トトガノート

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Category:★仏教 > 「大乗起信論」

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「意識の形而上学」という解説書の方を先に読みましたが、アウトラインをつかんだところで訳本の方を読むことにしました。

大乗起信論(岩波文庫版)
第一段「因縁分」、第二段「立義分」と、第三段「解釈分」の第一章「顕示正義」の第一門「心真如」まで読みました。「意識の形而上学」の読書日記では割愛した「離言真如」と「依言真如」についてまとめておきます。

「離言真如」について
あらゆる言語表現は便宜的な仮の表現に過ぎず、それに対応する実体は無い。すべてのものは、誤った心の動き(妄念)によって現われている。人が妄念から離れられれば、あらゆる対象は姿を消すであろう。ここで真如と呼ぶものも、他の全てのものと同様に、対応する実体は無い。

「依言真如」について
上記のように真如は言葉では表現できないが、言葉を借りて説明すれば2つの意味がある。
1.ありのままに空ということ。全ての現象は妄念の所産であって、真実においては無い(空)のである。全ての汚れたものが、そこに結び付いてはいない。
2.ありのままに不空ということ。心の真実のあり方自体は、煩悩に汚されていない清浄なものが本来具わっている(不空)。清浄な徳相で満ち満ちている。

《つづく》
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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第一章「顕示正義」の第二門「心消滅」のA「心生滅―さとり(覚)とまよい(不覚)」まで読みました。

始覚に至る四段階(不覚・相似覚・随分覚・究竟覚)が述べてあります。それから随染本覚。これは「意形(9/10)」の内容に対応します。

次に鏡のたとえ(さとりの体と相)が出てきます。さとり(覚)の特色には四種の「大」がある。それは虚空(おおぞら)のように広く、鏡のように浄らかである。

1.如実空鏡
一切の主観(心)客観(境界)の相を離れていて(遠離=空)、何ものもそこに現れるものがない。空すなわち純粋に清浄。

2. 因熏習鏡
衆生の心は本来、不動で煩悩に汚されない諸徳性を具備している(もともときれいな鏡は、汚れた物をもそのままに映し出すけれども、鏡自体は汚れていない)。それが衆生にはたらきかけて、さとりに向かわせる。

3.法出離鏡
前項の因に備わる不空なる諸徳が、煩悩という妨げ(煩悩礙)や知に関する妨げ(智礙)を除き去り、さとりとまよいの和合したアラヤ識の相を離れる。

4.縁熏習鏡
前項の不空な徳性が覆いを離れて輝き出る(法出離)のに基いて、雲から出た満月のごとく遍く衆生の心を照らし出し、善根を修めさせるべく、その心の動きに応じて(随念)はたらきを現す。

最後に、まよい(不覚)の基本的構造として三細(無明業相・能見相・境界相)、表層的現象として六麁(智相・相続相・執取相・計名字相・起業相・業繋苦相)が書いてあります。これは「意形(8/10)」の内容に対応します。

《つづく》
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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第一章「顕示正義」の第二門「心消滅」のB「<まよい><さとり>をあらしめるもの―アーラヤ識の機能」まで読みました。

意のはたらき五種(業識・転識・現識・智識・相続識)が述べてあります。これは「意形(8/10)」の内容に対応します。

汚れた心の六段階

1.執相応染
執着を特色とし、表層的生滅と結びついてあらわれる汚れ。執取相・計名字相・起業相・業繋苦相に相当。信と結びついた段階(信相応地)に達することで遠ざけることができる。

2.不断相応染
不断に相続すること特色とする、表層的生滅と結びつく汚れ。相続相に相当。信相応地に達したのに基づき、修行の手立て順次学ぶにつれて徐々に遠ざけ、浄心を得た段階(浄心地・初地)で最終的に除去できる。

3.分別智相応染
感覚的弁別を特色とする、表層的生滅と結びついた汚れ。智相に相当。菩薩が戒律を保持する段階(具戒地・第二地)に入ると徐々に離れはじめ、すべての現象には相無しとのさとりに入る手だてを完成した段階(無相方便地・第七地)に入れば完全に離れることができる。

