トトガノート

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Category:★仏教 > 「犀の角たち」

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第一章 物理学」の前半を読みました。

《以下引用》…
科学というのは、世界のありさまを、あるがままの姿で記述することを目的として生まれたものではない。特にキリスト教世界の中で誕生した近代科学が目指したものは、この世界の裏に潜む、人智を超えた神の御業を解明し、理解することにあった。法則性の解明がそのまま神の存在証明になり得たのである。したがって、科学によって解明されるべき世界の構造は、単一的で合理的で、そしてエレガントなものでなければならなかった。神が不格好で複雑で鈍重なものをお創りになるはずがない。…そして人々は、頭の中で、単一的で合理的でエレガントな世界像をいろいろと考え出し、それらのうちで現実によく合うものを選びとって、「これが世界の基本構造である」と主張した。…

頭の中の理想体系は、各人それぞれがそれぞれの個性に応じて生み出すものであるから、しょせん現実の世界と完全に対応するはずがない。大枠は似ていても、食い違いは出る。その食い違いをどう解決するか、そこが科学者の正念場である。ガリレイやデカルトは、外部世界が突き付ける不合理を拒否して、頭の中の理想世界を優先した。…その代償として、現実世界を正確に記述する物理体系を生み出すことはできなかったのである。これに対してニュートンは、己の直覚よりも、実際の現象を優先して、重力という正体不明の概念を導入することで、現実ときっちり対応する体系を創成した。…

本書は科学の方向性をテーマのひとつにしていると言ったが、その要点はここにある。脳の直覚が生み出す完全なる神の世界が、現実観察によって次第に修正されていく、悪く言えば堕落していく、そこに科学の向かう先が読み取れると想定するのである。…

神の視点が人間の視点に移っていくことを、自分の勝手な言い方で「科学の人間化」と呼び、それを堕落だと考える傾向を「下降感覚の原理」と呼んでいる。ただしここで注意しなければならないのは、神の視点というのが、もちろん実際の神を想定して言っているのではなく、我々が頭の中で常識的に最も端正で納得できる美しい形として捉えている視点のことを指しているという点である。「神の世界はこうあるべし」というそのような見方のことである。先にも言ったように、脳の直覚が生み出す完全なる神の世界が、現実観察によって次第に修正されていく、それが「科学の人間化」なのである。
…《引用終わり》


とても私好みの指摘です。漠然と同じことを考えてきましたので、うまく言葉に置き換えていただいたようで、気持ちがいいです。自分も同じような考え方をしていたとはいえ、言葉にできず、発展させることもできませんでした。著者がどのように展開させるのか、先が楽しみです。

もともとの「神」というのは結局、脳の中に居るのですね。そしてそれは脳の都合に依存した「神」であるから、思い込みの影響も受けるし、脳の生理学的あるいは構造的(解剖学的)制約も受けます。(結局は感覚器官に由来する)現実観察によって補正を繰り返してきたのが科学史と言えます。

脳はそもそも「神」を理解するだけの容量や能力を持っているのか?言い換えれば、本当の「神」を脳は「単一的で合理的でエレガント」だと感じるだろうか?逆に、現実観察というのは絶対に確かだと言えるのか?この辺のところを固めないと、科学は足元からすくわれて完全にひっくり返る可能性さえあると思います。

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第一章 物理学」の後半を読みました。

相対論の説明を読んで、著者の切り口のうまさを感じました。神の視点で記述した古典力学を、人間の視点で記述し直したのが相対論。人間は光で観測するがゆえに、光速による座標変換が必要になる…言われてみれば、なるほどです。

量子力学の説明は、もっと鮮やかでした。まず、ヤングの2本のスリットの観測装置で、光が粒子と波の双面性を持つことを説明する…これは基本ですね。

2本のスリットに観測装置を追加するとスクリーンの像が変化する。これで、「波の収縮」や「シュレディンガーの猫」を説明するのもどっかで見たような気がします。

でも、盛り場通いの山田博士と後任の斎藤博士を登場させて、「量子暗号」を説明してしまうのは鮮やかでした。

「多世界解釈」というは「パラレル・ワールド」のことだと思います。量子力学の考え方を発展させれば、「多世界解釈」になるのが一番自然だと私も思います。宇宙は複雑多岐で何次元なのか分からないと以前書いたのは、「パラレル・ワールド」が頭にあったからです。

