トトガノート

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Category:★仏教 > 「密教概論」

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昨年、人間としての自分を高めたいという欲求が増してきたのですが、高めるにも方向性がわからない、どっちが上かわからない、目標が決められないと悩みました。

自分が尊敬する人物像というのは昔の日本人の中にありまして、何か漠然としたイメージを目標とし、標語のようなもの作って毎日唱えようと思い立ちました。それって毎日お経をあげる昔の年寄りに似ているなあということになりまして、だったら自分が好きなお経を見つけてそれを読経すればいいな、ということになりました。

それで、最初に取り掛かったのが般若心経。「空」の概念は正確に説明することはできませんが、好きな考え方です。般若心経を暗記している頃に、ある方のブログを拝見していて、自分が求めているものは真言宗と多く重なるようだと感じました。

私の家は浄土宗なのですが、「南無阿弥陀仏」ととにかく唱えなさいという教えです。法然上人の言葉の中には、小難しい勉強なんかしなくていいというニュアンスが含まれていて、物足りなさを感じていました。現世を諦めているような気がする。

日蓮宗系の方にもご縁がありまして、身延山に行ったこともあります。法華経の現代語訳も簡単なものを読み、感想はこのブログにも書いています。でも、自分が求めていることは法華経には書いてありません。

禅にも興味がありまして、禅寺で座禅したこともあります。禅問答の本なんかも読んでみたいと思っていたのですが、「禅問答はただ消耗するだけだ」みたいなことを養老孟司さんが書いているのを読み、手が出なくなってしまいました。

さて、今度は密教概論です。ちゃんと理解するまでには何度も読み返さなければいけないようですが、まず一度読んでみなければ話になりませんので、挑戦してみます。

《つづく》

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第二章の教判論を読みました。

釈迦教(釈迦牟尼仏を本尊・教主とする)、弥陀教(阿弥陀仏を教主とする)、大日教(大日如来を中心とする)という分類を恥ずかしながら初めて知りました。同じ仏教でも、拝んでいる対象が違っていたとは、ちょっと驚きでした。

釈迦教は小乗仏教,法相宗,三論宗,天台宗,華厳宗,禅宗,日蓮宗。弥陀教は浄土教の諸宗派。大日教は真言宗。

弘法大師が創作された十住心は、凡夫,声門,縁覚や、法相宗,三論宗,天台宗,華厳宗、そして真言密教を分類・ランク付けしたもののようです。まあ、ひとつひとつ修行して階段を上っていくというものでもないのでしょうね。そうだとしたら、次々と宗派を変えていかなければならなくなる。

私の場合は凡夫の中でも、宗教的に目覚めて第一歩を踏み出した段階(第二住心:下から2番目)というところでしょうか。まずは十善戒を守るよう頑張ってみたいと思います。

《つづく》

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第三章の教理論の前半(六大体大論,四曼相大論)を読みました。宇宙の構成要素をどう分類するかというのお話です。

六大体大論は、地・水・火・風・空・識の6つに分類しています。古代ギリシアと同レベルという印象を受けますが、これは元素に対応しないじゃないか!という捉え方をすべきではなく、概念的に捉えるべきなのだろうと思います。現代科学ですら最も小さい構成要素だと思っていた原子よりも小さいものを発見して困っているのですから。素粒子よりも小さい物があって、それがこの6つ対応しましたぁ〜なんてことが今後あるかもしれない。

大切なのは、6つの要素が互いに行ったり来たりする無尽円融の関係だという捉え方だと思います(というか、私が特に興味を引かれたということですが)。そういう普遍性を持ちながらも、それぞれが特殊性(地は地、水は水の性質を失わない)をも備えているということ。この考え方、とても好きです。

四曼相大論では、曼荼羅を4つに分類(大曼荼羅・三摩耶曼荼羅・法曼荼羅・羯磨曼荼羅)しています。狭義では仏像や仏具、経典、などを指すようですが、広義では山川草木、あらゆる言語、など全てのものがいずれかの曼荼羅に分類されるということです。

これは、この世のありとあらゆるものが曼荼羅であり、神聖なもの(仏性があるというのかな?)であるという捉え方だと思います。こういう考え方が浸透すれば、環境破壊もなくなるのでしょうけど。

