トトガノート

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「如来蔵経」の前半を読みました。「九つの比喩」の5つ目までです。

《以下引用》…
『如来蔵経』(「如来を内部に宿すものについての経典」)は、大乗中期の経典で、その成立はナーガールジュナ(龍樹、150〜250)よりのち、三世紀中葉と推定される。
…《引用終わり》

サンスクリット本は散逸してしまいましたが、漢訳二種とチベット訳が残っているそうです。漢訳のひとつが不空訳です。

お話は、世尊がさとりをひらかれてから十年目のある暑い日に、弟子やそれ以外の人達が集まる前で、金剛慧菩薩の質問に答える場面です。世尊は「九つの比喩」の話をします。

1.蓮華のなかの諸仏のたとえ
色あせ、悪臭を放ち、しぼんで、少しも好ましくない蓮華と、それらの蓮華の萼に坐禅をくんで坐りながら光明を放っている美しい如来を、私たち見て、礼拝している。

《以下引用》…
それと同様に、…正しく完全なさとりをひらいた…如来もまた、自身のもつ超越的な般若の叡知と、(それにもとづく)知識と、如来の眼をもって、貪り(貪)、怒り(瞋)、無知(痴)をはじめとする、根元的執着(渇愛)と根元的無知(無明)(にもとづく)…数知れぬ煩悩の蔽いに纏われたすべての命ある衆生たちの内部に、(その如来と)同じ知恵をもち、眼をもった如来があって、坐禅をくんで不動でいるのを見る。
…《引用終わり》


私たちの煩悩をしぼんだ蓮華に例え、その蓮華の中に美しい如来が隠れているように、私たちの中にも美しい如来が隠れているのだ、ということです。

2.群蜂に囲まれた蜂蜜
中にたっぷりの蜂蜜がしまってある蜜蜂の巣と、それを蔽い隠している蜜蜂の群れ。蜜蜂の群れが煩悩で、蜂蜜が如来です。こぐまのプーさんの絵が似合います。

経文には書かれていませんが、蜂蜜を集めたのは他ならぬ蜜蜂たちですから、別な解釈もできそうな気がします。

3.皮殻に蔽われた穀物
米、大麦、稗その他の穀類の実は皮殻に蔽われていて、これを取り除かなければ食べられない。皮殻が煩悩で、おいしいところが如来です。

そば好きの私は蕎麦の実を思い浮かべました。蕎麦の実を挽くと、最初に中心の白い部分が粉になって出てきます。更科用ですね。それが無くなると、殻の方が挽かれてきます。黒い粉になってきます。これがたっぷり混じっているのが田舎そば用ですね。私は、この煩悩がたっぷり入ってる田舎そばが好きですが…これも経文には関係ありません。

4.不浄所に落ちた真金
ゴミ捨て場の腐敗物の中に金塊を落とした場合。金塊ならば、いくらひどい所に落ちてしまっても拾おうとしますね。しかも、金塊は何十年経っても腐敗物の影響を受けません。私たちの中にも、それと同じ如来の不壊なる本性が内在しているのですよ!ということです。

家内がトイレに落としたケータイ、洗って乾かしてからは正常に動作しています。これも不壊なる本性かな?

5.貧家の地下にある宝蔵
貧乏人の家の地中深くに宝物がざっくり埋まってたとしても、宝物が「掘って下さ〜い」などと声を上げたりはしない。みんなの心の奥底に徳性が埋まっていることを、如来は世間にあらわれて指し示す…

「ここ掘れ、ワンワン」と裏の畑で鳴くポチを思い浮かべてしまいました。

***

…思いつくままに一言ずつ書きましたら、ふざけた感じになってしまいましたが…

今、生きる意味を探しています。個人個人それぞれ「意味」を設定していいわけですが、みんなに共通するような最大公約数的な「意味」が無いかな…と。

如来蔵思想の中にヒントがありそうな気がしています。だから、実はかなり真剣に、この本を手にしています。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「如来蔵経」の後半を読みました。「九つの比喩」の6つ目以降です。