久しぶりに、ワクワクする本に出会いました。

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第二章 進化論」の前半を読みました。

今度は進化論における「科学の人間化」(神の視点が人間の視点に移っていくこと)を見ていきます。

《以下引用》…
本来のラマルク説は、進化に神の意志が反映しているという点ではキュヴィエと同様、神の視点に基づいて成り立つものであったが、こと人間の地位に関しては衝撃的な転換を要求することになった。…ラマルクは「もちろん人間も、進化という視点から見れば動物の一種である。それは猿から進化したのである。」と平然と言ってのけたのである。
…《引用終わり》


ここに「人間の視点」が始まります。ただ、神が個別に生物を創ったとするキリスト教的世界観とは相容れないため、とても衝撃的でした。仏教徒であれば、そんなに驚かなかったことでしょう。

《以下引用》…
ラマルク進化論では、生命を下等なものから高等生物への段階的移行によって捉える。これによってすべての生物は、進化という環によって一体化することになる。この点、ダーウィンもまったく同じである。また、人間も別枠ではなく、他の動物と同じように、この環に入っている。これもダーウィンと同じ。違うのは、進化が起こるそのメカニズムである。ラマルクはそれを、「生命の体制をどこまでも複雑化させようという外部からの不思議な力と、自分をよりよく変えたいという生命側の積極的で切実な要求の合一」だと考えた。…

ではダーウィンはどう考えたのか。鳩のような家畜・家禽類の考察から出発して、彼はついに変異と自然淘汰という二本柱に到達する。

遺伝の本質が何なのか、詳しくは分からないが、とにかく現実の現象として、生物個体は親に似てはいるがある程度の幅の相違をもって生まれてくるということをダーウィンは大前提とした。これは、特別な時期にだけ起こる特別な現象なのではない。変異は、あらゆる生物種においていつでもどこでも同じペースで起こっている、ごく普通の出来事である。しかもそれは、特定の方向性を持っておらず、まったくランダムな現象である。…

こうして、まったく無方向に、ランダムに起こる変異が、自然淘汰という選別を通して、より環境に適応した形に方向づけられていく。このプロセスの積み重ねが、進化の原動力となる。
…《引用終わり》


進化論は確かに衝撃的でしたが、猛烈に拒否されたわけでもありませんでした。やはり、ガリレオの時代とは違います。

《以下引用》…
進化論に納得するキリスト教信者も多かった。『種の起源』が当時としては驚くべき売れ行きだったことからもそういった状況が裏づけられる。…すでに十九世紀後半は、…聖書に書かれているのとは別の、真の歴史があるということは大方の常識となっていたのである。問題は、ダーウィンの進化論を認めても、神の存在の全否定にはならないということである。
…《引用終わり》


全否定にならないということは、進化論だけでは「人間の視点」への完全な移行にはならないということでもあります。

《以下引用》…
では現在の我々ならば否定できるだろうか。ダーウィン時代にはなかった遺伝の原理やDNAに基づく分子生物学は、人間が他の生物となんら変わることのない一生物種にすぎないという事実を強く裏づけている。しかし問題は、身体形質ではなく知能・知性である。…我々は、それが特別なものではないとは、まだ断定できない。この議論に終止符を打つことができるのは脳科学である。…《引用終わり》


以前に取り上げた本でも人間と動物の境目に知能・知性を据えていました脳科学もそういう関心を持って研究が進められているようですし、言葉こそが決定的な違いであるという研究者もいます。

でも、仏教徒としてはあまり線引きは好みません

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第二章 進化論」の後半を読みました。

「ダーウィンに消された男」という本が有りました。ウォレスのことを取り上げたものです。でも、以下のようなことならば、消されたのではなくて自然淘汰されたのかもしれない。

