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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第三章 仏教の意識論」(p154〜236)の「1.六塵の境界」(p155〜185)を読みました。

『般若心経』の「無眼耳鼻舌身意」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p154)》
これは六根をあげて、皆空なりと説きたまうなり。六根というは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根、これなり。皆根の字をつけていうことは、草木の根あるが如し。根あれば、よく生ずるなり。その如く、眼根は、よく識を生ずるものなり。識とは、眼に見る時に、青黄赤白黒をよく見分くるものをいうなり。この識というものがなければ、見分くることならぬぞ。さてまた、識というものがありても、眼根というものがなければ、この識を生ずることがならぬぞ。たとえば、目をふさぎ、耳をふさげば、色ありといえども見えず、声ありといえども聞こえず。さるほどに、色を見る時は、識が眼根によって生ずるなり。声を聞く時は、識が耳根によって生ずるなり。残りの鼻根・舌根・身根・意根もかくの如し。
《引用終わり》

さて、般若心経全般に多用されている「無」ですが…。

《以下引用(p155)》
私は神道(山岳信仰)を信奉する友人から、山に入り、早朝、装束を身に纏って、皆と一緒に「六根清浄」と唱えながら、山頂を目指す「行」の話を聞いたことがある。六根とは眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根であり、私たち(の身心)に備わる六つの器官のことであるが、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五つは身体(色身)に備わる感覚器官、意根は心に備わる知覚(分別)器官と分けることができる。ところが『般若心経』は「眼耳鼻舌身意も無く」(無眼耳鼻舌身意)という。しかしここでいう「無」とは、空ということであり、一休は六根をあげて、皆空なりと説きたまうと言い換えていることに注意しなければならない。早まって「眼耳鼻舌身意も無く」を、字義通り六根のすべてが無いとしてはならない。それはこの箇所にかぎったことではなく、実は先の「空の中には色も無く、受想行識も無し」(空中無色無受想行識)から「智も無く、亦た得も無し。所得無きを以ての故に」(無智亦無得。以無所得故)までを含み、かつ無というは、空というこころなり。空とは、有無を離れたるをいうなりを厳密に踏まえた「無」なのだ。
《引用終わり》

「六根清浄」は「どっこいしょ」の語源だとか…。

「無」と「空」の違いについては『龍樹』にも書いてありました。一休さんも、さすがにしっかり勉強していますね。

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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第二章 色即是空・空即是色」(p99〜151)の「2.真実と虚妄」(p137〜151)を読みました。

『般若心経』の「是故空中無色無受想行識」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p137)》
このこころは、右の如く、真空、相なしの上には、生滅の道理もなく、汚れもせず、清まりもせず、増すということもなし。また減るということもなきものなれば、この故に、色受想行識の五蘊も皆無ぞ。無というは、空というこころなり。空とは、有無を離れたるをいうなり。
《引用終わり》

再び、ジェームズ・ジーンズの文章を見てみましょう。

《以下引用(p146)》
現在、科学の目前にある唯一の仕事は、こうした影を研究し、分類し、できるだけ単純な方法で説明することである。そして私たちがこの新しい驚くべき知識の洪水のなかに見出していることは、そう言った影を何よりも明確に、完全に、そして自然に説明する方法は、数学的な方法であるということだ。   ジェームズ・ジーンズ『神秘な宇宙』

…科学が自然(四次元時空)から導き出したものは数学的写像(mathematic pictures)以上のものではないがゆえに彼は、「科学がいまだ究極的リアリティーと接触していないという意味では、それをフィクションと呼ぶこともできる」と言ったが、同時代を生きた科学者であり、哲学者でもあったアーサー・エディントン(1882-1944)は言う。

物質科学の手法を通してなされる外的世界の探求は、私たちを具体的な実在に導くものではなく、ただ象徴からなる「影の世界」に導くのみであって、その背景を見通すにはなじまない。その背景にさらに何物かが伏在するに違いないと感じつつ、私たちは人間意識に於ける私たちの出発点に戻ってくる。そこにこそ私たちは象徴の世界に制約されるものとは異なる衝動の啓示(真実であれ虚妄であれ)とを発見する。   エディントン『科学と見えざる世界』
《引用終わり》

ノンフィクションこそ、最大のフィクション?