6.樹木の種子
果実や木の実は外皮の蔽いの中に芽となる種子があって、壊れることなく、それが地に落ちると、やがて大樹となる。

煩悩の外皮の中に胎児のような状態で如来の本性を持っているのが、われわれ衆生。煩悩の勢いが鎮静したものは、涅槃に入る。

7.ぼろきれにくるまれ、道に捨てられた仏像
ある貧しい男が、宝石でできた如来像を携えて旅をすることにした。旅先で盗まれないように、異臭のするぼろきれにくるんだ。男は旅先で死んでしまい、如来像はぼろきれにくるまれたまま道端に捨て置かれた。通行人は誰一人それが宝物であることに気づかずに踏みつけて行った。風にあおられると、ぼろきれの包みは異臭を放ち続けた。

8.貧女が転輪王子を懐胎する比喩
身寄りのない女が、顔色も悪く、嫌な臭いがすると人々に嫌われながら、今にも死にそうな状態で救貧院に住んでいた。彼女が懐妊し、転輪聖王となるような素晴らしい胎児を宿した。しかし彼女は「この子はどんな子だろう」などと考えることもなく、気は萎えて、下劣なもの弱小なものと決めつけ、相変わらず救貧院で日を送っていた。

9.鋳型のなかの真金像
馬とか、象とか、人物の像をロウで作り、鋳型の中に置いてから土をかぶせ、火にかけてロウを溶かし、その溶け出した後に金を溶かしこむ。溶かしこんだものが中にいっぱいになってから、次第に冷却すると、外の鋳型は黒くて汚いのに、中のものは金である。工匠が鋳型を槌で壊す瞬間、内なる金でできた像は清浄となる。

***

子を持つ親としては8番の例えが特に気になりました。ある意味、現代的です。子どもには無限(に近い)の可能性があります。それが、親の都合で閉ざされている例が見受けられる昨今…いたたまれない気持ちになります。

如来蔵は、大人にも無限(に近い)の可能性がある!ということです。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「不増不減経」を読みました。「衆生の世界は「真理の領域」そのもので、満ちることもなく、減ることもない」ということを解説しています。

輪廻を続けることによって衆生界がいっぱいになるのではないか?逆に、さとりによって衆生界が減っていくのではないか?という人々の疑問を、シャーリプトラが代表して世尊に質問しています。世尊は、人々が陥りやすい大邪見(減見と増見)について解説を始めます。

減見涅槃を認めない諸見解・あるものをないという見方)
・断見:死によって完全に減尽し、あとかたもなくなる、という見方。
・滅見:涅槃はものの消滅である、という見方。
・無涅槃見:涅槃は非存在であり実体を離れている(畢竟空寂)、という見方。
・無欲見:涅槃を求めない、という見方。他の教えに従っていたり、不浄なものを浄と考えているからで、世俗主義と解せられる。
・畢竟無涅槃覚:涅槃という理想世界は無い、という見方。

増見(涅槃は求めずしてあるとする諸見解・ないものをあるという見方)
・涅槃は無からはじめて生ずるという見方。
・涅槃は因も縁もなくて突如として出現するという見方。
これらの見方は、価値あるもの(善法)に対して、それを望み願う心や得ようと努力する心を失わせてしまう。根元的無知(無明)や、それに基づく煩悩の根元である。

根元がただひとつであることを知らないから、このような大邪見に陥ってしまう。この、ただひとつの根元とは何か?

《以下引用》…
究極の真理というのは、…衆生の本質(衆生界)の同義語である。衆生の本質というのは、…如来蔵の同義語である。如来蔵というのは、…すなわち、(如来の)法身(すなわち、真理の世界そのものとしての如来の身)の同義語である。
…《引用終わり》


《以下引用》…
この法身は不生・不滅性のものである。それは過去の極限をもたず、未来の極限ももたない。なんとなれば、両極端を離れているからである。…過去の極限をもたないとは、出生の時を超越しているからである。未来の極限をもたないとは、死滅の時を超越しているからである。
…《引用終わり》