《以下引用》…
ウォレスは、生物のありとあらゆる形質や機能が、自然淘汰の中で選択されてきたものだと考えた。自然淘汰万能論である。この考えに従うなら、生物の体はどこをとっても、偶然にできたところなどひとつもなく、すべては自然淘汰という厳しいテストをパスしてきた最優良パーツばかりということになる。
…《引用終わり》


この考え方は「人間は最上の存在」という捉え方につながっていきます。現代の我々からすれば、「人間が最も神に近い」という結論に無理に持って行ってるような感じさえしますが、当時としては常識的だったのでしょう。ダーウィンはその視点を放棄しました。

さらに「神の視点」から「人間の視点」への移行を進めたのが、木村資生の中立論(分子進化の中立説or中立進化説)です。
《以下引用》…
「進化の過程で、DNAが変異する場合、生存を一層有利にする変化などというものはない。あったとしてもきわめて小さい確率でしか起こらないので進化の原動力にはならない。DNAの主たる変化は、その生物にとって有害であるか、あるいは有害でも無害でもない中立なものかのどちらかであって、進化というのは、この二通りの変異を通して進んでいくのだ」
…《引用終わり》


変異というのはDNAの中の分子レベルでランダムに発生することなので、その段階において、その個体の生存に有利か不利かということが関与してくるはずがありません。ここにはある意味、容易に行き来できない境界が存在します。つまり、分子レベルと個体レベルというのは、通常は全く関わりあいのない事情でそれぞれ運営されます。

また、DNAというのは蛋白質の合成手順を記したものです。「ここからここまでは顔について書いてます。お目々はパッチリ、お鼻は高めに、…」というように、具体的形質のデザインが一対一対応で書いてあるわけではありません。だから、単に「目をパッチリさせる」という遺伝子操作を行ったときに、体の他の場所(目の周辺とは限らない)に思いもよらぬ奇形が生じる可能性が多々あるはずです。

だから、分子レベルでの進化(変異と言い換えた方がいいかな…)が自然淘汰に対して全く中立(全く無関係に発生する)であることは、DNAを意識すれば当たり前なのですが、これをきちんと学術論文として最初に発表するというのは大変な偉業ですね。

《以下引用》…
木村説に従うなら、自然淘汰というのは、良いものだけを選び出す作用なのではなく、悪いものだけをつみ取る作用だということになる。良いものなどどこにもないのである。ダーウィン進化論が根本的に変わってしまうことが分かるだろうか。
…《引用終わり》


これで一応「神の視点」が無くなることになるのでしょうが、本当にこんな(ある意味)デタラメな仕組みで、かくも複雑にして精巧な生物が生まれてくるのでしょうか?という疑問はあります。

一方、解剖学を紐解けば、途中で取りやめになった道路工事みたいな場所が人間の体の中にもたくさんあるわけで、デタラメであること(人間臭さ?)も間違いはないようです。

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第三章 数学」の前半を読みました。

《以下引用》…
数学という学問は外部からの情報とは無関係に、人間の思考だけで成り立っている分野だと考えられているから、「直覚の想定する世界が、外部情報によって訂正されていく」という人間化のパターンが当てはまらないように思える…《引用終わり》


まさにそこ、気になります。でも、一緒だよ!著者は言います。

《以下引用》…
物理学の場合、直覚が承認する神の視点を否定するのは、観察や実験によって得られる、外部世界からの情報だというのだが、情報そのものが神の視点を否定するわけではない。その情報を受け取り、解釈し、その結果「従来の世界観では、この情報を合理的に解釈することができない。だから世界観は変更されねばならない」と考える、我々自身の論理思考が、神の視点を否定するのである。
…《引用終わり》


数学史はほとんど今まで知らなかったので、とても新鮮でした。ピタゴラスが神秘宗教教団の教祖というのも興味深い。「霊魂の輪廻転生を認め、宇宙の基本原理は数、特に自然数で成り立っている」という教義を持った教団。ニュートンもオカルト錬金術師でしたが、「ピタゴラスよ、おまえもか」。

物理の勉強をしていたときに思っていたことなのですが、なぜ歴史の流れに沿って教科書を作らないのでしょう?朝永振一郎の著書「量子力学」は歴史の流れに沿って書いてあったので、面白くて夢中になりました。残念ながら、この本と出会ったのは就職した会社の近くの書店ででした。もう少し早かったら…という思いがあります。