《以下引用(p148)》
言うことが憚られるが、新たな発見や学問の発展にどれだけ寄与したとしても、すべては「影の世界」に手を染めたに過ぎないだろう。たとえ再生医療に道を開く最先端技術であっても、それは幻の如く影の如き身体(『維摩経』)の再生に過ぎず、波羅蜜多の意味する、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到る真の再生(復活)に繋がるものではない。真理に真諦(絶対)と俗諦(相対)の二つがあり、前者は世間、事法界、有漏路、生死の世界、後者は出世間、理法界、無漏路、涅槃の世界がそれぞれ対応し、私たちが辿るべきは前者から後者であり、勝義(第一義)としての一真実(真空の実相)である。ではそこに辿りついた仏・菩薩(悟れる衆生)にこの世界(事法界)はどのように映っているのだろう。それは空海の次の言葉に尽きている。

菩薩は一切の法に生を見ず死を見ず、彼此を見ず。尽虚空界ないし十方合して一相とす。   空海『一切経開題』

仏教者は、あるがままに見るとよく言うが、あるがままに「十方合して一相」と見ることができたら、それはもう悟れる衆生(仏・菩薩)なのだ。…私たち衆生の目には、生死をはじめすべての二元性は実際に有るかのように見えているが、勝義としては、即ち悟れる衆生の眼には生も死も、善も悪も、是も非も、美も醜も、愛も憎も重々無尽の一真実(一如)をなしている。
《引用終わり》

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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第二章 色即是空・空即是色」(p99〜151)の「2.真実と虚妄」(p137〜151)を読みました。

『般若心経』の「舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p137)》
舎利子とは、また、問う人の名を呼び出すなり。この諸法とは、前の色受想行識の五蘊を指していうなり。前に説く如く、四大色身、五蘊の諸法、皆元来空なるほどに、初めより生まれもせず、死にもせず、汚れもせず、清まりもせず、増しもせず、減りもせぬぞ。虚空のかたちなきが如しと、懇ろに空なることを示したまうなり。
《引用終わり》

仏教がテーマとしているものを同じくテーマに選んでいる現代の学問は、やはり物理学だと思います。

《以下引用(p144)》
二十世紀の物理学のすばらしい成功は、時間と空間とを接合させた相対性理論でも、あるいはまた因果律を見かけ上否定した量子論でも、あるいはまた物事はけっして見るがままのものではないという発見をもたらした原子分解でもなく、実は私たちはまだ究極の実在に触れていないと一般に認識させたことであった。 ジェームズ・ジーンズ『神秘な宇宙』

…ジーンズも指摘しているように、夙に知られたプラトンの「洞窟の比喩」(『国家』)もそれを謂ったものである。比喩であるから充分意を尽くしていないが、人間は洞窟の中で振り返ることもなく、前方の壁だけを見ている。そして背後から光を当てられると、そこに影が映し出され、狭隘な洞窟の中でひたすらそれを見、「投影された影の他は何も見たことのない人間」がその影に一喜一憂しているというものだ。…

この比喩とは真逆になるが、洞窟の壁に背を向け、光の世界を体験した稀有な宗教者がかつて日本に住んでいた。世俗を離れ、独り山野で瞑想し、終に室戸岬の洞窟に籠り、只管(ひたすら)、虚空蔵求聞持法の修行に励んだ空海である。

心に観ずるとき、明星口に入り、虚空蔵の光明照し来たりて、菩薩の威を顕わし、仏法の無二を現ず。 空海『御遺告』
《引用終わり》

室戸岬の洞窟というのは「神明窟」ですね


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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第二章 色即是空・空即是色」(p99〜151)の「1.華厳の四法界」(p101〜136)を読みました。