4.現色不相応染
対象の相として現れることを特色とし、表層的生滅と結びつかない潜勢的な生滅心にともなう汚れ。境界相に対応。対象を自在に制御できる段階(色自在地・第八地)に入ることで遠ざけることができる。

5.能見心不相応染
主観としてはたらく、潜勢的な生滅心にともなう汚れ。能見相に相当。心を自在に制御できる段階(心自在地・第九地)に入ることで遠ざけることができる。

6.根本業不相応染
主観としてはたらく、潜勢的な生滅心にともなう汚れ。無明業相に相当。菩薩の最終的段階(菩薩尽地)に達し、如来の階位に入ってようやく離れることができる。入ることで遠ざけることができる。

「表層的生滅にむすびつく」とは主観・客観の相と同じということであり、「表層的生滅とむすびつかない」とは主客に分かれる以前で主観・客観の相と同じにならないということ。

《つづく》
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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第一章「顕示正義」の第二門「心消滅」のC「<まよい>と<さとり>の相関―四種のはたらきかけ」まで読みました。

染法(衆生の心生滅において心を汚し、さとりを妨げること)と浄法(さとりをあらしめること)とが断絶せずに持続するのは、両者が四種類のすがたをとって互いにはたらきかける(熏習)からである。

熏習の四種類

1.浄法:真如(心の真実のあり方)をさす。

2.根元的無知:一切の汚れの根元(染因)をさす。

3.妄心:虚妄なる心のはたらきをさす。根元的無知にもとづいて起こる心の動き。業識およびその他の意および意識などの主観の諸形態。

4.妄境界:仮構された対象。いろかたちその他の六麁(智相・相続相・執取相・計名字相・起業相・業繋苦相)をさす。これは「意形(8/10)」の内容に対応します。

熏習のプロセスについては「意形(10/10)」の方が、わかりやすいようです。

《つづく》
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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第一章「顕示正義」の第二門「心消滅」のD「さとりの力としての心の真実のあり方―仏」まで読みました。

Q&Aの形で説明されている内容が気に入ったので、まとめてみます。

一切の現象は本来、ただ心の現わし出すもののみ(唯心)である。その一切の現象を現わし出す心のはたらき(念)さえ真実には存在しないけれども、衆生のひとりひとりに虚妄な心作用(妄心)としてはたらいている。

衆生は心の真実のあり方をさとらない(不覚)ので、心の動きを起こし(起念)、対象を仮構して、それを実在と見る。それゆえ、この心の動きを起こす根元を根元的無知(無明)と名づける。

《つづく》
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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第二章「誤った見解の克服(対治邪執)」まで読みました。以下、自分なりにまとめてみます。

誤った見解(邪執)はすべて、ものの実体視(我見)にもとづいている。我見には、人我見(個人存在の実体視)と法我見(客観存在の実体視)がある。人我見は五種類に分類できる。

1.「如来の法身は究極において寂漠としている。それはちょうど、虚空の如くである」という経典中の説明を読んで、おおぞら(虚空)こそが如来の本性だと誤解する人がいる。


これは、実体はないが遍くゆきわたっていることを、大空に例えたものである。

2.「世間の諸存在は畢竟じて実体はない(体空)。ないしは、涅槃とか真如とよばれるものもまた畢竟じて実体はない。それらは、そのはじめからそれ自身実体なく(自空)、あらゆる特質づけ(相)を超越している」という経典中の説明を読んで、涅槃とか真如というのは本来何もないのだと誤解する人がいる。

前項同様、実体視する恐れがあるので、それを避けるためにこのような説明をしている。真如とか法身は無量の徳性を備えており、決して無内容なものではない(自体不空)。

3.「如来蔵は生滅を離れているので本質的に不増不減であるが、しかも、それ自身に如来のもつ一切の徳を具備している」という経典中の説明を読んで、如来蔵には物質と精神の両面にわたって種々の異なった特質が具わっていると誤解する人がいる。

