トトガノート

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「飛行機と船で旅行してきました!」という話ではありません…あしからず。

「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「プロローグ 『空海の風景』への旅はこうして始まった」を読みました。

考えてみると、私は司馬遼太郎の本を一冊通して読んだことが一度もありません。司馬遼太郎にはNHKの「街道をゆく」から入ったものですから、一部抜粋の文章にばかり慣れていて、ところどころ映像が入ってこないと物足りない。でも、あの文章の独特な雰囲気は好きです。

弘法大師に興味を持ってから、ずっと司馬遼太郎のこの本は読みたいと思っていました。でも、このブログの読書日記でないと読破する自信がなかったので、ずっと書庫に眠らせておりました。

NHKの「街道をゆく」の映像に朗読を入れていくというスタイルは、司馬遼太郎自身がこだわったもののようです。

ドラマの形にしてしまうと脚本化の作業が間に入りますから、原作が見えてこないことが多いです。好評の大河ドラマ「風林火山」にしても「天地人」にしても、原作があっさりしているのが幸いしてか、脚本家の腕の見せ所が多く、大河とは思えないくらいに面白いお話になっています。

それはそれでいいのですが、原作が面白い場合にはドラマにしてしまうのはもったいない。新鮮な魚は刺身の方がいいじゃないか、ということです。

司馬遼太郎の最高傑作と言われるこの作品、NHK取材班の本と読み比べながら、ゆっくりじっくり、旅していきたいと思います。

《つづく》

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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第一章 なぜ、今、空海なのか」を読みました。

チーフプロデューサーの鎌倉さんの文章。「なぜ、今、空海なのか」という、番組のメインテーマが決まらなくて悩んだことが述懐されてます。

そもそも、番組を作ることになった発端はプロローグを書いた冨沢さんの事情ですから、「なぜ、今」と言われればそれが理由なのでしょうけれど…

もっともっと大きなことを世に問いたかったんでしょうね。

それでも「なぜ」にしたらいいか、悩む。後先逆なんですけど、世の中というのは、特にサラリーマンというのは、そういうことがよくあるものです。

そんな矢先、同時多発テロが起きる。それで大きなテーマを見つけることができた…という話です。

今でも9月11日という日付けをみるとドキリとします。火曜サスペンス劇場が中断して流されたあの映像はドラマなど比較にならない衝撃で、信じられない現実に震撼したものです。2001年の出来事だったのですね…

この番組は、その後に放送されたということになりますが、全然記憶にない。世界はそれどころではなかったのかもしれない。

番組スタッフから見れば、それも皮肉な話だ…

《つづく》

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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の一」を読みました。

《以下引用》
…人間も犬もいま吹いている風も自然の一表現という点では寸分かわらないということをひとびとが知ったのは大乗仏教によってであったが、空海はさらにぬけ出し、密教という非釈迦的な世界を確立した。密教は釈迦の思想を包摂しはしているが、しかし他の仏教のように釈迦を教祖とすることはしなかった。大日という宇宙の原理に人間のかたちをあたえてそれを教祖としているのである。そしてその原理に参加――法によって――しさえすれば風になることも犬になることも、まして生きたまま原理そのものに――愛欲の情念ぐるみに――なることもできるという可能性を断定し、空海はこのおどろくべき体系によってかれの同時代人を驚倒させた。…
《引用終わり》

「密教を一言で言うと(司馬遼太郎の場合)」という感じですね。「千の風になって」はここから来てるんだろうか?

