トトガノート

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「7空の考察」の「1空と無自性」を読みました。

「縁起せるが故に空である」といい「縁起せるが故に無自性である」といい「無自性の故に空である」という。結局、三者は同義ということになります。そして、縁起は常に理由、無自性は理由と帰結、空は常に帰結ということから、三者の論理的順番は、「縁起→無自性→空」となります。

《以下引用》…
第一の段階として、もろもろの存在は相依って、相互限定によって成立しているのであるから、法有の立場において主張するようなそれ自体(自性)を想定することはできないということが説かれ、次いで第二の段階としてそれ自体(自性)が無いからもろもろの存在は空でなければならぬといわれる。この論理的基礎づけの順序は一方的であり、可逆的ではない。
…《引用終わり》


ところが、歴史上の順序は正反対なのだそうです。まず、空→無自性の歴史上の展開は…

《以下引用》…
『般若経』が何故に空という語をたびたび用いているかという理由は不明であるが、当時説一切有部などの小乗諸派が法の実有を唱えていたのに対して、それを攻撃するために特に否定的にひびく「空」という概念を用いたのであろう。すなわちあらゆる存在は互いに相依って成立していて独立には存在しえないから、存在するものはそれ自身の中に否定の契機を蔵することによって成立している。したがって空という否定的な語がよく適合したのであろう。そうしてこの「空」を「無自性なるが故に」という理由をもって説明している。
…《引用終わり》


空・無自性→縁起の歴史上の展開は…

《以下引用》…
ところが『般若経』の始めの部分が成立したころに、反対派の人々はその主張を聞いて、空を無の意味に解し、空観を虚無論であるとして非難していたという事実の記されていることを知る。そこで後になると、すなわち『般若経』の終りの部分および『勝天王般若経』においては、空の意味を一層明らかにし誤解を防ぐために、最初期の仏教以来重要であった「縁起」という語をもってきて、それを「相互限定」「相互依存」の意味に解して空および無自性とは縁起の意味であると説明するに至ったのであろう。すなわち縁起によって空および無自性を基礎づけたのである。
…《引用終わり》


これを踏まえて『中論』の位置づけをすると…

《以下引用》…
『中論』は歴史的には、『般若経』の各層を通じてみられるような空観を基礎づける運動の終りであるとともに、思想的には『般若経』理解のための始めである。『中論』は空観の入門書であり、アサンガのいったように「中論の解釈に順じて『般若経』の初品法門に入る」べきである。すなわち『般若経』の初品、すなわち端的に空を宣言している部分の内容を明らかにするために、『般若経』は一部一部と附加増大されていったのであるが、この運動の最後に位し、新たに中観派を成立せしめるもととなったのがまさしくこの『中論』である。
…《引用終わり》


《つづく》

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「?ナーガールジュナの思想」の「7空の考察」の「2中道と空見」を読みました。

まず、三諦偈から。「因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり」という詩句を言います。
《以下引用》…
因縁によって生ぜられたもの(因縁所生法)は空である。これは確かに真理であるが、しかしわれわれは空という特殊な原理を考えてはならない。空というのも仮名であり、空を実体視してはならない。故に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。因縁によって生ぜられた事物を空ずるから非有であり、その空をも空ずるから非空であり、このようにして「非有非空の中道」が成立する。すなわち中道は二重の否定を意味する。ほぼこのように中国以来伝統的に解釈されてきた。
…《引用終わり》


ところが、『中論』では違うらしい。つまり、非有非空ではないらしい。

《以下引用》…
空とは有無の二つの対立的見解を離れた中道の意味であるといいうる。すなわち空と無とは明瞭に区別されているから、空を無の意味に解することは中観派の真意に適合していないといいうるであろう。後世中国においては非有非空の中道を説いて、多くの場合は空と中道とを区別するが、また或る場合には同一視していることもある。
…《引用終わり》