《以下引用》…
まさにこの同じ法身が、輪廻生存の苦悩を厭い、あらゆる欲望の対象から解放され、十種の究極・完全なる行(十波羅蜜)にまとめられる…徳目の集成(法蘊)を身につけるべく、修行を実践しつつあるとき、菩薩と呼ばれる。
さらにまた、…この同じ法身が、すべての煩悩の蔽いからすっかり解放され、すべての苦悩をのりこえ、すべての付随的煩悩の汚れを取り除き、…すべてのものに対する自在力を達成したとき、…如来(如来応正遍知)と呼ばれるのである。
それゆえ、…衆生界と法身とは別異のものではない。衆生界こそは法身にほかならず、法身こそは衆生界にほかならない。
…《引用終わり》


《以下引用》…
衆生界にも三つの特質があって、すべて真実にして、真如と異ならず、無差別である。
…《引用終わり》


その三つとは…
1.如来蔵は、清浄なる諸徳性といつはじまったとも知れず共存し、かつ、それと本質的に結合する性質のものである。
2.如来蔵は、煩悩の蔽いという清浄ならざる諸性質といつはじまったとも知れず共存しているが、それと本質的には結合していない性質のものである。
3.如来蔵は、未来永劫に堅固不変な本性はある。

般若心経にも「不増不減」という文言がありますが、かくも深い意味があったんですね…

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「勝鬘経」の「一 序章」と「二 摂受正法章」を読みました。シュリーマンとかマーラーという名前があるのでヨーロッパみたいですが、シュリーマーラー夫人はインドの人です。

品行方正で有名なシュリーマーラー夫人のもとに世尊が現れました。そこで、夫人は世尊に対し10の誓いを立てます。

1.戒め(道徳的きまり)を逸脱するような心をけっして起こしません。
2.不敬の心をけっして起こしません。
3.衆生に対し怒ったり害したりする心をけっして起こしません。
4.他人の幸福や成功などに対し、羨望の念をけっして起こしません。
5.ほんの少しでも吝嗇の心を起こしません。
6.自分自身の享楽のためではなく、貧乏で苦しんだり身寄りのない衆生を成熟させるために、財産を蓄えます。
7.四摂事〔布施、愛語、利行、同時(自他平等の心がけ)〕によって衆生の役に立ちます。無雑念、無倦怠、不退転の心をもって、衆生を温かく包容します。(摂受:ひきつけること。すくい取ること。)
8.身寄りのないもの、牢につながれたもの、捕縛されたもの、病気で苦しむもの、思い悩むもの、貧しきもの、困窮者、大厄にあった衆生を見過ごしません。財産の蓄えをもって彼らを救助してはじめて、私は身を引くでしょう。
9.如来の説かれた教えや掟を蔑にするものたちを折伏(しゃくぶく:こらしめること。摂受の反対語。)します。
10.真実の教えを身につけること(摂受正法)を忘れません。

さらに、三つのお願い(三大願)をしました。

1.衆生たちに利益をもたらす福徳を積み重ね、いつも真実の教えを理解することができますように。
2.真実の教えを理解しえたのちも、怠けたり、おじけたりすることなく、衆生たちに教えを説くことができますように。
3.真実の教えを説くにあたっては、身命を顧みず、財産をなげうってでも、教えを護持し、教えを身につけることを望みます。

さらに、真実の教えを身につけることの意義について語ります。

摂受正法(真実の教えを身につけること)と言いますが、真実の教えそのもの(正法)とその真実の教えを身につけることとは、別々のことではありません。真実の教えをしっかりと身につけること自体が、真実の教えなのです。

そしてそれが六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の実践です。

真実の教えを身につけることと、この真実の教えを身につけたもの(摂受正法者)とは、別々ではありません…ということが再三繰り返されます。

自分が六波羅蜜と同化しているが如く実践に励みなさい、ということでしょうか。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「勝鬘経」の「三 一乗章」を読みました。冒頭で、大乗こそが真実の教えであり、声聞や独覚のほか、世間的・超世間的善法はすべて大乗から分かれ出たものである、と宣言されています。