つづく

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第三章の教理論の後半(三密用大論,阿字体大論)にあたります。

三密用大論は、我々の行為・行動に関することのようです。仏教では三業と言って身口意に分類しますが、密教ではこれを三密と呼んでいます。

身密は宇宙の全体的活動であり、口密(語密)は宇宙のあらゆる言語・音声の活動であり、意密(心密)は宇宙のあらゆる精神活動です。修行を積めば、すべての挙動・言動・思考が崇高なものになっていくのですが、初心者の段階では手に印を結び、口に真言を唱え、精神統一を心がけよ!ということのようです。

阿字体大論を基に弘法大師が発展させたのが六大体大論だという位置づけのようで、真言宗として後者のほうが大切なようです。ただ「阿」の一字にすべての意味を持たせたことが便利な場合も多いということなのか、ここで取り上げられています。

ここで本不生という言葉が出てきまして、阿字の十通りの意味が説明されています。大切な事柄が総括されているようなのでここに紹介したいのですが、本文をそのまま載せることになってしまいそうなので(削ったり付け足したりできるほど理解できていない)、諦めます。

本不生という文字を見ると、ビール(本生)が飲みたくなります。まだまだ修行が足りません。

《つづく》

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第四章仏身論第二節「大日如来論」まで。

五智や四(五)種法身について語られています。興味深かったのは、釈尊と大日如来の関係について。つまり、大釈同体説か大釈別体説か。

他の宗教でもこれと似た議論はあると思います。教祖と神(のような存在)との関係。同じとするか、別だとするか。

これは飽くまでも私の好みの問題なのですが、別にして欲しいな…と思っています。教祖は飽くまでも我々と同じような人間であって欲しい。物凄い超能力を持った天才だった!と言われると、どうもリアリティがなくて信仰する気が湧かない。

釈尊に限らず、教祖さまが生まれるずっと前から宇宙があったわけで、大宇宙の中のちっぽけな銀河系、その中のちっぽけな太陽系、その中の一惑星にポツンと生まれ落ちた一人の人間が、大宇宙全てを統括するような偉大な存在だ!と唱えるのは無理がある話です。

大宇宙全てを統括するような法というのはずっと前から存在していて、その全てを人間が理解するということは不可能なのだけれども、一番近い線まで気づいた人(理解できた人)が教祖さま!という説明の仕方が一番いいと思う。

これを仏教でいえば大釈別体説ということになります。この立場を取るのは真言密教だけだと思います。私が真言密教をお気に入りにしている理由のひとつです。

《つづく》

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第四章第三節の「本地身と加持身」を読みました。

密教の教主たる大日如来は本地身か?加持身か?という内容です。古義真言宗(自証説学派)と新義真言宗(加持説学派)が論争を続けているテーマだそうです。

眉間にしわをよせて、ひととおり読んだのですが、よくわからない。そもそも本地身と加持身の言葉の意味がわからない。この2つの最重要単語をブラックボックスのまま読み続けるのは、すごく頭のトレーニングになったような気がしました。

高価な大辞典を買う余裕もないので、ネットで調べてみました。本地身は「本源の姿」、加持身は「救済のための具体的姿」。全く同じではないのかもしれませんが、法華経では本迹二門と言って、どちらの姿で説かれたかによって、本門(本体の教え)と迹門(仮の教え)という区別があるようです。

和光同塵と言って、俗人のところまでレベルダウンして下さった姿が加持身。ということになると、どちらにしても私が直接お世話になるのは加持身の方で、本地身は遠くから仰ぎ見るしかなさそうです。甚だ失礼ですが、私のレベルではどちらでもいいことですね…

著者は「本加二説の止揚によって、そこに初めて密教の教主の真相を見出すことができる」
とまとめています。私の場合は「止揚」というより「どう止揚」ですけど。

こんなことも知らないで本地垂迹説を語っていたというのはお恥ずかしい限りです。

ともかく「ひとつ」をもととして、この世の全てが具現化したものだという考え方は好きです。その「ひとつ」を大日如来と呼ぶのが真言密教ということですね。

《つづく》

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第四章第四節の「両部曼荼羅」を読みました。

金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅について説明してあります。前者は金剛頂経、後者は大日経の内容を図示したものということです。お経の内容と照らし合わせていくのも一興だと思いますが、今のところは図の構成を追うのがやっとです。