『般若心経』の「色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p100)》
色とは、地水火風の仮に和合せる四大色身なり。およそかたちあるものを色というなり。かたちあれば、目にその色々見ゆるもの故に、色というなり。今、この四大色身のかたちあるは、元来空のかちなきところより生ずるほどに、色身は空に異ならずという義なり。さるほどに、この色身まことにあるものに似たりといえども、夢の如くにて、畢竟、空なり。しかるに、凡夫は迷いて、この真空の実相に背きて、空妄の色身をまことにあるものなりと思うによりて、生を好み死を怖れて、種々の苦を受けて、生死の輪廻をまぬかれず。故に、仏これを憐れみて、この色身も、元来不生不滅の真空があらわれたるものなれば、色も空に異ならずと説きたまうなり。さて、この空というものも、色が滅して空となりたるほどに、空も色に異ならぬぞ。かくの如くいうも、また、色と格別なるものを、一つになしたるようにして、隔てがあるに似る間、その色空の二見を離れしめんがために、色即是空、空即是色なりと説きたまうなり。即というは、やがてというこころなり。色の当体が、そのままやがて空なり。空の当体が、そのまま(やがて)色なり。空を離れて色なし、色を離れて空なし。水と波の如し。波即ち水なり、水即ち波なり。さらに二つあることなし。ただ一真実ばかり。これは先の五蘊の中の色蘊の一つをあげて、空に異ならずと説きたまうなり。されば、残りの受想行識の四蘊も、色蘊の如く、皆空と異らぬという義なり。色蘊の一つを以て、残りの四蘊も知るべし。畢竟、皆空なり。
《引用終わり》

不確定性原理だけを見た時は、小さな物を観測する場合でも、光のようなエネルギーを伴うものを照射しなければならないから、そのエネルギーの影響を受けた物しか観測はできないという、観測の限界、ただそれについて述べた原理だと思っていました。

《以下引用(p105)》
科学的客観性についての古典的な理想はもはや支持できない、ということをハイゼンベルグ(不確定性原理の提唱者として、量子力学の発展に寄与したドイツの理論物理学者)以来物理学は知っています。科学の探求は参与するものとして観察者を含み、それゆえ観察者である人間の意識も含みます。(中略)観察者である人間と無縁な客観的な自然の性質というものは存在しない。  カプラ「物理学は神秘主義に向かう」

…もとより仏教は色心不二の立場に立っている。
《引用終わり》

量子力学を学んでいくと、これまでの理論では説明できない摩訶不思議な現象が示されます。

《以下引用(p114)》
論理的思考それ自体が現象の一部であり、完全に現象の中に巻き込まれているから、論理的思考により現象の根源を理解することはおそらく不可能である。(中略)多くの場合、論理的思考によりある程度のところまではいくが、そこでとたんに窮地に陥る。その先はこういった思考方法の延長線上にあるかのように見えるが、そうした思考方法では直接接近しえない領域である。   シュレーディンガー(『量子の公案』)
《引用終わり》

今日でもまだ踏み込めない領域はあるのでしょうが、量子の不思議な特性を利用した量子コンピューターが実用化されつつあるようです。

《以下引用(p125)》
色空、本より不二
事理、元より来(このか)た同なり
無礙に三種を融す
金水(こんすい)の喩その宗なり。   空海『般若心経秘鍵』

「金水の喩」とは「金獅子」と「水波」の比喩を指し、事(獅子・波)と理(金・水)の本性は皆同じ(不二)ということであるが、一般的に華厳哲学で「無礙」というと、事理無礙と事事無礙の二種であるが、空海はそれに理理無礙を加え、事理無礙法界、理理無礙法界、事事無礙法界の三無礙を考えている。理理無礙をいう例として、中国、華厳宗の第二祖・智儼の下で華厳教学を修め、朝鮮・新羅の時代に活躍した義湘(625-702)が著わした『華厳一乗法海図』の中で理理無礙(理理相即)について言及が見られ、私が無礙に三種あるとする彼らの理解に惹かれるのは、悟への階梯を図絵で示した廓庵の『十牛図』の第八図「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」第九図「返本還源(へんぽんげんげん)」第十図「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」がそれぞれ三無礙に相当していると考えるからだ。
《引用終わり》

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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第二章 色即是空・空即是色」(p99〜151)の「1.華厳の四法界」(p101〜136)を読みました。

『般若心経』の「舎利子」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p100)》
これは、仏の八万人の大衆の中にて、智慧第一の弟子なり。さるによって、大衆たちのために惣の名代に、仏に向かい、舎利子、法を問いたてまつり、答をせらるるなり。よって仏、色心不二の御法を説きたまわんとて、その名を呼び出して、告げたまうなり。
《引用終わり》

