トトガノート

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Category:★仏教 > 「人間の運命」

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第9章「創造する精神」を読みました。

この章の初めで、「絶対的な善がある」ということが力説されています。私は、善は相対的な概念だと思っているので、どうも理解に苦しみます。ただ、「絶対的」といっても個々の事例において自明の方向性がはっきりと見つかるものではないようです。それは下の記述から分かります。

《以下引用》…人間の進化が続くのは、もちろん脳と伝統のおかげである。だが、大脳の機能は多様であり、真の進化とは違う方向にそれてしまうことがある。…知性とは、それ自体が目的とみなされた瞬間に価値を失う。…人の努力は、自己の向上を目的としなくてはならない。人は、もはやこれまでのように動物から受け継いだ本能に対してだけではなく、人間自身の心の病の結果として、また伝統それ自体の結果として、みずからが生み出した習慣に対しても戦いを挑んでいくことになる。言い換えれば、人間の戦いは、その戦線が縮小されるどころか、人間の知性の発達とそこから創造されたものとによって、さらに複雑になってきたのである。…《引用終わり》

これに毒されていないのは、「わずかに回教徒ヒンズー教徒のように信心深く、ときには狂信的とさえいえる人々」というのもどうかと思いますけど…筆者が現代の文明が間違った方向に来ているという考えであることは分かります。

《つづく》

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第10章「「自己改善」の手段としての文明」を読みました。

《以下引用》…文明の真の目的は、物理的な努力を軽減するような、珍妙な機械を考え出すことではなく、あらゆる方法で人間の自己改善を助けることであるべきだ。そうしてこそ文明は進化のメカニズムとなり、持続していく。なぜなら文明の堅固さは、すべての個人個人の力が組み合わされるかどうかにかかっているからだ。文明とは、外側からではなく、内側から作り上げられなくてはならない。機械の発達や技術的な解決に頼る文明は、なんであれ、必ず失敗を招くのである。…《引用終わり》

現在でも十分通用する警鐘のように思います。この文に第二次大戦の反省も入っているとすると、我々はあの大戦でやはり何も学べなかったのかもしれない。

《以下引用》…人間はみずからを束縛から解放しなくてはならない。この束縛は、動物にとってはあたりまえであり、だからこそ人間にとっては悪なのである。人間がみずからの目的を達するには、肉体の完全な支配が必要とされる。その目的は、いかなるかたちの隷従とも相容れない。だが、もしもこのような本能―動物との心理学的な血縁関係に由来する本能―が克服されれば、それは、もはや恐れるにたりなくなる。恋愛、飲食、娯楽は、節度を守るかぎり、それ自体なんら非難されるべき行為ではない。この「節度」という言葉は、良心、つまり人間的尊厳の意識という調節弁を意味する。不節制とは、まさにこの調節弁が壊れ、野獣性が勝利をおさめることにほかならない。…《引用終わり》

こういう説教を聞かされたのは、小中学生のころかな…でも、大事なことなんだな…

《以下引用》…終局的究極目的論でいう道徳性は、人生から満足や健全な楽しみを奪うどころか、逆に真の人間としてふるまったり欲望や本能への隷属を脱したりすることによっていっそうの満足を与え、人生を豊かにしてくれる。この自由の感情は、みずからが進化の発展に貢献しているという確信と結び付いて、人間に無尽蔵の喜びの源泉をもたらしてくれるにちがいない。この喜びは、人間の生理学的な性向や健康状態とは無関係であるため、他の喜びよりも深く、長続きしていく。…《引用終わり》

人類の進化を背負って日々行動するということか…重いな…

《つづく》

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第11章「人間の知性が「本能」を克服するとき」を読みました。

私はどうもしっくり来ないのですが、人間の知性は動物の本能や知性の延長ではないということをこの章でも強く主張しています。それを顕著に示す例が、人間のみが持っている抽象的概念だそうです。

《以下引用》…たとえば子どもが使う丸いボールを例にとってみよう。…動物は、ボールに対する自分なりの「定義」にすっかり満足する。この定義は、その動物がボールから期待するものと一致しているし、おそらくは子どもや原始人がくだす定義と違ってはいないだろう。
 ところが知性をもつ人間は、ボールの特性をいくら言葉で言い表したとしても、そんな定義には満足しない。動物と人間の二種類の知性のあいだに根本的な差が生じるのはこの点だ。
 人は、現実のボールをもとに、幾何学的な特性を備えた理想のボール、ただしその特性が限界にまで突き詰められた絶対的に完全なボールを想像すること、言い換えればそのようなボールを創造することからはじめる。人はその理想のボールに、形状にまつわる特性だけを与え、ボールの実体、つまり色や硬度、重さ、弾力性などに関する特性は排除する。と言うのも、このような特性は、別の形をした他の物体にも見られるからだ。…そして人は…最後に、この新しい対象を完全に「理解する」ために、大きさも質量ももたない目に見えない要素を考案する。この要素はこれまで一度も存在せず、いまも、そして今後も現実に存在することはないが、球体を定義するには絶対に欠かせない要素であり、それなしに球体を思い描くことができない。この奇妙な要素が「中心」である。そしてこの「中心」という人間独自の考え方が、抽象的な観念にほかならない。《引用終わり》


でも、やっぱり動物の知性の延長ではないという根拠にはならないと思うんだな…。子供は動物と同じなんでしょう?大人の知性は子どもの知性の延長ということにはならないのかな…?