非有非無についてもう少し詳しく書くと…

《以下引用》…
有と無とはそれぞれ独立には存在しえないで、互いに他を予想して成立している概念であるというのである。すなわち、有と無との対立という最も根本的な対立の根底に「相互依存」「相互限定」を見出したのであった。故に非有非無とは相互依存説(相互限定説)に立って始めていいうることであり、無自性および空という二つの概念が縁起から導き出されるのと同様に、中道の概念もまた中観派特有の「相互限定」という意味における縁起に基礎づけられていることを知る。
…《引用終わり》


『中論』では空見を排斥している箇所が見られるそうで、それについては次のように分析しています。
《以下引用》…
空見とは、本来非有非無の意味であるべきはずの空を誤解して、それを有の意味に解するか、また無の意味に解するか、いずれかであり、普通「空見」または「空に執著すること」といわれているものも、さらに突きつめて考えれば、この二種が存することがわかる。
…《引用終わり》


《つづく》

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「8否定の論理の実践」の「1ニルヴァーナ」を読みました。

ニルヴァーナ(涅槃)とは、仏教が最終目標とする境地と言っていいかと思います。
《以下引用》…
『中論』をみると、「もしも〔五蘊(個人存在を構成する五種の要素)を〕取って、あるいは〔因縁に〕縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる」(第25章・第9詩)と説くから、相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷するのを凡夫の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナである。人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場に立つときがニルヴァーナである。
 輪廻というのは人が束縛されている状態であり、解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。
 故に輪廻とニルヴァーナとは別のものではなく、「等しきもの」であり、両者は本来同一本質(一味)である。…
 この思想は独り中観派のみならず、大乗仏教一般の実践思想の根底となっているものである。
 人間の現実と理想との関係はこのような性質のものであるから、ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならない。ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄である。故に『般若経』においてはニルヴァーナは「夢のごとく」「幻のごとし」と譬えている。それと同時に輪廻というものも実在するものではない。
…《引用終わり》


これは昨年の大晦日に私が仏教について抱いている考えをまとめたものと合致すると思います。

《以下引用》…
これは実に大胆な立言である。われわれ人間は迷いながらも生きている。そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、憧れる。しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。
…《引用終わり》


すべては気の持ちよう…ということになりそうですが、結局そうなんでしょうね。すべては妄念の所産というところから仏教は始まるわけですから、妄念から自分を解放することが最終目標ということにもなるでしょう。

《つづく》

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「?ナーガールジュナの思想」の「8否定の論理の実践」の「2ブッダ」「3縁起を見る」を読みました。

《以下引用》…
ナーガールジュナが『中論』において述べているブッダ論は、異色のあるものである。一般の仏教徒にとっては恐ろしくショッキングなものである。
…《引用終わり》


ということですが…

《以下引用》…
われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである。これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、究極において一致しているという『般若経』の説を受けついだものであろう。如来の本性が世間の本性であり、如来の本性は甲であり非甲ではないと限定することはできない。如来はあらゆる対立を超越している。したがって本質が無い(無自性である)といわれる。仏教徒は如来を独立な存在と考えて思弁に陥りやすいが、ブッダとは「名のみ」のものであるから、しばしば、夢、幻、鏡の中の像などに譬えられている。
…《引用終わり》


これは、ショッキングではなくて、「なるほど」ですね…私の場合。

《以下引用》…
『中論』の説くこのような如来は、諸註釈からみると法身(仏の真実の身体)を意味している。…『般若経』によれば、この如来の法身とは、真如、実際、空などと同じ意味であるという。そうしてこれらの諸語はすでに述べたように縁起と同一の意味であるから、さらにつきつめて考えれば如来の法身とは縁起の理法そのものを意味するに違いない。
…《引用終わり》