舎利子は智慧第一の弟子だったけれども、それは文字般若であって、心般若ではなかったのではないか?と著者は書いています。

《以下引用(p101)》
こんな不埒なことを思うには理由がある。それは同じ十大弟子の魔訶迦葉に「拈華微笑(ねんげみしょう)」という逸話があり、ある日の法坐において、釈尊が一言も発せられることなく、優曇華を拈(ひね)って弟子たちに示されたが、だれもその意趣が理解できない。しばし沈黙の後、魔訶迦葉ひとりが破顔微笑するのを見て、釈尊は自ら悟った真理(法)を彼に託したというものである(「世尊、優曇華を拈(ねん)じて瞬目す。時に魔訶迦葉、破顔微笑せり。世尊言く、我に正法眼蔵、涅槃妙心有り、魔訶迦葉に付属す」道元『正法眼蔵』「優曇華」)。道元はこの故事を「以心伝心」と捉え、過去七仏(諸仏)は言葉に拠らず、「拈華微笑」によって悟り、同じことであるが、仏と成り、仏法(真理)は脈々と今日まで伝えられてきたという(「七仏諸仏はおなじく拈華来なり」同上)。
《引用終わり》

確かに、聞かなくとも以心伝心で分かってしまう人は、説明の聞き手としては不適任ですね(笑)。

道元(1200-1253)は曹洞宗、一休(1394-1481)は臨済宗ですが、『正法眼蔵』は読んでいるでしょうね。

《以下引用(p102)》
しかしなぜ私が、あったかどうかも判らない故事にこだわるのかというと、宗教体験(覚醒体験)というものが(もちろんこれがすべてではないが)、どこからともなく湧き起こる破顔微笑を伴う歓喜の体験であると思うからだ。
《引用終わり》

ここは、私もよくわかりません、まだ(笑)。

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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第一章 菩薩―悟れる衆生」(p51〜98)の「2.真我と仮我」(p79〜98)を読みました。


『般若心経』の「度一切苦厄」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p78)》
さてまた、般若の御法を説きて、苦界に沈みたる衆生どもを、救い助けて、生死の此岸より彼岸に到らしむる故に、一切の苦厄を度すというなり。
《引用終わり》

悟れる衆生たる菩薩は「その衆生済度の誓願のあついゆえに、自ら仏となるより先に、すべての衆生を彼岸にわたそうと努める存在である」。

《以下引用(p93)》
生死去来(生死往来)を繰り返している仮我から不去不来の真我(「いにしへの我」)を知った真の宗教者にもし日々の心境などというものがあるとすれば、一休の、

有漏路より無漏路へ帰る一休み
雨降らば降れ風吹かば吹け 『一休道歌』

に尽きるのではなかろうか。というのも、仮の住処(世間)をどう生きるか、その一端を見て取ることができるからだ。
《引用終わり》

智慧によって、生死に住せず、慈悲によって、涅槃に住せず」涅槃に行くのをしばし止めて、世間で一休みする…これが「一休」という名の由来のようですね。

《以下引用(p98)》
真の主人公(真人・真実の我)を知った悟れる衆生はもはや生死の苦界に沈むことがないがゆえに、一切の苦厄(四苦八苦)から解き放たれ、真の自由を獲得した菩薩(観自在菩薩もその一人であった)であるということだ。

しかしそれで菩薩の「行」が終るのではない。廓庵の「入鄽垂手」(『十牛図』)、あるいは親鸞の「還相回向(げんそうえこう)」(『教行信証』)を例に出すまでもなく、自らの体験を踏まえて、般若の御法を説き、生死の苦界に淪む衆生を不生不滅の涅槃の岸へと到らしめ、一切の苦厄を除かんがために、利他の行に努められるのだ。それを「一切の苦厄を度す」(度一切苦厄)という。
《引用終わり》

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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第一章 菩薩―悟れる衆生」(p51〜98)の「2.真我と仮我」(p79〜98)を読みました。