「潜在的無知のあるかぎり完全な涅槃はない」というところの記述が気に入りました。

《以下引用》…
輪廻の最後の生存にある(最後有)菩薩たちでさえ、潜在的無知に蔽われ、遮断され、囲まれて、迷っているため、あれこれの価値あるもの(法)を観察せず、理解できません。

…なんぴとであれ、過誤からの解放という点で残滓があり、すべての過誤から解放されたのではないもの、清浄という点で不十分さが残り、すべてにわたって浄化された性質のものではないもの、不完全な徳性の所有者で、一切の徳性をそなえたのではないもの――

こうした人々は…苦悩(苦)を観察する点でも不十分さが残ります。苦悩のよってくるところ(集)を断ずる点でも不十分さが残ります。苦悩の滅尽(滅)を体得し、実現する点でも不十分さが残ります。苦悩の滅尽を目標とする修行道(道)を実践する点でも不十分さが残ります。

…彼らは…その涅槃が部分的なもの、部分的な涅槃を獲得したものであります。
…《引用終わり》


もがきながら生きるのが人間の宿命…ならば、せめて小さな涅槃を見つけることから始めよう…

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「勝鬘経」の「四 一諦章」「五 如来蔵章」「六 終章」を読みました。

《以下引用》…苦の滅とは、存在するものの消滅という意味ではありません。(苦が、そしてその原因たる煩悩が、本来、非存在であるということです。)…はじめも知られない昔から存在し、つくられたものでも、生まれたものでもなく、滅尽することもなく、…常住・堅固(・寂静・永続的)で、本性として清浄であり、あらゆる煩悩の蔽いから脱却しており、…知恵と不離なる、不可思議なほとけの諸徳性をそなえた如来の法身が、「苦の滅」という名によって示されているのだからです。…このまさに同じ法身が、まだ煩悩の蔽いから脱却していない状態にあるとき、それが如来蔵と呼ばれるのです。
…《引用終わり》


如来蔵に関する知とは、如来の空性の知です。如来蔵が空性を示すと知ること(如来蔵空智)は2種類の内容があります。
1.如来蔵には、(もともと法身と無関係で、さとりの知恵から切り離された、あらゆる)煩悩の蔽いが欠如している(つまり空である)。
2.(煩悩は虚妄で非存在であるが、)如来蔵は(法身と密着・不可分で)、(さとりの知恵と切り離しえない)ほとけの諸徳性を本来そなえている(つまり不空である)。

また、如来蔵は生死輪廻のよりどころです。生と死をあらわす輪廻とは如来蔵の別名です。死とは諸感官の機能停止、生とは新しい感官の発生です。ところが如来蔵には、生も死も滅も起もありません。如来蔵は有為の存在の領域を超えて、常住・堅固・寂静・永続的であります。

この本性として清浄な心が、煩悩によって汚されている。このことを信じましょう。…というのが結論のようです。

ちょっと気になるのは、この記述。
《以下引用》…
この三種の(如来の)家のよき男子や女子たち以外の衆生なるものは、もろもろの深遠な教えに対し、自分勝手な見解をいだいて、それを最上とみなし、あまつさえ、まちがった観念をもって執着しつつ、教え、説明します。…私は、彼らは真実の教えに背反するもの、異教徒、腐った種子の持ち主であるから、たとえ君側にあっても、調伏すべきである、と申し上げたい。
…《引用終わり》


異教徒は如来蔵ではないの?という疑問が湧きます。「やっていい戦争」があるというふうにも読めます。

「勝鬘経」は聖徳太子も好んで読んでいましたから、和を尊んだ彼も戦地に赴くときは、この辺りの記述を思い起こして力を得たのではないかと思われます。

「シュリーマーラー夫人が獅子吼した説示」という副題が付けられています。とっても怖い奥さんをイメージしてしまう(恐妻家だから?)のですが、こういう仏に関する大演説を「獅子吼」と表現するようです。四誓偈にも出てきます。

なぜ女性に言わせたのか?やはり、口では(口だけじゃない?)女にかなわないのが古今共通ということでしょうか…。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「一 序章」「二 如来出現の法門―総序」を読みました。この経典は原名「如来の生起・出現の説示」という元来独立の一経です。

