に見られなかった様々な性質・属性が纏綿する。…「真如」が様々な属性を帯びて現れるということは、「真如」の自己分節を意味する。本来、絶対無分節(=「清浄」無妄)である「真如」が、A領域からB領域の境位に移るにつれて、無限に自己分節して現れてくるのである。…現象態における「真如」の存在創造性というポジティブな符号づけをして、この次元での「真如」を、『起信論』では「如来蔵」と呼ぶ。すなわち「如来蔵」とは、無量無辺の「功徳」(=存在現出の可能力)を帯びてB領域に存立する「真如」の名称である。
「如来蔵」という資格での「真如」が、事実上、無限の働きを示すことは当然であろう。「真如」のこの局面が、「三大」のうちの第三番目、「用大」である。「用(ゆう)」字は、物の属性(このコンテクストでは「相大」)が外面に発動して示す根源的作用あるいは機能、を意味する。《引用終わり》


第10章では価値づけ。
《以下引用》…現象界(B領域)はその名のごとく、数限りない現象的存在者の充満し、錯綜し、乱舞する我々の日常経験の世界。…『起信論』はこの存在次元を「如来蔵」という名の下に積極的・肯定的に評価する。…そもそも現象世界を肯定的に見るか否定的に見るかは、ひとえに係って、意識の意味分節機能を肯定的に見るか否定的に見るかによる。…現象界を「如来蔵」と見るのは、その肯定的見方の場合である。だが、その反面(より多くの場合)、『起信論』は現象界にたいして、きっぱりと否定的な態度を取る。そしてその場合、意識の言語的分節機能は、…「妄念」と呼ばれるのである。《引用終わり》

ここまで考究した上でのポジティブ・シンキング(肯定的見方)ならばいいかもしれませんね。当代流行りのポジティブ・シンキングは薄っぺらで大嫌いなんですけど。

《つづく》