この考えを最も強く引き継いでいるのが真言宗ではないかと思います

さて、「縁起を見る者」が「さとりを開いたもの(覚者)」と言われ、「法(苦集滅道)を見る者」であり、「仏を見る者」である(p304〜p305に詳述)。

《以下引用》…
縁起説の意味する実践とは、われわれの現実生存の如実相である縁起を見ることによって迷っている凡夫が転じて覚者となるというのである。故に、何人であろうとも縁起を正しく覚る人は必ず等正覚者(ブッダ)となるであろうという趣旨のもとに、無上等正覚を成ぜんがためにこの縁起説が説かれたのであると説かれている(『稲幹経』)。したがって大乗の『大乗涅槃経』においては、ついに、十二因縁は仏性であると説かれるに至った。
…《引用終わり》


縁起の如実相を見る智慧が「般若(明らかな智慧)」になります。般若によって縁起を見れば無明が断ぜられる。そして、十二因縁の各項がことごとく滅し、たんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する…

《以下引用》…
ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。しかるに人間としてのブッダは老い、かつ死んだ。この矛盾…の解答は(『中論』には)与えられていない。しかしながら、われわれが自然的存在の領域と法の領域とを区別するならば、縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。自然的存在の領域は必然性によって動いているから、覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。ブッダも飢渇をまぬがれず、老死をまぬがれなかった。ブッダも風邪をひいたことがある。しかしながら法の領域においては諸法は相関関係において成立しているものであり、その統一関係が縁起とよばれる。その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現れる。
 したがって覚者の立場から見た諸事象は、凡夫の立場に映じている諸事象のすがたの否定である。したがって自然的存在としての覚者には何らの変化が起こらなかったとしても、十二因縁の各項がことごとく滅するという表現が可能であったのだろう。
…《引用終わり》


ここんとこ、すごくいいので、長いけどメモらせていただきました。

《以下引用》…
この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観はすでに最初期の仏教において説かれている。ナーガールジュナはこれを受けて、その可能であることを非常な努力をもって論証したのであるから、この点においてもナーガールジュナの仏教は、意外なことには、或る意味では最初期の仏教の正統な発展であると解してもさしつかえないであろう。
…《引用終わり》


《つづく》

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「?ナーガールジュナの著作」の「1中論」の「第9章」まで読みました。各章、好きな一文を抜き出します。

第一章.原因(縁)の考察
1.もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他のものからも、〔自他の〕二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。

第二章.運動(去ることと来ること)の考察
1.まず、すでに去ったもの(已去)は、去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>(去時)も去らない。

第三章.認識能力の考察
6.<見るはたらき>を離れても、離れなくても、<見る主体>は存在しない。<見る主体>が存在しないから、<見られるもの>も<見るはたらき>も、ともに存在しない。
8.<見られるもの>と<見るはたらき>とが存在しないから、識など4つ(〔識〕のほか、感官と対象との接触〔触〕、感受作用〔受〕、盲目的衝動〔愛〕)は存在しない。故に執著(取)など一体どうして存在するであろうか。
※眼(見ること)のみならず耳・鼻・舌・身・意も同様である。


第四章.集合体(蘊)の考察
4.物質的要素がすでに〔以前から〕存在するのであるならば、<物質的要素の原因>なるものは成立しえない。また物質的要素がすでに〔以前から〕存在しないのであるならば、<物質的要素の原因>なるものは、やはり存在しえない。

第五章.要素(界)の考察
6.有(もの)が存在しないとき、何ものの無が存在するだろうか。有とも異なり、無とも異なる何人があって有無を知るであろうか。

第六章.貪りに汚れることと貪りに汚れた人との考察
10.こういうわけであるから、<貪りに汚れること>が<貪りに汚れている人>と倶に成立することはないし、また両者が倶にならないで〔別々に〕成立することもない。<貪りに汚れること>と同様に、一切のことがらが倶に成立することもないし、また倶にならないで〔別々に〕成立することもない。

第七章.つくられたもの(有為)の考察
34.あたかも幻のごとく、あたかも夢のごとく、あたかも蜃気楼のようなものであると、譬喩をもってそのように生起が説かれ、そのように住が説かれ、そのように消滅が説かれる。