如来蔵とはただ衆生の心の真実のあり方(真如)をさして説いている。そこに物質的・精神的な種々相が現象しているのは、無明にもとづく心の生滅において染汚しているからである。

4.「世間のすべての生死輪廻に伴う汚れの現象は、すべて心の真実のあり方たる如来蔵において有る。それ故、一切の諸現象は真実のあり方(真如)と別に独立して(離)存在するわけではない」という経典中の説明を読んで、如来蔵自体に本来、すべての世間的な生死輪廻にかかわる諸現象が具わっていると誤解する人がいる。

如来蔵は本来、無量の清浄な徳性のみが、真如と離れず断絶せず別異ならざるものとして具わっている(不離不断不異真如)。無量の煩悩の汚れた諸現象は、ただ根元的無知によって仮構された存在で(妄有)、本来あるものではなく、決して如来蔵と本質的に結びついたものではない。

5.「如来蔵にもとづいて生死輪廻もあり、如来蔵にもとづいて涅槃もある」という経典中の説明を読んで、輪廻する衆生は如来蔵の上にあるとき突然現れるという形で始まり、始めがあるから涅槃にも終りがあるだろうと誤解する人がいる。

如来蔵の始めは知られないし、その上にそれを隠すように現れている根元的無知の始めも知られない。

虚妄な執着をどうやって最終的に離れるか…

汚れているとか、清浄であるとか言っても、そういう現象はすべて相対的なもので、その固有の特質と言えるものがあるわけではない。一切の現象は本来、物質でもなく、精神でもなく、直観的な知恵でもなく、分析的な認識でもなく、存在でも非存在でもない。いかなる言葉によっても表現できない様相のものである。

それにもかかわらず言葉で説明するのは、これこそ如来の巧みな方便であり、便宜的に言葉を用いて衆生を導くためである。衆生が虚妄な心のはたらき(念)を離れ、心の真実のあり方に帰一するようにしたいと願うからである。

人がひとたび一切の現象を心に思い浮かべるならば、その時はいつでも心が動き、真実の認識(実智)に入るのを妨げる。

《つづく》
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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第三章「実践に入る道程の解説(分別発趣道相)―乗の意味」まで読みました。以下、自分なりにまとめてみます。

発心には、信成就発心、解行発心、証発心の3種(★)がある。

★1.信成就発心 (信心の成就を通じてさとりに向けて発心すること)

不定聚衆生(さとりに向けての実践が後戻りするかもしれない人たち)に関する。

かれらは、熏習と、かつて積んだ善根のもたらす功徳の力で、業の果報のあることを信じ、十善業を修め、生死輪廻の苦を厭い、最高のさとりを求めようと願って、諸仏を供養することを通じて信心を養う。

かれらの発心の3種(◆)。
◆直心(素直な心):根本心。心の真実のあり方を思い浮かべる。
◆深心(深い宗教心):自覚。全ての善行を集め積もうと願う。
◆大悲心:覚他。全ての衆生の苦を抜き取ろうとする。


修行法は以下の4種(◇)。
◇1.行根本方便(一切の行の基本となる修行法。法を正しく見ること。)
まず、一切の現象は本来不生であると観得し、誤った見方を離れて、生死に執着しない。次に、一切の現象は諸因縁の結びつきによって存在するもので、業の果報は消滅しないと観得し、大悲心を起こして、諸々の福徳を集めては衆生に廻らして、自らその力があっても決して涅槃に安住しない。諸法の本性(真如)は本来、生死にも涅槃にもとどまらないことを受け入れるからである。

◇2.能止方便(悪行防止のための修行法)
自己のした行為に関して慙愧し、過ちを悔いて、一切の悪行をなさず、これ以上増やさないように努める。ものの本性は本来、過失を離れていることを受け入れるからである。

◇3.発起善根増長方便(積極的に善根を起こし、さらに増やさせる修行法)
すすんで仏法僧の三宝を供養し、礼拝し、諸仏の徳を讃え共感する。ものの本性が知的妨げを離れていることを受け入れるからである。