著者も同じことを書いていて「私だって今頃は立派な集合論学者になっていたはず」というのは笑えました。

無理数、虚数などは非日常的概念なので、「何でこんなことしないといけないの?」という疑問が学なり難き少年時代の言い訳になりやすいのです。でも、こういった概念も歴史的要請があって、必要だったから考え出されたわけです。その過程に沿って、名を残した数学者がぶつかった壁を一緒に体験しながら勉強を進めていけたら、数学の時間もみんなワクワクドキドキだと思うんですが。

《つづく》

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「第三章 数学」の後半を読みました。

最も衝撃的だと思われるゲーデルの「不完全性定理」についてまとめてあるので、メモっておきます。

《以下引用》…
「その数学体系が無矛盾な場合、つまり完全である場合には、その体系を使って正しいということが証明できないような真理が必ず存在する」

「無矛盾な数学体系においては、その体系が無矛盾であることを証明することはできない」
…《引用終わり》


これを後に別な形で証明したのがチューリング、という関係です。ところが、ゲーデルの登場以前に、このことに薄々感づいていた人がいる。それがポアンカレです。ポアンカレの科学観は、科学の人間化という現象の本質をつくものです。著者同様、私も引かれたので、まとめておきます。

一言でいえば、「近代科学の歴史は、科学的真理が人間の視点から見たひとつの見解にすぎないということを実証してきた歴史である」というもの。

まず、原初の単なる外界認識の段階があります。実生活の中で体を動かして、身の回りの物を見たり触ったりして認識し、空間的位置関係なども認識するようになる。この空間概念を連想で拡張し、最終的には「全宇宙空間」をイメージして、それを外から眺めている自己を想像することができるようになります。これが第一段階。

我々が手にするのは固体が圧倒的に多いから、「空間内を、自己の形状を変えずに移動する物体」という概念が生まれ、それがもととなって力学や幾何学のもととなる。気体や液体の方が多ければ、生まれる概念も違っていたはず。二本足で歩行し、ふたつの目で物を見、5本の指で物をつかむ…そういう人間固有の事情から、独自の世界像が構築されていく。科学的思考方法を生み出す前の段階です。

いつしか、人は論理思考と呼ぶべき特殊な思考法を身につけた。これは、物質世界からの情報ではなく、我々の思考そのもの。神の視点を否定していく原動力と成っていく。ポアンカレは、その本質が数学的帰納法であると喝破した。

リンゴが一個、リンゴが二個…と目の前にあるだけ数えて喜んでいた段階から、一個ずつ増やしていけば数には際限がないはずだ!と考える段階に進む。

「k=1の時にこの規則は成り立つ。一方、k=nの時にこの規則が成り立つなら、必ずk=n+1についても成り立つ。ゆえに、この規則はすべての整数について成り立つ」。子供が聞いたら「なぜ?」と首をひねるだろう。説明すれば納得する。納得するが感得できない。これは我々の原初的世界観に属する思考ではなく、論理思考の結果、否応なく納得させられる事柄、「不思議だが本当な」ことなのである。

帰納法的な思考によって、基本的な規則さえつかんでおけば、あとはそれを現実の対象に際限なく適用することで、全世界の現象をひとつ残さず説明できるように見える。こうして、世界を単純な規則、単純な構造へと集約していこうという傾向が生まれてくる。これこそ科学一般の基本的スタンスである。

ポアンカレによれば、数学およびその他の自然科学とは、人間存在を超えた普遍的真理を探究する学問ではなく、あくまで人間が独自の規約を用いて作り上げる特殊な構造体系を構築する学問だということになる。

* * *

「神の視点」とは、全知全能の神の存在を信じ、神になったつもりで世界を見つめること。「人間の視点」とは、神はいるか分からないし、まして神になりかわるなど無意味な仮定であることに気づき、人間として世界を見つめること。