《以下引用》
…すでに長安に渡来していたインドのもっともあたらしい宗教である密教が、かれによって根こそぎ日本にもたらされた。その渡来の異様な思想をかれ自身が独自なものとして体系化…
《引用終わり》

その業績が認められ大変な有名人になった空海が、故郷の満濃池の治水工事を命じられて帰郷します。地方の、しかも空海の一族(佐伯氏)の領地だけが利するような工事を国家プロジェクトとして行った…司馬遼太郎はそんな空海を「ずるい」と評している。

《以下引用》
…空海の思想には「貧しいものには物をあたえよ、富める者には法をあたえよ」という、それまでの釈迦仏教――煩悩から解脱することだけを目的とした――にはない思想があった…
《引用終わり》

だから、それなりの大義名分は成り立つが、国家を手玉に取ることも何とも思わないところもあったのではないか?

《以下引用》
…すでに普遍的世界を知ってしまった空海には、それが日本であれ唐であれ、国家というものは指の腹にのせるほどにちっぽけな存在になってしまっていた。かれにとって国家は使用すべきものであり、追い使うべきものであった。日本史の規模からみてこのような男は空海以外にいないのではないか。…
《引用終わり》

空海の別の顔が見えてきました…

《つづく》

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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第二章 讃岐」を読みました。

NHKで『坂の上の雲』がドラマ化されましたが、夫人の話によると「空海を考えていた頃と、『坂の上の雲』の執筆とは重なっていたんじゃないかしら。でもね、書こうと思ったことはまったく反対のことじゃなかったかなって思うんですよ。」ということです。ドラマも見ながら読んでいけそうで、なかなかタイムリーです。

空海を天才にした要因を、司馬遼太郎は3つ挙げています。「混血」「母の家系」「国際性」です。

「混血」とは、蝦夷のような大和朝廷に征服された人々が讃岐にも流されているので、空海もその血を受け継いでいるのではないか?という司馬遼太郎の仮説です。

「混血」とは「ハーフ」ではなく「ダブル」なのだ、という鎌倉さん(プロデューサー)の指摘も面白い。蝦夷と言えども完全なひとつの文化を持っていたわけで、ふたつの完全な文化を受け継ぐということは、可能性が倍以上に広がります。ハイブリッドしただけで、新しいものを創り出すことができるからです。

「母の家系」については、詳しくは本書を読んでいただくとして、叔父さん阿刀大足(あとのおおたり)は桓武天皇の皇子の個人教授に抜擢されるほど儒学に秀でていたことが大きいでしょう。若き空海もこの人の教えを受けていますから、空海の儒教の知識は一流のものだったと推察されます。

「国際性」とは、幼少期を過ごした讃岐の地は唐に向かう遣唐使船を浜に立って見ることができただろう、ということ。小さい時から、大陸に目が向いていたに違いありません。

満濃池とか荘内半島とか見たこともない土地ですが、グーグルの航空写真を見ながら読んでいます。


大きな地図で見る

《つづく》

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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の二」を読みました。

来年は平城遷都1300年だそうですが、実際に都が置かれたのは74年間。1300という数字と比べると見劣りがします。でも、ポンポンとお家を建て替えるが如く都を移っていくところに、当時の朝廷の権力の強さを感じます。今の高速道路に相当する古代道というのもあったようです。

元明天皇の詔から、平城京遷都は官僚主導で行われたと推察されるそうです。しかし、長岡京遷都は政治主導だったらしい…つい最近の話のように錯覚しそうでさえあります。

桓武天皇は『創意と行動力という点では多分に英雄的資質をもっているかもしれないが、反面子供っぽい性格をもち、子供が物事をやりちらすように諸事業をおこしたり、継続事業を断ち切ったり、皇太子を廃したり、なにやかやで、これがために官僚たちはふりまわされ、さらには世間が無用に混乱したりした。』と紹介されています。

今の政権交代もこんなふうにならなければいいのですが…この『独裁者』の思いたちで、奈良の平城京から長岡京への遷都が進められます。この移行期、中央の大学の「学生」(がくしょう)となった若き空海は、二つの都を行ったり来たりしながら学びました。