世尊と一緒に多くの菩薩たちがいる時、如来性起妙徳(如来の家系に生まれた幸ある人の意)菩薩の頭頂に不思議な光が入った。ついで別の光が普賢(あまねく知れわたった自在なる王の意)菩薩の口に入った。

そして、如来性起妙徳菩薩が、普賢菩薩に対して、如来に関して次のことを説明して下さるようにお願いします。
1.出現の説明
2.身による顕現
3.音声による表現
4.心の威力
5.対象の状態
6.活動領域の説明
7.正しいさとりのありさま
8.転法輪(つまり説法)の完成
9.偉大なる死(般涅槃)の示現
10.如来たちを見、(その教えを聞き、)如来と出会い(供養し)、(それによって)善根を生ずることについて

以下、普賢菩薩による説明が繰り広げられます。如来性起妙徳菩薩は文殊師利と考えられます。「ふげん」と「もんじゅ」が揃いました…

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「三 如来出現の原因」を読みました。

この章はまとめがありますので、そこをメモっておきたいと思います。

・行を完成することは無量である。(無料じゃなくて、無限ということですね)
・十方にある一切のものを広く満たし、広大である。
・生滅の基盤を離れていて、執着せず、欲望もない。
・(日常の)心、おもい、認識を離れていて、行くことがない。(不来不去のこと?)
・虚空と同様の本性で、身体がない。(実体がないということ?)
・一切衆生に我(アートマン)はなく、平等である。
・一切衆生のために無尽となる。
・未来のはてまで断絶せず、あともどりしない(不退転)。
・如来の知恵には障害がなく、奪うものもない。
・原因や諸条件によってつくられたもの(有為)と、そうでない絶対的存在(無為)との平等性を覚知し、無二である。
・以前に成熟させた衆生のすぐれた宗教的志(意楽:いぎょう)を満足させ、すべての輪廻の道にあるものたちを利益する。

《つづく》
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「華厳経如来性起品」の「四 如来の身――如来出現の第二相」を読みました。

如来の眼に見える姿をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

第一の比喩
虚空界(空間)は全く果ての無い領域で、形あるものとないもの、物と非物のすべてにわたり、あらゆる方角とその中間に、虚空という要素が浸透しているように…

如来の身もすべてに浸透していて、どこに行くこともなく、どこに去ることもない。なぜなら、如来の身には身体がないからである。ただ、衆生が知覚することができるように、その身体なきものを身として説明するに過ぎない。

第二の比喩
虚空には判断は無く、さまざまに区別して考える戯論(無分別なるものを分別(主客に分けて認識し、判断する)し、それによって種々の誤った見解が生ずること)がないように…

如来の身もあれこれの判断はなく、戯論もない。なぜなら、如来の身はそもそものはじめから、あれこれの多様な戯論の一切を遮断しているからである。

第三の比喩
大地に日が昇るとき、闇を残りなく除いて万物を照らし出し、光の降り注ぐいろいろな土地の種々の場所において全ての衆生を利益するように…

如来も全ての衆生を利益し、善なるはたらきを育て、無知の闇を除去し、般若の知恵を輝かせることによって、一切の安楽を得させる。

第四の比喩
日輪が大地を照らすとき、どこを先に照らそうという判断があるわけではないが、まず高い所を照らし出し、その後に低い所を照らし出すように…

如来たちの知恵の日輪も、何の判断もなく、光線は平等に降り注ぐけれども、衆生たちの善根に差異があり、志に差異があるため、如来の光明も区別があるように表れてくる。

第五の比喩
眼を持たない者は太陽が普く照らすのを見ないけれども、太陽は一切衆生の飢えを無くし身を潔めて軽快にし、眼を持たない者をも利益するように…

信心の無い者は仏という太陽を見ない。しかし、仏は彼らをも利益し、菩提の座に至らしめることもある。

第六の比喩
月が昇るとき、(1)一切の星を凌駕し、(2)増減(満ち欠け?)をよく示し、(3)清澄な水の器にその影を現わし、(4)どんな衆生にも分け隔てがないように…