《つづく》

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第12章「迷信の功罪」を読みました。

野獣はすべて火を恐れる中で、人間だけが火を支配下に置くことができました。

《以下引用》…恐怖がその心理学的な反応を妨げる壁とはならなかったという点で、原始人は、動物と決定的に違っていた。彼だけが、その壁を越えて進んでいける脳をもっていた。炎の支配に成功した後、彼は経験という限界の外側に、超自然的でしかあり得ないような起源を考え出し、その起源に現実的な人格を授けた。すなわち、つくりものではあるが強力な、新しい存在を創造し、怒りや憎しみ、嫉妬など、あらゆる人間的な感情をつけ加えたのである。これが最初の神だったかもしれない。《引用終わり》

この段階での神は完成されたものではないので、これを崇拝することも宗教とは呼び難く、迷信と呼ぶべきであるという内容です。動物から人間へ至る過程と同じように進化と適応の原則の下、迷信も進化したり適応してしまったりした中から、宗教と呼ぶべきものが誕生した…という考え方。

そしてこれまた、動物と人間との間に完全な一線を引いたように、迷信と宗教との間に一線を引いています。そして、この宗教とはキリスト教のみを指していることは間違いないようです。

でも、自分たちと他者とを完全に区別すること、自分たちの思想・信条が他者のそれとは完全に別物で、しかも自分たちの方が絶対的に優れていると信じることが危険であることに気付いていないようです。

その考え方を拡大していったときに、論理の上では矛盾が生じ、人間社会の中では軋轢が生じる。この本の著者は、そこまで気付かないレベルの人なのだろうか?

《つづく》

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第13章「宗教―自己を高める「努力の価値」を確信するために」を読みました。

《以下引用》…さまざまな宗教は、その形式や礼拝の具体的な詳細、象徴に対する人間的な解釈の面では互いに対立している。だが神の存在、美徳、道徳律については、どれもが一致する。純潔や善、美、信仰はいたるところで敬われているし、こういうものこそがすべてを支配すべきなのである。したがって、物質的な偶然性から解き放たれ、高遠な理想をめざす無私の努力の必要性を認めている教義に対して、非難を浴びせることはできない。人は、自分の内にあるものを発達させ、みずからを浄化し、改善し、キリストという完全な理想へ近づくことが大切だという点を理解しなくてはならない。そのほかのことはすべて二の次なのである。…《引用終わり》

美徳・道徳律などは各宗教とも共通する部分は多いかもしれません。が、「どれもが一致する」というのは言い過ぎのように思います。少なくとも「キリスト」という部分は共通ではない!

《以下引用》…どんな宗教を信じているにせよ、わたしたちは、谷底にいながら、他の峰々を圧してそびえる雪をいただく山頂へ登ろうとする人々に似ている。だれもが同じ目標に目をすえており、きわめるべき山頂が一つしかないことでは一致している。ただあいにく、たどる道がそれぞれに違っているのだ。…宗教は形式がさまざまに異なり、外的条件の制約を受け、風土によっても違いが生じ、土地がらや民族や伝統に適応しているが、そのすべては一つの普遍的な法則のもとにおかれている。超自然的なものから生まれたこの法則が、各宗教の存在理由となっているのだ。不寛容は、無理解の証しである。…《引用終わり》

山の例えに似たものを自分も以前書きました。目指すものが同じであるということについては、少なくとも釈尊はかなり慎重であったようです。みんな同じものを目指していても、その目標がみんなの目に同じように見えるとは限らないのではないか?