叔父の阿刀大足の手配で身分不相応の厚遇を受け、高級官僚養成課とも言うべき明経科に進学します。超エリートの出世コースなわけですが…

《以下引用》
…結局は、この創造力にあふれた少年は、ぼう大なもろもろの注疏の暗誦をしていっさい創意がゆるされないという知的煉獄にあえぎ、沙上で渇えた者が水を求めに奔るようにしてそこから脱出するにいたる。この知的創造を抑圧された煉獄のはてにきらびやかな代償としてあたえられるものが栄達であったが、しかしながらいったんこれを契機に疑問をいだけば、いったいそういう栄達が人間にとって何であるかという、渇者のみがもつ思考の次元にゆかざるをえない。しかも大学明経科において百万語の注を暗誦したところで、そこで説かれているものは極言すれば具体的な儀礼をふくめた処世の作法というものでしかなく、人間とはなにかという課題にはいっさい答えていないのである。経学は儒学の基幹ではあったが、ひとたびそれに疑問をもち、そこから跳ねあがって宇宙の課題のほうへ心をうばわれた場合、…儒学や儒者の世界が古ぼけた人形の列をみるように色あせてみえ、それを学ぶことによって支配者の下僚として世間を支配する方法は習得できるにしても、人間と宇宙を成り立たしめている真実や真理などはすこしも語られていないように思えてしまうのである。…
《引用終わり》

「人間とは何か」という最も根元的問題は、探っても探っても埒の開かない底無し沼のようです。若くしてはまり込んでしまうと、一生抜け出せない危険をもはらんでいる。でも、空海は違っていました。

《以下引用》
…空海における真言密教の中には型どおりの仏教的厭世観は淡水の塩気ほどもない。それが無いという機微のなかにこそ釈迦がはじめた仏教の伝統と異なったものがあるとみるべきであろう。むしろ人間がなまのままで、というよりなまであればこそ、たとえば性欲をもったままで、というより性欲があればこそ即身で成仏でき、しかも成仏したまま浮世で暮らすことができるというあたらしい体系なのである。これのみでそう考えるわけでもないが、空海は気質的な厭世家ではなかった。その証拠はいくつもあり、すくなくとものちに空海が大学をすてて無名の私度僧になったというのは厭世が契機ではない。むしろ空海は厭世家をばかにしたであろう。…
《引用終わり》

浅学の私の印象ですが、空海には猛烈な積極性を感じます。法然や親鸞のような「諦め」のようなものを全く感じない。それでいて、日蓮のような危なっかしさもない。

先を読むと、また変わるかもしれませんけど…。

《つづく》

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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の三」を読みました。

今回はアダルトなところから。
《以下引用》
…空海のような地方豪族の子弟の場合は、色を鬻ぐ家の軒をくぐらざるをえないが、宇宙の神秘や人間の生理と精神と生命の不可知なものについてずぬけて好奇心の旺盛な空海が、そういう家に行って性の秘密を知ろうとする自分の衝動にどのようにして堪えたであろう。あるいは堪えなかったかもしれない。堪えよという拘束の稀薄な社会である以上、自分の中の倫理的悲鳴を聴くわずらわしさなしにそういう家へゆき、自分の皮膚をもって異性の粘膜に接したときに閃々として光彩のかがやく生命の時間を知ったにちがいない。その時間が去ったときに不意に暗転し、底のない井戸に墜落してゆくような暗黒の感覚も、この若者は知ったはずであるかと思われる。のちの空海の思想にあってはその暗黒を他の仏徒のように儚さとも虚しさともうけとらず、のちの空海が尊重した『理趣経』における愛適(性交)もまた真理であり、同時に、愛適の時間の駈け過ぎたあとの虚脱もまた真理であり、さらには愛適が虚脱に裏打ちされているからこそ宇宙的真実たり得、逆もそうであり、かつまたその絶対的矛盾世界の合一のなかにこそ宇宙の秘密の呼吸があると見たことは、あるいは空海の体験がたねになっているかのようでもある。…
《引用終わり》