仏教芸術ということになるのでしょうが、LSI(電子回路)設計のときに描いたブロック図を思い出しました。設計仕様をもれなく盛り込むために、全てを一望できる図としてまとめるものです。全ての内容をイメージとして頭の中にしまいこむには、こういう方法が有効です。大切なお経の内容を頭の中に取り込もうという執念のようなものを感じます。

金剛界曼荼羅には、向上門(成仏の流れ)と向下門(仏が化他に出る流れ)があって、俗な言い方をすると双六のようでもある。エンジニアとして見れば、これはフローチャートですね。

現代のことにも応用できるテクニックが密教の中に含まれているように思いました。真言密教はいろいろな意味で盛り沢山な内容です。

《つづく》

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第五章「成仏論」の第一節「序説」と第二節「成仏への道」を読みました。

自己が自己に対して抱く矛盾による悩みは、人間として逃れられない宿命なのでしょう。その苦しみから這い上がろうとする気持ちが宗教的回心(発心)へとつながれば良い。

肉体的存在(因果に支配される自然的存在)と精神的存在(自由を求め因果の束縛から脱却しようとする価値的存在)という自己の中にある矛盾。そこでどんどん落ち込んでいくのではなく、そこを出発点として立ち上がるところに意味がある。それが言わば、人として「生きる意味」なのでしょう。

仏教では、発心あるいは発菩提心と呼びます。龍樹によれば菩提心は3つに分類されます。1は勝義心。一切の哲学や宗教の価値を批判し、智的に真の宗教思想を見出す心。自利のレベルです。2は行願心。一切衆生を我が身のように見て、普く救済しようという心。利他のレベル。3は密教独自のもので三摩地心。凡夫即仏の立場で実の如く自心を知るということ。

高校の倫理社会とか哲学は(難解なれど)面白かったのですが、勝義心のレベルで終わっているように思います。知情意として分類するなら知だけであり、自分だけが理解し高まればいいという感じがする。もちろん、深く勉強すれば更に深い境地はあるのかもしれないけれど。

真言密教にあっては、最初から智だけではダメで、実践が伴わなければダメ!ということが最初から声高に書いてある。智(頭デッカチ)は低いレベルに分類されます。そこが哲学と根本的に違うような気がしています。

《つづく》

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第五章「成仏論」の第三節「成仏への方法」と第四節「成仏への階梯」の前半を読みました。

第三節では、三句(因、根、究竟)の思想が紹介されています。因は、宗教を目指す始まり心です。自分で勉強し修行し向上していく姿は立派なわけですが、それだけでは自己満足で終わってしまいます。根は、大衆みんなに御利益があるように願う、利他の心です。この自利と利他が二つセットで 究竟となる、と説いています。

第四節前半は、三劫と六無畏について。三劫は煩悩を分類したもので、六無畏は菩提心を分類したものだそうです。これは前出の十住心にも対応付けられます。

深い精神分析と、実践重視の理念と、整然とした体系…唸らずにはいられません。

《つづく》

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第五章「成仏論」の第四節「成仏への階梯」の後半と第五節「即身成仏」を読みました。

第四節後半は、十地について。三句で言うと究竟、十住心で言うと第十住心に配されていて、十の波羅蜜に対応しています。この十地も十住心と同じように階梯としてステップアップするという捉え方(顕教と密教の両方)と、高低深浅の差はないという捉え方(密教独自)があります。

第五節では、即身成仏の考え方として、理具成仏,加持成仏,顕得成仏の3つが説明されています。

現世成仏を説く聖道教と未来往生を説く浄土教の区別が興味深かったです。この本を読み始めたときに10%のところで「浄土宗は現世を諦めているような気がする」と書いたのですが、第五節で浄土教は捨此往彼と表現されているのを見つけまして我が意を得た思いです。

私が、仏教に惹かれながらも浄土宗だけでは満足できなかったところがまさにこの点です。例えば、結婚相手を自分で選べないような時代であれば、此の世を捨てる生き方も必要かもしれません。しかし、現代は違います。

興味深いところをノートに書きとめながら読み進みましたが、この本は本文はもちろんのこと註の内容も奥深く、まだまだ読み残した部分や理解できていない部分があります。何度も読み返したいと思います。

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