それが人間固有のものであることを忘れてはならない。人間にしか通用しないということを忘れてはならない。

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第三章 数学」の後半を読みました。

この本の説明は分かりやすいというか、私好みです。科学史の本としても非常に優れていると思います。

そんなわけで、カオスとフラクタルについても書いてあるので、メモっておきます。いつか勉強したいと思って何年も前に本を買ってあったのですが、いまだに読めてません。それらの本を全て読んだところで、この本を読んだほどの理解ができるかどうか疑問です。

《以下引用》…
カオス理論は次のように言う。
「もし仮に世界の事象が因果関係によってすべて決定されているとしても、最初の状態に少しでも不明な情報があれば、そのせいで未来を予想することは絶対にできなくなる。自然界では、最初の状態がほんの少し違っていても、その結果は必ず恐るべき食い違いへと進展するからである。したがって、物事の最初の状態を完全に知ることのできない人間にとって、この自然界の事象の動きを予想することは絶対にできない。量子論とは全く違ったスケールで、人間には認識の限界が存在し、その不可知性は絶対に避けられないものなのだ。」
…《引用終わり》


バタフライ効果も、最初に知った時には驚きました。

《以下引用》…
フラクタル数学は次のように言う。
「我々はこの複雑な世界が、単純な要素の組み合わせによってできているという先入観を持っている。神が世界を創造なさったと考えるなら、それが妥当な考えである。神が素材を組み合わせることで世の中を作ったとすれば、それは、単純な素材で複雑なものを作るという作業であったに違いないからである。しかし実際の自然界はそうではない。現実を観察してみると、複雑なものをいくら分割して細かくしていっても、複雑さは変化しない。マトリョーシカ人形のように、中から同じ複雑さがいくらでも現われてくる。したがって自然界は単純な要素の組み合わせで作られているのではない。ある同じ複雑さがスケールを様々に変えて、大きくなったり小さくなったり、全にして一、一にして全、そういう捉えがたい不可思議さで存在しているのだ」。
…《引用終わり》


仏教の説明のように見えるのは、著者が仏教学者だからでしょうか?

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第三章 数学」の後半を読みました。

この本の説明は分かりやすいというか、私好みです。科学史の本としても非常に優れていると思います。

そんなわけで、ペンローズについても書いてあるので、メモっておきます。いつか勉強したいと思って何年も前に本を買ってあったのですが、いまだに読めてません。それらの本を全て読んだところで、この本を読んだほどの理解ができるかどうか疑問です。

1.真実でありながら、それを数学的論理思考によって証明のできない命題が存在するということが、数学自身によって立証されている。つまり計算不可能性をもった命題が存在する。

2.我々人間の意識というものは、単にコンピューター機能の複雑化したものではなく、コンピューターには処理できない事柄、すなわち計算不可能な事柄を処理する能力がある(と思われる)。

3.抽象的な数学世界における計算不可能性が、具体的な物理世界に顔を出す場所があるとすると、量子論における「波の収縮」だと思われる。

4.計算不可能性も処理する新しい理論が見つかれば、「波の収縮」も説明できるだろう。量子論的確率の世界と現実の確定した世界とがスムーズに連結され、単一でエレガントな物理世界が見えてくるに違いない。

5.意識を生み出す脳という器官が、計算不可能な事柄を処理することのできる場所であるから、我々の知らない未知の科学理論によって機能していると考えざるを得ない。

6.脳の機能を詳細に調べれば、新理論を見つけ出せるかもしれない。ニューロン内部の微小管と呼ばれる部分が怪しい。

著者もペンローズの考えを疑問視しています。私も、ペンローズが評価されるような事実が見つかってから、ペンローズに向き合ってみたいと思います。

そうしないと、私の脳は、計算不可能な事柄を処理するどころか、計算不可能な脳になってしまいそうですから…

さて、次回からいよいよ仏教です!