『般若心経』の「照見五蘊皆空」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p77)》
照見とは、照らし見るなり。観念のこころなり。五蘊とは、五つをつつみ集むるこころなり。五つとは、一つには色なり。地水火風の仮に和合したる、色かたちある身をいうなり。二つには受なり。うくると読む。苦楽を受くるをいうなり。三つには想なり。おもうと読む。深く思い尋ぬるをいうなり。四つには行なり。おこなうと読む。五つには識なり。種々の分別をなすものなり。受と想と行との三つも、この識の分別より起こるなり。この五蘊は、畢竟、色心の二法なり。色とは、地水火風の四大が仮に和合して、色かたちのあれば、色法というなり。受想行識の四つは、心のなすわざなれば、心法なり。

五蘊の中に、識というものが、先ず最初に、何事につけても分別を起こすなり。たとえば、苦楽などの事につけても、これは苦なり、これは楽なりと、分別するものは、識なり。さて、分別によりて、楽を楽なりと心に受け入れ、苦をば苦なりと心に受け入れおくを、受というなり。さてまた、その苦楽の事をあいついで、絶えず種々に思い尋ねて止まぬは、想なり。さてまた、思い尋ねて止まず、終にその苦楽などの事を企ててなすは、行なり。そのなすわざの善悪によりて、未来世に、餓鬼・畜生などの悪しき身に生まれ、あるいは、人間・天人などの身を受くるは色なり。即ち色身のことなり。五蘊元来自性なく、四大無主なれども、衆生は愚痴なるが故に迷い、真実にありと執着して、この四大の仮和合の身を我が身なりと思い、受想行識の四蘊を我が本心なりと思い、我が身を愛する故に、苦を厭い、楽を願いて、色々と業を作りて、無量の苦を受く。五道・六道に輪廻して、終に苦厄をまぬかれがたし。しかるに、この観自在菩薩は、般若の深き智慧を以て、生死の苦界を越えて、彼岸に到る法を修行す。時に、五蘊本来空にして、四大無我なることを観念して、諸々の苦をまぬかれたまうなり。
《引用終わり》

一休さんの説明は分かりやすいですが…

《以下引用(p80)》
…一点注意しておきたいことは、仏教はいわゆる心というものを感性(受)、思考(想)、意志(行)、分別(識)の四つ(四蘊)に分け理解しているが、もう一つの心の重要な機能として記憶があり、それは四蘊の中になく、後に記憶の貯蔵庫として取り上げる阿頼耶識の属性である。
《引用終わり》

「仏教入門」の唯識説の章での説明が該当するかと思います。

《以下引用(p82)》
あなたが自分と思っている身心は「父母和合の縁」により、五蘊(色受想行識)が仮に形を結んだ仮初の我に過ぎないがゆえに、実体(自性)を持たない空なるものである。とりわけ身体(色身)は地水火風の四大の仮和合であるがゆえに、いずれ朽ち果てて土(地)に帰る(キリスト教的に言うと「あなたたちは塵だから、塵に帰らねばならない」『創生記』)。しかし、それがあなたのすべてなら、観自在菩薩のように、わざわざ身心を構成している「五蘊は皆空なりと照見する」必要もない。事実は、仮初の我(仮我)の内側に仏と異なることなき不生不滅、不去不来の真実の我(真我)を想定しているからに他ならない。
《引用終わり》

「瞑想の心理学」にも五蘊の仮我について書いてありました。


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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第一章 菩薩―悟れる衆生」(p51〜98)の「1.有漏と無漏」(p53〜78)を読みました。