この本は、かなり強引というか…不寛容さを感じます。

《つづく》

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第14章「「神」と人間のあいだで」を読みました。

《以下引用》…イスラム教徒は思想に対して非常に大きな不信感をいだき、強制的なきびしい修行によって、ものを考える力を捨て去ってしまっている。…《引用終わり》

これはイスラム教徒ではない私でさえも非常に不快を感じる文章です。自分たちの神を崇拝し、仲間内で盛り上がるのは結構ですが、他人の神様にケチをつけるのはいかがなものでしょうか。この著者は、他の宗教に関して、ものを考える力を捨て去ってしまっているようです。

《以下引用》…きわめて優秀な頭脳を持ち合わせた人々の一部には、もう一つの反論が深刻に受け止められているらしい。それは、人間に危害を加える無用このうえない生物の存在を神がなぜ許しているのか、という反論だ。つまり、ガラガラヘビや黒後家グモ、マラリアの媒体であるハマダラカ、恐るべきライ病菌、種の存続を脅かす梅毒の病原菌はなぜ存在するのか、こういうたぐいのものは、すべて神のもつ善意と両立しないではないか、と言うのである。…《引用終わり》

これに対する説明はこうです。

《以下引用》…もし、ある最高の力が真実の諸法則を「創造した」という事実を受け入れるならば、これらの法則がいったん形づくられると、みずからその機能を果たしていく、という事実をも受け入れなくてはならない。言い換えれば最高の力自体でも、さまざまな現象がこうした法則の定める方向に展開していくことを食い止められないのだ。さもなければ、法則などもはや存在せず、気まぐれだけが残ることになる。…《引用終わり》

これは全然納得できません。諸法則が実行されていくとモンスターを生み出してしまうという弊害があるのなら、そんな法則は最初から創造しなければいい。そんな言い訳は神ならぬ身のみができることなのであって、そんな法則を創造してしまうのであれば全知全能の創造主ではないということになります。

私は、道徳という分野に関してさえも、絶対的な善悪の判断基準というのは無いと思っています。まして、科学者が生物を善玉と悪玉に分類するなんて、正気とは思えません。

これについては、明日、もう少し書きたいと思います。


《つづく》

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第15章「人間の進歩・幸福に不可欠な「徳育と知育」」を読みました。

《以下引用》…これまで考慮の対象にならなかった重要な経験的要素として、時間の心理的な価値がある。幼年時代とそれ以後の時代とでは、時間の価値は同じではない。子どもにとっての一年は、生理学的にも心理学的な面でも大人の一年よりはるかに長い。十歳の子どもの一年は二十歳の大人の二年分に相当する。年齢がもっと低くなれば、この差はさらに大きくなる。
 三歳から七歳のあいだに流れる時間は、大人で言えば、おそらくは十五年から二十年にあたるだろう。ところで、将来の人生に起きる、あらゆる出来事に対応していくための精神的枠組み、とくに自分の道徳律を子どもが築き上げるのは、まさにこの時期と言える。だからこそ、生まれて数年のあいだに、かなりの量の知識が蓄えられていくのだ。親や教育者は、ぜひこの点を肝に銘じていただきたい。…《引用終わり》


著者のご専門はまさにこの部分です。生理学的時間を算出する方程式の考案者なのですから。そんなわけで、ここはメモらせていただきました。この定量化が妥当かはわかりませんが、早い時期の教育がいかに有効であるかは、子どもに接していると毎日気づくことがあります。

《以下引用》…基本的な原理は一つであっても、その提起のしかたや展開の方法は、学ぶ側の器にあわせなくてはならない。学ぶ側には、「教えの精神」を汲み取ってもらわねばならない。同じ言葉を使ったからといって、ポリネシア人や高校生や大学生に同じ結果をもたらすとはかぎらない。…《引用終わり》

この本は異教徒や途上国の人に対して侮蔑的な表現が多く、とても気になります。その辺は目をつぶって上の文章を読みますと、これって「方便」だよね!と思いました。

《つづく》

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第16章「新しい「人間の運命」の始まり1」を読みました。

《以下引用》…まずはじめに、否定しがたい五つの基本的事実が存在することを確認しよう。それは、
1.ごく単純な有機体によって代表される生命のはじまり
2.しだいに複雑な形態へと向かう生命の進化
3.最終的には人間とその脳へいたる進化の長いプロセス
4.思想と道徳的、精神的観念の誕生
5.地球の各地に見られるこれらの観念の自発的、独立的な発展
の五つである。
…《引用終わり》


まあ、ここまではいいでしょうかね…

《以下引用》…しかしながら生物の進化は、全体として眺めたとき、無生物を対象にする科学とはまったく矛盾している。つまり、偶然の法則にもとづく科学のかなめである熱力学の第二法則と一致しないのだ。したがって、進化の「理由」、そして進化という事実さえも現代科学の領域には入らない。このことは、世界のどんな科学者も否定できないのである。…《引用終わり》