《つづく》

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「第四章 釈尊、仏教」の前半を読みました。

まず、脳科学についての指摘。

《以下引用》…
脳科学は、様々な領域で科学理論が成立していく、その成立機構を解明するにすぎない。脳科学自身が主役となって、そこにすべての科学理論が収束するなどということはあり得ない。科学というものは、あくまで外界からの情報が材料となって作られるものであるから、それと無関係に脳が勝手に科学的世界を構築できるはずなどないのである。
最近は脳科学が過大評価されて、「すべての科学理論は、社会状況に応じて脳が作り上げる仮想の体系だ」と主張する人たちもいるが、それは違う。外界からの情報は確実な実在であり、それをもとに、脳が人間独自の解釈法で作り上げるのが科学理論なのである。
…《引用終わり》


私は外界の存在に懐疑的な気持ちも少しあります。が、外界くらいは実在と認めなければ科学自体がナンセンスなものになりますね…。「脳」は体の一器官に過ぎませんし、人体の中には潜在的(automatically)に動いている部分がたくさんある。「腸」は自律神経の支配も受けますが、結構独立した存在らしい。『腸は考える』(藤田恒夫著・岩波新書)という本があるくらいだから、「腸科学」というのがあってもいい(笑)。

《以下引用》…
仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい。科学の人間化を一本のベクトルとした場合、出発点にはキリスト教をはじめとした一神教世界があり、反対側の到着点に仏教がある。もちろん科学が最終的に仏教になるなどと言うのではない。両者はそもそも求める目的が違う。しかし、その目的を求めて我々が活動する、その活動の場が、仏教と科学では同次元なのである。
…《引用終わり》


この指摘は面白いですね。理学部に仏教学科があってもいいかもしれない…

《以下引用》…
仏教とは、そういう言葉のパレードをことごとく許容してしまう恐るべき寛容さ、もっと率直に言えば恐るべきいい加減さを含んだ宗教である。…「こだわらないこと」が仏教なら、仏教徒は脳天気な阿呆の集団になってしまうではないか。
まず大切なのは、仏教のそういったいい加減さというものは、仏教が本来持っていた特性ではないということを認識することである。…
ではなぜ、本来は「ある特定の教義を主張する一個の宗教」だったはずの仏教が、今のような「なんでもあり」の宗教になったのか。それは、そうならざるを得なかった歴史があるのである。
…《引用終わり》


確かに、矛盾する言葉をくっ付けて文を作ると、仏教的に聞こえます。

《以下引用》…
仏教という宗教は、二千五百年間にわたって東アジア全域で展開してきた宗教運動であるが、それは多様化の歴史でもあった。その中にはおよそありとあらゆる形の思想、アイデアが含まれている。
どんなことでもよいから好きな思想やアイデアをひとつ挙げてみてほしい。それと似たものは必ず仏教の中に見つかる。…華厳経フラクタルを見たり、法華経量子論をくっつけたり、宇宙論にマンダラを持ち込んできてもなんの意味もない。面白いかもしれないが、そこから何が生まれるわけでもない。ただの思考のお遊びにすぎない。むしろ驚くべきことは、なんでも見つかるその仏教の幅の広さである。これは…仏教が常に分化分裂を続けた結果、きわめて多様な形態を含み込んだ複合的宗教になったことが原因である。
…《引用終わり》


その多様さは、思想的な部分だけにとどまりませんね…

《以下引用》…
その多様な仏教のそれぞれの要素は、長い時間を経て生まれてきたものであるから、それぞれが独自の歴史的背景を持っている。…
たとえば釈尊時代の仏教の要素と後期密教時代の教義は、千年近くのずれがある。それをひとつにまとめて考えても実際は意味がない。ありもしない架空の仏教を想定することになるし、下手をすればとんでもない邪説を生み出してしまうことにもなる。
…《引用終わり》


イギリスによるインド植民地政策の話もとても面白いのですが、ここではパスします。

《つづく》

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「第四章 釈尊、仏教」の後半を読みました。

仏教が誕生したころ、インドはアーリア人に支配されていて、ヴァルナ(カースト制度の前身)という厳格な身分差別社会を作っていた。頂点に立つのはバラモン(祭式を司る祭官)で、神との交信を独占していた。王はたいていクシャトリア(第二の階級)であったが、バラモンには頭が上がらない。この身分は血統で決まるため、異なるヴァルナ間の交雑は極端に嫌われ、生まれた後のいかなる努力でも変更が不可能であった。