『般若心経』の「行深般若波羅蜜多時」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p52)》
行とは、修行することなり。深般若とは、深き智慧なり。世間世の常の浅き有漏の智慧にはあらず、真実出世無漏の智なり。漏とは、煩悩をいうなり。有漏とは、煩悩ありという義。無漏とは、煩悩なしというこころなり。有漏の智は、妄想分別なれば、世間の内を出でず。無漏の智は、煩悩妄想を離れて、三界を出離する智慧なれば、出世無漏の智というなり。即ちこの般若の真空実相のことなり。波羅蜜多とは、彼岸に到るという義なり。即ちこの菩薩の修行する法をいうなり。また時とは、この菩薩の般若を修行する時なり。修行すると言えばとて、修行し尽くし、すべきことのなきところに到り得たるを、般若の修行とはいうなり。般若は、畢竟、空なるが故なり。この空の上に修行すべき道理なし。修行すべきことのなきところに到り得るを、修行とはいうなり。これは僧俗の隔てなく、士農工商ともに業体とすべき道を、修行し尽くし、その身の職分、何一つ暗からぬところに到りぬるを示したまうなり。万法出離の修行とは、実に仏・菩薩の上ならでは、成し得がたしといえども、銘々受け持ちたる一業を修行し尽くし、その道に暗からずば、人たるべきなり。時とは、何業にもせよ、学び得べき時あればなり。その習い学び得べき時あればなり。その習い学ぶべき時を、等閑に年老て、後悔すること数多し。若きというとも、時ありと知りたるを、一業の知見というべし。
《引用終わり》

本文には西洋の賢人の名前が散見されます。

《以下引用(p65)》
この空しい希望をたしなめるかのように、ソクラテスはこの世から悪はなくならないと言った。善にはその反対の悪がなければならないというのがその理由であるが、それどころか人間にはどうしても必要であり、「それだからまた、できるだけ早く、この世(此岸)からかの世(彼岸)へ逃げて行くようにしなければならんということにもなるのです。そしてこの“世を逃げる”というのは、できるだけ神に似るということなのです」(『テアイテトス』)とは何という賢者であろう。これはもう若者たちに悪い影響を及ぼすだけではなく、分別あるすべての大人を敵に回すことになるだろう。しかしこれが、今も昔も、生死・善悪をはじめ二元葛藤するこの世(世間)の偽らざる姿であり、ソクラテスの「世を逃れ、できるだけ神に似る」を、仏教的(一休的)に言い換えれば、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到る波羅蜜多(到彼岸)、即ち智慧の完成を通して「生死を離れ、仏となる」(道元の言葉)ということだ。
《引用終わり》

深いです。仏教的です。善と悪を区別する心によって悪は生じます。悪を排除しようとした時点で善は最早善ではない。ソクラテスの偉大さが初めて分かったような気がします。

《以下引用(p72)》
一休は禅家として、この執着(いずれ人我・法我の二つに分けられるが、詳細は第五章)を般若の智慧で以て断ち切り、涅槃の岸に渡ることを説いているのであるが、一方、浄土門を選んだ一遍が妻子も家も捨てたのは、「著」という一字をめぐってよくよく思量した末の結論であったろうが、これはなかなかできないとあなたも分かる筈だ。遠い記憶を遡れば、聖書には「まず神の国を求めよ」(『マタイの福音書』)とあるのに、まず経済的な基盤を固めて、居心地のいい家庭を作り、それから神の国を求める当時の聖職者を揶揄したのは単独者を貫いたキルケゴールであった。最近は彼についてあまり語られなくなったようであるが、僧俗ともども世間(四次元時空)にどっぷり浸かり、過剰に適応している現代人に、生半可な追随を許さない彼の「自己省察」の厳しさに一因があるのかもしれない。
《引用終わり》

キルケゴールについてはこちらも参照。

《以下引用(p73)》
『ダンマパダ』に「心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう」とあるように、修行の初めは私たち自身の心と取り組むことになるが、心は、畢竟、空なるがゆえに(「心とてげにもこころはなきものを」)、最後は悟るべき何もないところ、即ち無心、あるいは空なる心(大心・心空)に到れば、生死の苦界を渡り、(生と)死の束縛から逃れるであろうということだ。これが菩薩の修行ということで、一休は修行すると言えばとて、修行し尽くし、すべきことのなきところに到り得たるを、般若の修行とはいうなり。般若は、畢竟、空なるが故なり。この空の上に修行すべき道理なし。修行すべきことのなきところに到り得るを、修行とはいうなり、と「行」を徹底させることで言えば、世間において一つの道(業体)を究め、職分を果たすことと何ら違いはない(これは僧俗の隔てなく、士農工商ともに業体とすべき道を、修行し尽くし、その身の職分、何一つ暗からぬところに到りぬるを示したまうなり)。