◇4.大願平等方便(他を救おうという大願を誰に対しても平等に抱く修行法)
未来の極限に至るまで一切衆生を教化・救済し、皆が身体というよりどころを持たない完全な涅槃を完成させようとする。ものの本性は断絶せず、広大で、一切衆生に遍く行きわたり、平等・無二で、誰彼を考えることなく静まっているからである。

★2.解行発心 (予備的な修行道を通じて発心すること)

心の真実のあり方について深い理解に達し、ものの本性は個別的特質を離れていること(離相)を知り、六種の完全な行(六波羅蜜)の実践に努める。

★3.証発心 (法身を体得しておこす発心)

ものの真実のあり方(真如)を体得する。主観と客観の別が無くなる。

かれらの発心の微細な3種の相(◆)。
◆真心:無分別智。法身の証得が無分別であることによる。
◆方便心:大悲心。真心にもとづいて自ずから現われて、遍く衆生を利益する。
◆業識心:業として潜在的にはたらく心。方便心が衆生の間ではたらくためには生滅の相をもたなければならず、そのために微細な起滅を示す。

《つづく》
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生き方を考える に参加中!
大乗起信論(岩波文庫版)
第四段「信心の修行(修行信心分)」まで読みました。以下、自分なりにまとめてみます。

信心には4種ある。

1.根本を信ずること(信根本)
心の真実のあり方(真如)を願い求める(楽念)。

2.仏は無量の徳性を具えていると信ずること
常に仏を思い、近づき、供養し、恭敬しつつ、善根を起こし、仏と同じ一切智を得たいと祈願する。

3.仏の教え(法)には大いなる利益があると信ずること
常に法を思い浮かべ、諸種の究極完全な行を実践する。

4.僧はよく自利の行、利他の行を実践するものであると信ずること
常に願って菩薩たちに親近し、如実の行を学ぶべく努める。(僧に対する戒め?)

修行には五門ある。その五門を通じて、信心を完成させる。

1.布施門(施門)
・財物を乞い求める人には、慳貪(ケチな心)を捨てて、自分の力の許す限り、分け与えなさい(財施)。
・災難に遭い恐怖する人、危険が迫っている人には、自分の力の許す限り、悩みと恐れを取り除いてあげなさい(無畏施)。
・教えを乞う人には、自分が理解しているのに応じて、教え(法)を説いてあげなさい(法施)。
・決して自己の名誉・利益、相手からの恭敬を求めてはならない。ひたすら自己と他者のために役立つことを念じ、その功徳をさとりに向け直す(廻向菩提)。

2.持戒門(戒門)
表現は若干違うのですが、十善戒を守る!ということでいいと思います。
十善戒とは…不殺生不偸盗不邪淫不妄語不綺語不悪口不両舌不慳貪不瞋恚不邪見

3.忍耐門(忍門)
他人から悩まされた場合、それに耐えて、決して報復を考えてはならない。利益と損害、不名誉と名誉、称賛と誹謗、苦と楽など、いかなる世間的評価にも煩わされず耐えること。

4.精進門(進門)
善事を成すに、怠ることなく、志を立て、決してひるまないこと。自ら利し、他を利益せしめ、速やかに諸々の苦からの解脱を心がける。諸仏を礼拝し、懺悔し、勧請し、教えに共感し(随喜)、得た功徳をめぐらす(回向)。

5.止観門(心の安定と正観の修行)
「止」(シャマタ)とは、心を安定・集中して、対象の相が現れないようにすること。
「観」(ヴィパシュヤナー)とは、諸々の現象の因縁によって生起する相(心生滅の相)を見分けること(分別因縁生滅相)。
これについては次回詳述。

《つづく》
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心の向き に参加中!
大乗起信論(岩波文庫版)
第四段「信心の修行(修行信心分)」まで読みました。五門の中の止観門の方法について、以下、自分なりにまとめてみます。