第八章.行為と行為主体との考察
12.行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。

第九章.過去の存在の考察
7.もし一切の見るはたらき等よりも先なるものが存在しないならば、どうして見るはたらき等の一つ一つよりも先なるものが存在しようか。

《つづく》

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの著作」の「1中論」の「第10章」から「第20章」まで読みました。各章、好きな一文を抜き出します。

第10章.火と薪との考察
12.火は薪に依存してあるのではない。火は薪に依存しないであるのではない。薪は火に依存してあるのではない。薪は火に依存しないであるのではない。

第11章.前後の究極に関する考察
7.輪廻に以前の究極が存在しないというばかりでなく、結果と原因、また特質づけられるものと特質、さらに感受作用と感受主体、およびいかなるものであろうとも、あらゆるものに、以前の〔最初の〕究極は存在しない。

第12章.苦しみの考察
1.苦しみは<自らによって作られたものである>(自作:じさ)、<他によって作られたものである>(他作:たさ)、<両者によって作られたものである>(共作:ぐうさ)、<無因である>(無因作:むいんさ)と、ある人々は〔それぞれ〕主張する。しかるにそ〔の苦しみ〕は結果として成立するというのは正しくない
10.苦しみが〔つくられることについて〕〔上述の〕四種類が認められないばかりでなく、外にある諸事物の〔成立についても、上述の〕四種類は存在しない。

第13章.形成されたものの考察
5.それ(前の状態にあったもの)に<変化するという性質>が無い。また他のもの(のちの他の状態に達したもの)にも<変化するという性質>は適合しない。何となれば、青年は老いることがないから。またすでに老いた者はもはや老いることがないから。

第14章.集合の考察
1.見られる対象と見る作用と見る主体と、これらの三つはおのおの二つずつである(見られる対象と見る作用、見る作用と見る主体、見る主体と見られる対象)。しかし、それらは相互に全面的に集合するには至らない。
2.貪りの汚れと貪り汚れる主体と貪られる汚れた対象もまた、そのように見られるべきである。そのほかのもろもろの煩悩も、またそのほかの12の領域(十二処)も、この3つによって説明される。

第15章.<それ自体>(自性)の考察
4.さらに<それ自体>と<他のものであること>とを離れて、どこにもの(存在するもの)が成立しえようか。何となれば、<それ自体>や<他のものであること>が存在するからこそ、もの(存在するもの)が成立するのである。

第16章.繋縛と解脱との考察
8.要するに、束縛された者は解脱することがない。束縛されていない者も、解脱することはない。もしも束縛された者がいま現に解脱しつつあるのであるならば、束縛と解脱とは同時であるということになるであろう。

第17章.業と果報との考察
33.もろもろの煩悩も、もろもろの業も、もろもろの身体も、また行為主体(業を作る者)も、果報も、すべては蜃気楼のようなかたちのものであり、陽炎(かげろう)や夢に似ている。

第18章.アートマンの考察
5.業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。

第19章.時の考察
6.もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるのであろうか。

第20章.原因と結果との考察
20.もしも原因と結果とが一つであるならば、生ずるもの(能生)と生ぜられるもの(所生)とが一体になってしまうであろう。また原因と結果とが別異であるならば、原因は原因ならざるものと等しくなってしまうであろう。

《つづく》

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの著作」の「1中論」の「第21章」から「第27章」(最後)まで読みました。各章、好きな一文を抜き出します。

第21章.生成と壊滅との考察
9.空なるものには、生成も壊滅もありえない。空ならざるものには、生成も壊滅もありえない。

第22章.如来の考察
16.如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。(真実のブッダとは、われわれの経験している世界にほかならない)

第23章.転倒した見解の考察
2.浄と不浄と転倒とに縁って起こるそれらのものは、それ自体としては存在しない。それ故にもろもろの煩悩は、本体についていえば、存在しない。