この人は、この辺から間違ってるかな…
熱力学の第二法則は、科学の中に多々ある法則の中のひとつでしかなく、かなめとは言えないと思います。

これを根拠に、物質と生物の間に越え難い境界線を引き、獣と人間の間にも境界線を引いたようです。人間の心の中にも境界線を引き、善と悪とを区別しているようです。

そして生物の中でこの先も進化し得るのは人間であり、人間が進化し続けるためには自分の中にいる獣(=悪)と闘わなければならない。

この区別することで成り立つ哲学は危険だと思います。区別は差別と本質的には変わりがないから、自分の中の悪と闘っているうちはいいのですが、他人に悪のレッテルを貼って闘うことにも成りかねない。この人の考えだと、「動物と闘うことは聖戦」ということにもなりかねない。

だから、著者が言うように、これから進化していくことが人間の責務であるとしても、善悪の区別から全てが始まるような哲学を選んではいけないのではないかなと思います。善悪の区別を超えた哲学が無いのなら仕方ないですけど。

《つづく》

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第17章「新しい「人間の運命」の始まり2」を読みました。

《以下引用》…自然の征服に見られる長足の進歩も、それに呼応する道徳的な発展がなければ、わたしたちが当然望んでいる幸福をもたらすことはないだろう。現代社会において、この道徳的発展は、合理的なもの―科学―と、非合理的なもの―信仰―すなわち予測可能なものと予測不能なものとの統一や調和のうえにのみ成り立つ。それはまた、物質と精神とのさまざまな関係の解明、および自然進化において本能の奴隷となっている動物と、自由にふるまえる人間との役割の区別のみを土台として成り立っている。こうした解明や区別こそが本書の目的であり、そのためにわたしたちは、進化の未来が人間の手中にあること、そしてそれが精神の未来と同一であることを明らかにしてきたのである。
 このような考察は、すでにふれたように、少数の人々にとっては役立つだろうが、無意識のうちに基本的、絶対的、超人的な真理を求めている大多数の人間を満足させるにはいたらない。今後も長いあいだ人間は、平均的に見るならば、日常生活のおこないと、進化において責任ある行動をとるという任務とを調和させることは不可能だろう。
…《引用終わり》


この著者は「このような考察」をしてきたわけですから、「少数の人々」に自分が属すると思っているのでしょうが、「無意識のうちに基本的、絶対的、超人的な真理を求めている大多数の人間」の方に属しているように私には見えます。

道徳というものが大切であることに異論はありませんが、宇宙の中ではとんでもなくちっぽけなローカル・ルールであることは疑いようがありません。人間の歴史という時間軸で見つめても、その時代時代に通用するものをその都度作るべきもので、要するにローカル・ルールであることに変わりはない。

ただ、その中から、普遍的な要素は抽出できると思います。それを土台として、時代に合わせたリフォームを繰り返していかなくてはいけない。だから模索する人間の苦悩は永遠に続くことでしょう。でも、うまく抽出することで、その苦悩を最小限にすることはできるんじゃないかな…と思います。

科学者の割には宇宙的視野が狭いように感じるのですが、考えてみるとこの本はガガーリンの「地球は青かった」よりも昔に書かれているわけだから、仕方がないのかもしれません。まだ天動説を信じているということは無いにしても、ガガーリンの後に、地動説は格段に説得力を増したでしょうから。

《つづく》

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第18章「新しい「人間の運命」の始まり3」を読みました。

《以下引用》…なによりも、次の点を忘れないでいただきたい。
 神の火花は人間に、自己の内部にのみ存在する。それを軽蔑するのも消し去るのも、あるいは逆に、神とともに働き、神のために努めたいという熱意を示すことによって神へ接近するのも、すべてわれわれ自身が選び取ることなのだ、ということを。
…《引用終わり》


キリスト教でない人は、「神」を何か素晴らしいものに置き換えるといいのかもしれません。でも、人間にしかその資格がないような言い方は、やっぱり受け入れがたい。

この本は、最初は、人間が何事にも適応できない存在、いわば究極の劣等生のような言い方から始まっていて、そこが私としてはたまらなく好きでした。「だからこそ、頑張り甲斐があるんだぞ」みたいなところが。

でも、途中から、「人間だけが凄いんだぞ!」という話になっていき、とても不快でした。この不快感は、アドルフ・ヒトラーの「わが闘争」を読んでいたときに似ている。上下巻揃えて読み始めたのですが、気持ちが悪くなって、上巻を少し読んだだけでやめてしまいました。

一般に、似た者どうしの争いほど性質が悪いものはないように思います。同じものに固執するから争いになります。固執する己と闘わなければいけないのに、固執する他者と争ってしまう。戦争はそういうことなのでしょう。

連合国の側にも、自民族至上主義があり、人種差別があり、それを他民族に押しつけようという固執があったんだな…と、本の主旨とは関係ないことをつくづく感じてしまいました。

NHKの「JAPANデビュー」も賛否の声は多々あるようですが、列強の帝国主義に染まり、同じ固執をしたことは誤りだったんだなと思います。

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