さりとて、自己を含むすべてのもの(万法)が不生不滅、不去不来と悟る万法出離の修行(般若の修行)は、仏・菩薩ならでは成し難く、どの方法(アナパーナサティ、止観双修、坐禅、マントラなど)を選ぼうが、一つを徹底することが大切である(万法出離の修行とは、実に仏・菩薩の上ならでは、成し得がたしといえども、銘々受け持ちたる一業を修行し尽くし、その道に暗からずば、人たるべきなり)。いずれにせよ、心なければ人々観自在の菩薩(悟れる衆生)であり、一休もそのひとりであったが、彼の目に世間の人々はどう映っていたのだろう。

知恵あるは若きも道をつとむるに
老いて菩提を知らぬ愚かさ 『一休道歌』

若者ですら悟り(菩提)の道を歩むというのに、老いてなお菩提の修行する法(生死の苦界から涅槃の楽界に到る法)があるとも知らず、うつらうつらと夢を追い、波々として一生を渡るとは何と愚かなことだろう、と一休は慨嘆しているのだ。しかし機根拙く、また小賢しい小智(分別才覚・世知弁聡)が禍して、どうしてもそれが分からず、死ぬまで世事に明け暮れる。波羅蜜多(到彼岸)の「行」だけではなく、何ごとにも学ぶのに「時」というものがある(時とは、何業にもせよ、学び得べき時あればなり)。しかし、世間の人々を見るにつけ、その習い学ぶべき時を、等閑に年老て、後悔すること数多し。若きというとも、時ありと知りたるを、一業の知見というべし。一休のこの指摘は、時代が移ろうとも、老若ともども、よくよく味わうべきではなかろうか。
《引用終わり》

「若きというとも、時ありと知りたるを」の「時」は、時間ではなくて時機のことですね。

「士農工商」は江戸時代の言葉だと思っていましたが、室町時代から使われていたようです。

私的には、以下の一節がとても気に入りました。空海の修行観と読み比べてみたいところです。

修行すべきことのなきところに到り得るを、修行とはいうなり、と「行」を徹底させることで言えば、世間において一つの道(業体)を究め、職分を果たすことと何ら違いはない(これは僧俗の隔てなく、士農工商ともに業体とすべき道を、修行し尽くし、その身の職分、何一つ暗からぬところに到りぬるを示したまうなり)。

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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第一章 菩薩―悟れる衆生」(p51〜98)の「1.有漏と無漏」(p53〜78)を読みました。

『般若心経』の「観自在菩薩」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p52)》
これ即ちこの般若を修行する菩薩なり。般若の智慧を以て、自心の本より清浄にして、煩悩の汚れを受けず、不生不滅、不去不来、空なることを観念して、一切のものにさわらず、自由自在なり。たとえば、万物の虚空の中にあれども、虚空をさえざるが如し。菩薩とは、悟れる衆生というこころなり。心空を悟って、空に止まらざるを、菩薩というなり。さるほどに、心なければ、人々皆観自在なり。外を求むべからず。
《引用終わり》

菩薩という言葉の由来については本書でも説明がありますが、このブログでも書いたことがあります
ところで、観自在菩薩とは誰なのか?

《以下引用(p53)》
題号の説明(概説)を終え、本論に入る前に、仏教経典は釈尊(仏)ご自身が説かれた教えであることを示すレトリックとして「如是我聞。一時、仏……」(是の如く我れ聞けり。一時、仏……)から始まるのが一般的であるが、『般若心経』にそれはなく、「観自在菩薩」から始まっている。しかしこれは玄奘訳『般若心経』の場合であり、法月訳の『普遍智蔵般若波羅蜜多心経』を見ると、例によって「如是我聞」から始まり、一時、仏(釈尊)は王舎城の霊鷲山中で多くの弟子(聴衆)たちに囲まれ、まさに説法が始まろうとしていたその時、観自在菩薩が座より立ち、私に「般若波羅蜜多」を説かせて下さいと釈尊に願い出たところ、それを認められた観自在菩薩は三昧(瞑想)の功力によって、身心を構成している色受想行識の五蘊は皆空なりと照見し、舎利子(舎利弗)をはじめ多くの人々に説かれたのが『般若心経』ということになっている。しかし一休の提唱では、釈尊が説かれたことになっているため、今後、多少の齟齬が見られることを初めにお断りしておきたい。
《引用終わり》