第24章.四つのすぐれた真理の考察
40.この縁起を見るものは、すなわち苦、集、滅、および道を見る。

第25章.ニルヴァーナの考察
24.〔ニルヴァーナとは〕一切の認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい〔境地〕である。いかなる教えも、どこにおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。

第26章.〔縁起の〕十二支の考察
12.〔十二因縁のもろもろの項目のうちで〕、それぞれの前のものの滅することによって、それぞれの〔後の〕ものが生じない。このようにして、このたんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する。

第27章.誤った見解の考察
16.もしも人間が神と異なったものであるならば、しからば〔このような見解は〕無常〔を執するもの〕となるであろう。もしも人間が神と異なったものであるならば、個体としての連続はありえない。

《つづく》

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの著作」の「2大乗についての二十詩句篇」と「3大智度論」(第十三巻の五戒に関する部分の抄訳)を読みました。

大乗についての二十詩句篇
これは唯心思想を説いていることで有名だそうなので、その部分をメモっておきましょう。

《以下引用》…
18.この一切のものは心のみ(唯心)より成り、幻のすがたのように出現している。それ(心のみ)にもとづいて善と悪との業が起こり、それにもとづいて善と悪との生存が起こる。
19.人々が世界を妄想しているがごとくには、かれら自身は生起していない。この生起なるものは妄想であり、外界の対象(事物)は存在しない。
…《引用終わり》


大智度論
これは、『摩訶般若波羅蜜経』(『大品般若経』)に対するナーガールジュナの註釈で、仏教の百科全書的存在だそうです。五戒(不殺生・不盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)について記述している箇所だけ取り上げられています。

不殺生
人殺しがいけない理由というのは、説明が簡単なようで意外と難しいです。ナーガールジュナの説明は如何に?と興味あるところです。

不殺生の戒をたもっている人は、われがかれを害することがないから、かれもまたわれを害することがない。ゆえに恐怖がない。

不盗
生命には内的生命と外的生命があり、他人の財物を盗むことは外的生命を奪うことになるという考え方。

不邪淫
自分の妻であっても自由勝手にしてはならない…というところが面白い(?)です。妊娠中(胎児が危険)、授乳の期間中(オッパイが出なくなる)、子育て期間中(母親が淫欲に執著すると子育てをしなくなる)は控えて下さい。また、女性の方で望まないのにやってはいけません。…まったく、ご尤もな話です。

不妄語
《以下引用》…真実を語る人は、その心が正しくまっすぐで、苦しみをまぬがれることが得やすい。たとえば、密林の中から木をひき出す場合に、まっすぐな木材はひき出しやすいようなものである。…《引用終わり》
嘘は上塗りが必要になり、つじつま合わせの嘘がどんどんくっ付いてくると、進むも退くもできなくなりますね。

不飲酒
Q&Aが面白いです。
《以下引用》…
問――酒を飲むと、身体が冷えるのをとどめ、身を益し、心を歓喜させる。どうして飲んではいけないのだ。
答――〔酒を飲んでも〕身を益することははなはだ少なくて、損ずることのほうがはるかに多い。このゆえに、飲んではならない。たとえばおいしい汁の中に毒がまじっているようなものである。
…《引用終わり》

今昔を超えた問答です。昔から酒での失敗は多かったということでしょう。昨今ならば特に公務員の方ご注意下さい。

《つづく》

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの著作」の「4十住毘婆沙論」と「5親友への手紙」、「?ナーガールジュナ以後」の「1ナーガールジュナの思想の流れ」を読みました。

「十住毘婆沙論」は華厳経十地品(十地経)にナーガールジュナが註釈を書いたものです。第九章「易行品」は浄土思想について述べられています。その中の阿弥陀信仰をたたえた部分だけ訳出されています。

「5親友への手紙」は南インドのサータヴァーハナ王朝の国王(二世紀ころのガウタミープトラ王という説もある)にあてた手紙です。

ナーガールジュナの弟子としてはアーリヤデーヴァ(提婆(だいば)、170-270年頃)が挙げられる。『百論』『四百論』などの著作は他学派を批判したもの。唯識派の思想ともつながる。