この描写、司馬遼太郎の体験がたねになっているかのようでもある。そして、この描写に共感を覚える私もまた…

《以下引用》
…空海は万有に一点のむだというものがなくそこに存在するものは清浄――形而上へ高めること――としてみればすべて真理としていきいきと息づき、厳然として菩薩であると観じたのみである(ただしついでながらこれは釈迦の思想ではない。釈迦の教団は、僧の住む場所に女の絵をかかげることすら禁じたほどの禁欲の教団であった)。さらについでながら、理趣経の文章が律動的な性的情景を表現しているということは、空海以後、それが漢語であるがためにあまり的確には知られることが少なくて過ぎてきたが、大正期あたりから梵語学者の手でそれが次第にあきらかにされはじめた。ただ空海は長安においてインド僧から梵語を学んだためにそのいちいちの語彙のもつ生命的情景も実感もわかりすぎるほどにわかっていたはずである。…
《引用終わり》

ティーンエイジャーの空海は『理趣経』には出会っていないはずですが、『世の取りきめのみを説く儒教』にうんざりし、自分が求めているものが仏教には有りそうだという確信を得ていきます。

《以下引用》
…人間の内臓、筋肉、骨格、皮膚はことごとく万人に共通し、その成分もことごとく同じである以上、自他の区別というのはどこでつくのであろう。どれほど小さな一点においても区別がつくはずがなく、人間の生理的内容も、性欲をもふくめた人間の活動もことごとくおなじものであり、差異はなく、差異があると信じているのは人間のもつ最大の錯覚にすぎず、その最大の錯覚の上に世の中が成立しており、孔子が「いまだ生を知らず、いはんや死をや」といって弟子の質問を避けたようにその錯覚をはれものにおびえるようにして触れることなしに成立しているのが儒学ではないか、と空海はおもった。あるいはおもったであろう。…
《引用終わり》

これは現代社会においても全く事情は同じように思います。こういった疑問を突き付けられた時、大抵の大人は戸惑うしかありません。空海はこの疑問を叔父に突き付けて、延歴十年(791)に十八歳で入った大学を一年ほどで中退します。

全く時代を感じないのは、司馬遼太郎の腕もさることながら、空海の苦悩が時代を超えた根元的なものだったということだと思います。そしてそれは、仏教あるいは真言密教が今日でも十分通用することを裏付けるものでもあります。

更に言えば…

「性」なくして誰一人誕生しえないのですから、完全な体系を構築するためには実は絶対に外せないテーマなのです。立川流のような偏向の恐れを空海も感じてはいたでしょうが、それでも敢えてその教えの中に取り込んだということは、本当に人間の営みの全てを取り込むのだという強い決意が感じ取れます。そして、そんなことでは自分の構築した体系は揺らがないという絶大な自信も感じ取れます。

空海という男…物凄い男に思えてきました。

《つづく》

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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第三章 奈良」を読みました。

《以下引用》
…男山の南麓、交野は788年(延歴7年)に桓武が中国の皇帝を真似て、天壇を築き、生贄の牛をささげた地である。のちに坂上田村麻呂が連れ帰った蝦夷の将、アテルイとモレをだまし討ちにしたのもこの地だったという。…
《引用終わり》

東北の人間としては微妙ですが…京都周辺に行ったことがないので、航空写真はワクワクします。

確かに平城京よりも長岡京の方が海(大阪)に近くて、便利そうですね。ただ、京都盆地を意識すると偏った場所です。琵琶湖に引っ張られるようにして、平安京に移って行ったんですね…


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《以下引用》
…ひとたび人間とは何か、という哲学的問いを立てたならば、本質的な問いを回避した所に積み上げられる知識や規範などは、逆にみずからの精神を束縛しようとするものだと感じられる。さらに、世の中の秩序が、大衆を奴隷的精神の持ち主へと貶め、管理することによって成り立っていると考えたならば、高級官僚など、いわばその精神的な奴隷たちのリーダーに過ぎないと思い至ったであろう。…
《引用終わり》