如来の身も、(1)仏弟子の道に属するあらゆる聖者たちのあらゆる種類の徳性を凌駕する。(2)どのような心の傾け方をする衆生にも、その種々の見解に応じて、さまざまな寿命の量を示しながら、如来の身の月輪自体には増減がない。(3)あらゆる世界において、深い宗教的志(増上意楽)を持つ心が清浄な衆生の前にその姿を現す。(4)教化されるべき衆生に応じて適宜の姿を見せるという方法で如来の身を現わすが、分け隔てはなく、多様な判断もない。

第七の比喩
あたかも梵天がその宮殿から動くことなく、三千大千世界の全てにその身を示現し、神々や人々を支配下に置くが、梵天自らの身を様々にすることはない(?)ように…

如来も身体を変化することなく、あらゆる世界の衆生たちに対して、その志と心の傾け具合に応じて身を現わすが、如来の身には分け隔てもなく多様な判断もない。

第八の比喩
すべての学に通じた医者があり、彼を見た者は病が鎮静するので、彼の寿命が尽きる時に薬を集め身体に塗り込めて、その身を保とうとするように…

無比の医王たる如来も、方便と般若の知恵の全てに通じ、前世の行の差異に応じてその身を現わす。それを見て、衆生の煩悩は鎮静する。

第九の比喩
海の底に宝珠があって、あらゆる種類の光を放ち、それに触れた衆生は宝珠と同じになり、それを見た衆生は眼がきれいになるように…

如来も般若の知恵の光を放ち、だれであれ、それに触れた衆生は仏の色になり、それを見たものは五眼を得、無知の闇を除去し安住に至る。

第十の比喩
その宝珠が全ての願いを支え、だれが何を望もうとその人に全てものを与え、何ら分け隔てがないように…

如来の身もあらゆる願いを満足させる。彼を見て誓願を立てるものはだれであれその願いを成就する。心悪く心劣ったものたちには見えないが、分け隔てて吝(おし)んでいるのではない。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「五 如来の音声――如来出現の第三相」を読みました。

如来の音声をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

第一の比喩
四禅(原始仏教以来説かれる基本的な禅定。色界(欲望のない、肉体を存する領域)に対応)について説明しています。
・初禅では、尋・伺・喜・楽・定の5つの心作用が働く。欲と怒りがないから、極めて安楽で、欲界(欲に満ちた領域)から完全に超え出る原因となる。
・第二禅は、無想無行・無覚無観・無尋無伺(心を対象にひきとめることなく、対象を探求することもない)。
・第三禅は、歓喜から離れる。
・第四禅は、寂静。楽の感覚が無くなる。

以上が、世界が壊れるとき(?)に聞こえる四種の大音声で、これと同じように如来の四種の大音声は…

・第一の大音声は、「八種の難点(八難処)を捨てよ!」と説く。八難処とは、八種の不運な生まれ(1)地獄(2)畜生(3)餓鬼の世界に生まれること(4)長寿天と(5)辺地に生まれること(楽にふけって仏法を求めないから)(6)感官に欠陥があるもの(仏の教えを聞いてもわからないから)(7)邪見をもつもの(8)如来の出世しない時代に生まれること。
・第二の大音声は、「有為(諸条件によって作られたもの)は甚だ苦であり無常であるが、無為(絶対・究極の価値)は寂静で苦痛なく、もろもろの捨てるべきものを離れている」と説く。衆生は音声認(音声によって真理を受け入れること)を得る。声聞のこと?
・第三の大音声は、「この他者の音声に従う道(仏弟子の道)はきわめて小さい。これよりも大きな道、師を入用としない自ら真理を覚る道がある」と説く。大信ある衆生は独力で覚る者の菩提に入る。独覚のこと?
・第四の大音声は、「仏弟子の道や独力で覚る者の道を超えた大乗がある。これは菩薩行に結びつき、六波羅蜜と菩提行の流れを断たず、菩提心を捨てず、福徳と知恵の無量の集積にまとめられる。菩提への乗のうち、最勝・最上にして、すべての衆生を利益する乗である」と説く。善根を生じた衆生たちは、この如来の言葉が自分たちの善業の集積からあらわれたのだと理解する。