止(心の安定)の方法
・静かなところで、正しい姿勢で坐り(結跏趺坐)、心を正す。
・一切の見たり、聞いたり、感じたり、認識したりするところに気をとめてはならない。
・あらゆる想いが生ずるごと(随念)に除き去り、除き去っているのだと想うこと(除想)も捨てる。
・「一切の現象は心のみであって、外界の対象は存在しない。そして、そのように思う心自体もまた、固有の相ではなく、刹那ごとに生滅し、知覚できない」と知る。
・坐禅していないときでもこれを心がけて習熟すると、真如三昧(真実のあり方をのみひたすら念ずる禅定)に入ることができるようになる。
・真如三昧に入ると法界一相(諸々の現象の根元は全て同一の相)をさとり、法身(一切諸仏の本性)と衆生の身とは根元において平等・不二であること(一行三昧)を知る。
・真如三昧は、あらゆる三昧の根本である。

以上の禅定だけでは、心が沈んだり怠惰になったりして、他者のために尽くそうという大悲から遠ざかるおそれがあるので、これを避けるために正観の修習が必要である。

正観の修習
1.法相観
すべての諸現象はその状態を持続することができず、たちまち変化して壊れる。一切の心のはたらきも刹那ごとに生滅する。ゆえに、それらの現象はすべて苦である。…と観ずる。

2.大悲観
一切衆生は無始よりこのかた根元的無知のはたらきに浸透されているので、今生においても未来世においてもその苦は限りなく、それを取り除くことは難しい。そしてそれに気づいていないとは何と憐れむべきか…と観ずる。

3.大願観
願わくは、わが心をして、主客・自他等の分別を離れ、一切の善行・徳行を実践し、十方世界へそして未来へあらゆる方便をつくして、すべての苦悩する衆生を救済し、涅槃の安楽を得させたい…と観ずる。

4.精進観
大願を立て、いついかなる処でもあらゆる善行をできる限り修習し、決して怠らない。

止観双修
禅定(止)を修習すれば、凡夫のもつ世間に対する執着を克服できる。正観を修習すれば、大悲心を起こさないという狭い了見を克服し、善根を修習しないという心も遠ざけることができる。共に具えていなければ、さとりへの道に入ることはできない。


《つづく》
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哲学 に参加中!
大乗起信論(岩波文庫版)
第五段「修行の勧めと修行の効果」まで読みました。一応、読了ということになります。

紀元前後(ということは奇しくもキリスト生誕前後ということか…)にインドで起こった仏教の宗教改革と位置づけられるのが大乗仏教だそうです。それをうまくまとめたのがこの「大乗起信論」。5〜6世紀ころの成立とされています。

日本の仏教は殆どが大乗仏教ですから、どの宗派を勉強するにも「大乗起信論」は共通の大前提になるのだろうと思います。

最近、大乗非仏説という考え方があることを知りました。「お釈迦様が亡くなって数百年も経ってから成立したものは、仏様が説いたものとは言えないのではないか?」という主張です。まあ、一理ありますね。

でも、「仏」はお釈迦様だけとは限りません。この問題は、大乗仏教をつくった人たちを「仏」と認めるかどうか、に帰着するのではないかと思います。

私の場合は、「古き良き日本人の原点は何か?」ということが出発点 です。しかも思想の部分(哲学としての仏教)に特に興味がある。だから、仏説か否かは全く気にしてません。

仏教は、トヨタとかホンダのように創業者の名前を掲げていません。素直な言い方をすれば、キリスト教とかマホメット教とは違います。だから、釈尊にばかりこだわるのはどうかな?とも思います。そう考えていくと大釈別体説の真言密教が一番スッキリしていると感じます。

仏教に取り組んだ多くの人たちが、考え、悩み、議論して、蓄積していったのが大乗仏教だと思います。その発端をつくったお釈迦様の功績も絶大ですが、その後に続いた人たちの功績も素晴らしい。

そして何よりも、その英知の蓄積を文庫本の形で簡単に読める時代に生まれた我々は本当に幸せだな、と思います。尤も、そういう恵まれた環境にありながら、いっこうに不安とか争いとかが無くならないのはどういうことなんだ?とも思いますけど…

後日、もう少し詳しい本で、「大乗起信論」を読み直したいと思います。

《最初から読む》
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