24歳の空海の著作『聾瞽指帰(ろうこしいき)』『三教指帰(さんごうしいき)』に、こういった思索の経過がまとめられているのでしょう。いつか読みたいです。

《以下引用》
…密教は7世紀のインドで成立したとされる。釈迦仏教、すなわち厳しい修行によって煩悩をたちきり解脱をめざす宗教からは大きく変質し、現世を肯定、欲望をも否定しない。少なくとも印象においては、まったく新しい宗教であった。

密教が生まれたころの世界において、釈迦の教えはすでに少数の修行者だけのものではなくなっていた。しかし教えを受ける庶民たちの多くは、欲望を断ち切ることなどできない。到底たどりつけない解脱の境地と照らして、みずからが当然の本能としてもっている煩悩の大きさに精神の負い目を抱かずにはいられなかったであろう。密教を生み出した哲学者たちは、おそらくこのような人間精神のありようを、惨憺たるものだと感じたであろうし、だからこそ、釈迦の思想を昇華させることで、生に対して肯定的な宗教を作り出そうとしたのかもしれない。かれらがその思想の中心に据えたのが、大日如来という宇宙の真理を体現する絶対的な「虚構」であった。…
《引用終わり》

人間とは何か、という哲学的問いの答えを「あの世」に求めている宗教・宗派は多いのではないでしょうか?これは逃げであり、ごまかしではないかと思います。

でも、空海は逃げません。

《つづく》

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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の四」を読みました。

《以下引用》
…中国文明は宇宙の真実や生命の深秘についてはまるで痴呆であり、無関心であった。たとえば中国文明の重要な部分をなすものが史伝であるとすれば、史伝はあくまでも事実を尊ぶ。誰が、いつ、どこで、何を、したか。そのような事実群の累積がいかに綿密でぼう大であろうとも、もともと人生における事実など水面にうかぶ泡よりもはかなく無意味であると観じきってしまった立場からすれば、ばかばかしくてやる気がしない。

インド人は、それとは別の極にいる。

この亜大陸に成立した文明は奇妙なものであった。この亜大陸には、史伝とか史伝的思考とかいった時間がないのである。生命とは何かということを普遍性の上に立ってのみ考えるがために、誰という固有名詞の歴史もない。いつという歴史時間もなかった。すべて轟々として旋回する抽象的思考のみであり、その抽象的思考によってのみ宇宙をとらえ、その原理をひきだし、生命をその原理の回転のなかで考える。自分がいま生きているということを考える場合、自分という戸籍名も外し、人種の呼称も外し、社会的存在としての所属性も外し、さらには自分が自分であることも外し、外しに外して、ついに自分をもって一個の普遍的生命という抽象的一点に化せしめてからはじめて物事を考えはじめるのである。…
《引用終わり》

人生のツボを外し、道を外した私にピッタリ?中国文明は確かに、今も、人種にこだわってますね…

《以下引用》…
空海とは別な方法で科学を知ってしまった後世が、この空海をあざけることは容易であろう。しかし密教の断片において科学の機能を感じた空海のそれと、後世が知ったつもりでいる科学との、はたしてどちらがほんものなのか。つまり自然の本質そのものである虚空蔵菩薩に真贋の判定をさせるとすればどちらがその判定に堪えうるかということになると、人間のたれもが(つまりは所詮自然の一部であるにすぎない人間としては)、回答を出す資格を持たされていない。
《以下引用》