紀元前600年ころにはガンジス川流域での農耕文化が成熟し、余剰生産物すなわち「富」が生まれてくる。それと共に王侯・貴族階級のクシャトリアの中でバラモンに対する不満が鬱積してくる。「神を操ったところで真の幸福にはつながらない。自分自身の努力によって幸福を獲得しよう」という反バラモン教の動きが出てくる。この人たちは「努力する人(シュラマナ)」と呼ばれ、「沙門」の語源となる。

釈尊は沙門の一人であり、沙門宗教で現存するのは仏教とジャイナ教だけである。ジャイナ教は厳格さゆえにインド国外に広まることはなかった。一方、仏教は周辺国に猛烈に広まったが、インド国内では八百年前に滅んだ。

最初期の仏教の特徴は3つ。

1.超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する。

仏教では、この世界全体を司るような超越存在を認めない。世界は特定の法則に沿って自動的に展開していく

釈尊は、世界に通底する法則性を見抜き、生き物がその法則性の中で真の安らぎを獲得するための方法を自力で見出した人である。決してその法則性を自在に操れるわけではない。同じ人間であり、別次元の超越者ではない。ただ、他の人たちより、勇気や智慧などの能力が格段に優れているに過ぎない。

釈尊が悟ったのは法則世界に束縛された状態にありながらも、その中での真の安らぎを得るための道である。そして、自分だけの専有とせずに、他の生き物たちにも告げ、できるだけ多くの者が同じ道を進むように呼びかけた。自分で道を切り開いた後で、もう一度皆のいる所まで戻って、非力な隊員たちを励ましながら連れて行くリーダーの姿である。

「自分は確かな安らぎへの道を見つけた。もし私を信頼するのなら後についてきなさい。途中でいくらでも手助けはするが、実際に歩くのは君たちなのだから、精一杯頑張りなさい」と言うだけ。道半ばで倒れる者や、信頼せずについてこない者まで救う力は釈尊には無い。

2.努力の領域を、肉体ではなく精神に限定する。

法則性だけで世界を理解しようとする仏教の立場は、現代の科学的世界観と共通するものがある。科学は物質だけを考察対象とし、仏教は精神だけを考察対象とする。

但し、仏教は精神の法則性の解明のみならず、それを基に自己の精神における「苦」の消滅を目指す。自己改造を目指すのである。ゆえに仏教は宗教なのである。

仏教の修行とは、釈尊の言葉を理解するための経典の勉強と、それに沿って行う瞑想の実践に集約される。反復練習の修行を繰り返すうちに精神は次第に練り上げられ、ある段階に達すると急激にレベルアップする。このレベルアップを何回か繰り返す度に、我々の精神は純化され、悪い要素(煩悩)を滅していく。煩悩がすべて消滅し、再発の危険がなくなった時、人は悟ったことになる。

煩悩がなくなれば、その煩悩のせいで生じていた苦しみの感覚もまた消滅する。肉体的側面からの苦痛の消滅(たとえば、信じれば病気が治るとか、長生きするとか)、そういった面には目も向けず、ひたすら自己の精神を改造することで苦の消滅を目指す。そこに仏教の本領がある。

3.修行のシステムとして、出家者による集団生活体制をとり、一般社会の余り物をもらうことによって生計を立てる。

仏教では、瞑想・経典読誦の修行を徹底的に行わなければ悟りは開けないという。日常のあらゆる生産活動を放棄して、自分のすべての時間を修行に使わなければならない。そんな修行者が生きていくための方法として「乞食」という方法を採用した。一般社会の人たちが食べ残した食べ物を分けてもらう生活方法である。

他の人が鉢の中に入れてくれた物しか食べてはならない、つまり一般の人々の好意に頼って生きねばならないという規定は、修行のための便利な状況を作り出すとともに、在家の人から「立派な人だ」と思われる必要性をも生む。

釈尊は、篤信の信者が布施してくれた食べ物で食中毒になり、激しい下痢に悩まされた末、沙羅双樹の間に横たわって亡くなった。

人間として生まれ、人間としてできる限りの努力によって悟りを開き、そしてごくごく普通の、人間らしい亡くなり方でこの世を去っていった…

やはり、天ぷらを食べ過ぎて死んだ家康とは、ちょっと違うなぁ…

《つづく》

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