第二の比喩
山・岩・岩山にある音声は、人のこだまを受けて全ての岩が語るものである。種々のよりどころにもとづいているかに音声は起こり、あれこれの判断がないように…

如来の音声も分け隔てはなく、他者の修行と感官の成熟に応じて生ずる。多くの衆生を教化し喜ばせても、高慢心も救護心もない。

第三の比喩
太鼓が正義を伝える音声を持ち、神々が欲にとらわれ放逸であるとき、虚空から正義の音声を示現するように…

如来の音声を出す太鼓は、十方に普き衆生に正しく伝わる。感官の壊れた者にはとらえられない。その音声を聞いて衆生は菩提を得る。

第四の比喩
神々の王ヴァシャヴァルティンが天の宝を楽しむとき、天女の口から出る一息ごとに多くの性質があり、一息の一音から種々の音声が生ずるが、そこには分け隔てがないように…

如来の一語が響き渡ると、衆生の得られる限りの音声の諸性質が一時に生ずる。衆生はその願いに応じて如来の音声を聞き、聞き終わって煩悩を断ずるが、音声には分け隔てはない。

第五の比喩
梵天はその座から動かずに、一音声を発すれば梵天の大衆を喜ばす。しかも会衆の外には出ないで、会衆をして理解せしむるように…

如来は仏の座に坐して、一音で真理の領域を残りなく満たして鳴り響く。しかし会衆の円輪を超え出ることはなく、さりとて物惜しみの心もない。ただ信心のない衆生にはその音声は聞こえない。

第六の比喩
水の流れはすべて本性同一で、味も一様で分け隔てなく清浄で八つの徳性をもつ。地表の器が異なるに応じて、水の種類もさまざまであるように…

如来の音声も、味は一味で分け隔てなく仏の菩提を本性とするが、衆生の行為の種別によって種々となる。

第七の比喩
アナヴァタプタ龍王(四大河の源となる池の主)は大ジャンブ大陸を普く満たし、四大州を満たすように雨の流れを放ち出す。秋の収穫や森・林・水流などを次第に生み出すが、水の流れは龍王の身からも心からも生じないように…

如来も真理の領域を満たし、衆生の心を満足させるように法の大雨をふらす。百の善につとめて衆生の煩悩を鎮める。しかし、その音声は外にも内にもなんらあることはない。

第八の比喩
龍王マナスヴィンは、7日間この虚空界に雲を集めながらも、目的を果たすまでは雨を放たないように…

如来も、大悲心の雲を集めて、法の大雨を降り注ごうと決意したとき、般若の知恵と巧みな方便をもって、衆生たちを成熟させる。しかし衆生たちの機根がまだ成熟しない間は、甘露の雨を前もって降り注ごうとはしない。粗細すべてに通暁して、知らねばならぬ法を説き、衆生たちが怖畏・嫌悪しないように、次第を追って、法の無上の味をもって満たす。

第九の比喩
「荘厳」という名の大海龍王は、十種ないし百千の雲の飾りを集めて、同じ一味の雨から種々さまざまな雨を降らすように…

如来も法の雨を降り注ごうとするときは望みに合わせて、一つの法を飾りとする荘厳をもって法を説いたり、百千の法を飾りとする荘厳をもって法を説いたりする。如来の法の大雲の教説には何ら判断は無く、どの家系においても、衆生たちの能力を満たしてやるべきかに従って、無量の種類の教説が生まれる。

第十の比喩
サーガラ龍王は、四大州を雲の網で普く蔽い、各所に普く種々の雨を降らすが、愛憎に二分すべきものは無いように…

如来も、大いなる憐みの力で身の雲を広大に広げ、菩提への道を歩むものに法の雨を降らせて、分け隔てなく世間の衆生の全てにあれこれと説く。

《つづく》
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