その後継者としては、ラーフラバドラ(羅序H羅(らごら)、200-300年頃)。この人をナーガールジュナの師であるとする説もある。この系統は一時沈滞する。

中観派は5世紀頃に再び活発となる。ブッダパーリタ(仏護(ぶつご)、470-540年頃)が『中論』に註釈を加え、プラーサンギカ派が始まる。どのような主張であれ必ず誤謬(プラサンガ)に帰着するとし、徹底的な誤謬の指摘を通じて、存在の空であることを相手に悟らせる。この派自体の主張は持たない。ナーガールジュナもそんな感じでしたね。

プラーサンギカ派には、チャンドラキールティ(月称(げつしょう)、600-650年)がいます。『中論』の註釈『プラサンナパダー』を著しました。

中国では、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什(くまらじゅう))の翻訳によるナーガールジュナの『中論』『十二門論』と、アーリヤデーヴァの『百論』に基づいた三論宗という宗派が成立しました。この派の大成者が嘉祥大師吉蔵(かじょうだいしきちぞう:549-623年)です。安息(パルチア)出身の人で、『華厳経』と『法華経』の思想をふまえつつ、中国思想の地盤の上にユニークな思想を展開しましたが、唐の中葉ころには衰えました。

日本には、吉蔵の弟子でもあった慧灌(えかん:高句麗出身)が625(推古33)年に来日して、三論宗を伝えました。が、平安の末期には密教と融合して衰えました。

三論宗に『大智度論』を加えて四論宗というものもある中国で成立しました。後に三論宗に融合しましたが。

天台宗の教理も、『中論』や『大智度論』などをもとにしています(空・仮・中の三諦円融、一心三観)。

また、上述の『十住毘婆沙論』の浄土思想の部分は、後世の浄土教の支えとなりました。

密教も『華厳経』の影響を受けてはいますが、ナーガールジュナの思想の延長線上に位置づけることもできます。

《つづく》

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「?ナーガールジュナ以後」の「2比較思想からみたナーガールジュナ」を読みました。

最初に結論を引用します。
《以下引用》…
西洋においては否定神学や神秘主義は何といっても付随的なものであり傍流にすぎなかったが、東アジア・南アジアにおいては、少なくとも教義的には主流となっていた。空観のような思想は、西洋ではひろく根を下すことができなかったが、東洋では大乗仏教を通じて一般化した(浄土真宗の教学といえども、空の理論を基礎としている。少なくとも教義の上では表面的には基本思想とみなされていたのである)。ここに、東と西では重点の置き方が異なっていたといいうるであろう。
…《引用終わり》


西洋では空観のような議論としてはどんなものがあったか、ということですが、アリストテレスの実体の観念に対するラッセルの実体批判は興味深いです。

《以下引用》…
『実体』という観念は、真面目に考えれば、さまざまな難点から自由ではあり得ない概念である。実体とは、諸性質の主語となるもので、そのすべての性質から区別される何物かである、と考えられている。しかし諸性質をとり去ってみて、実体そのものを想像しようと試みると、われわれはそこに何も残っていないことを見出すのである。この問題を別な方法で表現すれば、ある実体を他の実体から区別するものは何であるか、ということになる。それは、性質の相異ではないという。なぜなら実体の論理によれば、諸性質の相異ということは、当の諸実体の間に数的多岐性を前提としていることになるからだ。したがって二つの実体は、それ自身どのようにも区別し得ることなしに、ただ単に二つでなければならないという。それではどのようにしてわれわれは、それらのものが二つであることを見出し得るのであろうか?実際には『実体』とは、さまざまな出来事を束にして集める便宜的方法に過ぎない。…
(例えば)『フランス』というような語が単なる言語的便宜であり、その地域のさまざまな部分を超越して『フランス』と呼ばれるような事物は存在しない…それは、多数の出来事に対する一つの集合的な名称なのである。…一言にしていえば、『実体』という概念は形而上学的な誤謬であり、主語と述語とから成る文章の構造を、世界の構造にまで移行させたことにその原因があるのだ(『西洋哲学史』市井三郎訳、上巻、205ページ)
…《引用終わり》