観自在菩薩=釈尊という解釈は若干無理があるような気がしていました。ただ、そこは重要なポイントではないですね。

《以下引用(p63)》
このように、生死に迷う私たち衆生が教え(法)に導かれ、此岸から彼岸へ悟りの道(般若波羅蜜多)を辿ることを決意し(菩提心を起こし)、自心は元より清浄・空なるものと悟って、涅槃の岸に辿り着いたものを菩薩(悟れる衆生)というが、それにつづいて心空を悟って、空に止まらざるを、菩薩というなりとあるから、まず自心は本来空(心空)と悟り終えて、心だけではなく、すべてのもの(一切の諸法)が皆空にして、元より生じもせず、滅しもせずという道理を悟って、涅槃に到ることになるが、そこで終わるのではなく、なお修行を重ねて究竟覚(究極の悟り)に到るまでの間を一休は、厳密な意味で菩薩と考えているようだ。

この背景にあるのは『華厳経』(「十地品」)に菩薩が仏の境界を目指して歩むプロセスに十の階位(十地)があり、歓喜地(入初地)から始まり最後の法雲地(究竟覚)に到って、修行は円満成就するというものだ。そうすると、初めの悟り(心空の悟り)を唯識学派の五位(五道)で言えば見道位(入初地)、華厳の四法界で言えば事理無礙法界、廓庵の『十牛図』で言えば第八図の「人牛惧忘」、悟元老人で言えば「元関の一竅」(有無相入)、親鸞で言えば、現生に不退の位に住し、菩薩(弥勒菩薩)と同じ位に定まるところ、ということになろうか。
《引用終わり》

菩薩に関しては、別の説明も以前取り上げています

《以下引用(p66)》
悟り(それはまず心空の悟り)とは何かを、一休の提唱に沿って、最もコンパクトに纏めれば、「心を尽くして、心を知る」(小心を尽くして、大心を知る)となろうが、さらに言うと、有漏の心(有心)を尽くして、無漏の心(無心)を知ることであり、いずれも前者は人それぞれ違いがあるものの、後者は私たちのだれもが本来備えている本心・本性である。それゆえ一休はさるほどに、心なければ、人々皆観自在なり。外を求むべからずと言ったのだ。心を尽くして、心が本来空である(自心はもとより空にして、生ぜず滅せず、畢竟、空なり)と知ったものが悟れる衆生、即ち観自在の菩薩であるということだ。
《引用終わり》

「心なければ」の心は、小心、有心の方なのですね。

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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「序章 『般若心経』概説」(p1〜50)の「5.文字般若」(p44〜49)を読みました。

『般若心経』の「経」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p3)》
経とは、ことばに表わし、文字に書き写したるを、心経というにあらず。この経は、即ち自心を指していうなり。文字に書きたるは文字般若なり。自心を離れて、外に文字にて書きたる経を求めなば、これ即ち愚痴の心なり。般若の智慧に背くなり。この愚痴の心を起こさず、本来空なることを悟れば、念々皆般若経なり。ただ口に説くばかりにて、心般若ならねば、隣の宝を数えるが如し。仏、この経を説きたまうことは、般若本覚の智慧を以て、一切の衆生をして、妄心・妄念を除き正さしめ、生死大海のこの岸を別れて、不生不滅の涅槃の彼岸に到らしめ、衆生をして、本心・本性を見せしめんがためなり。この故に、般若波羅蜜多心経と名づくるなり。
《引用終わり》

真如を言葉で表しきれるのかどうか、と問われれば答えはNoでしょうこれを離言真如と言いますが、これを頭に置いた上で、他に術もないので私たちは言葉で説明を試みます。これが依言真如これを井筒先生も説明を試みておられました

これは、因分可説・果分不可説とも言われます。密教は果分可説を主張し、言葉や仏像による表現を認めていますが、言葉や仏像をきっかけにして自心を見つめることが不可欠となっています。

微妙に表現は違いますが、同じことを言っているようです。

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