否定的捉え方について

《以下引用》…
インドで『リグ・ヴェーダ』以来、ことにウパニシャッドにおいて絶対者は否定的にのみ把捉されると説いていた。これはとくに般若経典が繰り返し説くところであるが、とくにナーガールジュナはこの点を『中論』で明言していう。
「心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである」(第十八章・第七詩)
古代西洋の哲学者たちは実体を何らかの意味で承認していたけれども、究極の実体は概念作用をもって把捉することができないという見解は、非常に古く、おそらくナーガールジュナからあまり遠く隔たらない時代に現われている。
…《引用終わり》


例えば、ディオニシウス・アレオパギタの場合。

《以下引用》…
万有の原因は霊魂でもなく、知性でもなく、また説いたり考えたりすることのできないものなのである。絶対者は、数もなく、順序もなく、大いさもない。その中には、微小性、平等、不平等、相似、不相似は存在しない(――まさに般若経典の文句である――)。それはいかなる叙述をも超えている。ディオニシウスはこれらの限定をすべて否定する。それは、真理がそれらを欠いているからではなくて、それらをすべて超えているからである。
…《引用終わり》


ナーガールジュナは<空>という原理さえもまた否定しています。否定そのものの否定(「空亦復空(くうやくぶくう)」)です。
《以下引用》…
この観念を継承して、中国の天台宗は、三重の真理(三諦)が融和するものであるという原理をその基本的教義として述べた。この原理によると、
(1)一切の事物は有論的な実在性をもっていない、すなわち空である(空諦)。
(2)それらは一時的な仮の存在にほかならないたんなる現象である(仮諦)。
(3)それらが非実在であってしかも一時的なものとして存在しているという事実は中道としての真理である(中諦)。
存在するいかなる事物もこの三つの視点から観察されねばならない、と説く。
…《引用終わり》


否定ばかりでは何事も始まらないではないか!と思われるわけですが、そうではなくて…
《以下引用》…
<空>はすべてを抱擁する。それに対立するものがない。その<空>が排斥したり対立するものは何もないのである。実質についていえば、「空」の真の特質は、「何もないこと」であると同時に、存在の充実である。それはあらゆる現象を成立せしめる基底である。それは生きている空である。あらゆる形がその中から出てくる。空を体得する人は、生命と力にみたされ一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。慈悲とは、<空>――あらゆるものを抱擁すること――の、実践面における同義語である。大乗仏教によると、あらゆるものが成立する根本的な基礎は<空>である。だから「空を知る」ということは<一切智>(全智)とよばれる。
…《引用終わり》


空は実践は基礎づけるもの…
《以下引用》…
『金剛経』では「まさに住するところなくして、しかもその心を生ずべし」という。菩薩は無量無数無辺の衆生を済度するが、しかし自分が衆生を済度するのだ、と思ったならば、それは真実の菩薩ではない。かれにとっては、救う者も空であり、救われる衆生も空であり、救われて到達する境地も空である。この思想は中国の道教にも承継されている。「汝は汝の能力で他人を救うことを自慢してはならない」(道士、第百四十五則)
…これに類する思想は西洋ではパウロによって説かれている。すなわち、内面的に世界から自由であることを外面的に表示する必要はない、ということをパウロは次のように記している。
「妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者はそれに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」(「コリント人への第一の手紙」7・29-30)
…《引用終わり》


気に入った箇所が多くて、引用ばかりになってしまいました。本当に得るものの多い本でした。空っぽだった頭に<空>が少しだけ入りました。これから何度も読み返すことになるでしょう…

《最初から読む》

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