結局、20世紀の物理学者たちも現代科学に虚しさを感じ、インドにその答えを求めたりしました。

《以下引用》…
…十九歳の空海は、文明の成熟の遅れた風土に存在しがちな巫人能力(超自然的な力に感応しやすい能力)をもっていたかと思われる。言葉をかえていえばその感応しやすい体質でもって天地を考えたあげく、それに応えようとしない儒教的な平明さという世界が食い足りなくなったともいえるであろう。おなじことを別の面からいえばかれに儒教的教養があったればこそただの土俗的巫人にならず、ぼう大な漢字量のかなたにある仏教に直進したといえるかもしれない。…
空海はその生来の巫人的体質によって諸霊の存在を積極的に肯定していた。ただかれが、のちにインドにも中国にも見られないほどに論理的完成度の高い密教をつくりあげるころには、そういう卑小の諸霊たちはすべて形而上的になり、ほとんど記号化され、ついにはその体系のなかに消えこんでしまっただけのことである。

《以下引用》

そういう能力の人、めっきり少なくなりました。文明が成熟したということなのでしょう。

《以下引用》…
…諸霊をしずめる方法として、当時の日本には古俗的な鎮魂の作法があったが、しかしどうにも効き目がうすく、そういう神道にかわるべきあらたな効能として仏教が国家的規模でうけ容れられた。日本における仏教の受け容れ態度はあくまでも効能主義であった。たとえば医薬のように効能として仏教がうけ容れられるということは、この思想をつくりあげたインド文明の正統な思想家たちにとって意外とすべきものであったにちがいない。仏教の祖である釈迦はこの点ではとくに厳格で、弟子たちが庶人に乞われて呪術をほどこしたりすることをかたく禁じた。釈迦はあくまでも理性を信じ、理性をもって自己を宇宙に化せしめようとする思想の作業によって解脱の宗教をひらいた。…
《以下引用》

仏教に効能を求めたのは、唐も同じだったようです。中国でもインドでも衰退していく仏教が、空海たちに身を委ね、海の向こうの小国に疎開した…そんなふうにも感じます。

《以下引用》…
仏教が日本に入って二百年になる。
最初のころこそ、壮麗な伽藍と芸術的な礼拝様式、そして金色のかがやきをもつ異国の神々に対して日本人たちは効能主義であったが、しかしやがて冷静になった。正統の仏教が組織に入ってくるに従って仏教が即効的な利益をもたらすものでなく、そのぼう大な言語量の思想体系に身を浸すこと以外に解脱の道はないということを知るようになった。日本人の知性が、知識層においてわずかに成熟した。仏教における六つの思想部門が、奈良に設けられた。華厳、法相、三輪、倶舎、成実、律である。しかしながらそれらは多分にインド的思考法を身につけるための学問であり、「だからどうなのか」という、即答を期待する問いにはすこしもこたえられない。

そういう日本的環境のなかで、空海は雑密というものをはじめて知る。
雑密は純密のかけらでしかないにせよ、南都の六宗などとはちがい、効能という点ではおどろくべき即効性をもっていた。論理家である空海が、それとは一見矛盾する体質――強烈な呪術者的体質――をもっていたことが、この即効性をはげしく好んだことでもわかるであろう。…
《以下引用》

仏教にもいろいろな顔があります。「哲学としての仏教」というか、インド的思考法の断片がじんわりと浸透し、ゆっくりとこの国の国民性を作り上げて来たように思います。そういう意味で、仏教は、この国をここ何百年と守り続けてきたと言えます。

しかしながら、当時の人が望んだのは即効性だったようです。

《つづく》

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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の五」を読みました。

この章はインド孔雀で始まります。孔雀は毒蛇や毒蜘蛛も容赦なく食べてしまうそうで、この解毒作用にドラビダ族(非アーリア人の一種族)の人々は驚き、自分たちもそうなりたいと思った。そのために孔雀の咒をとなえた。

《以下引用》
…咒は、言語である。しかし人語ではない。自然界が内蔵している言語であり、密語の一種であり、人間がその密語をしゃべるとき、自然界の意思がひびきに応ずるがごとくうごく。もっとも咒が息づいていたころのインド土俗にあっては自然と人間は対立するものでなかった。人間の五体そのものがすでに小宇宙であるとし、従って、小宇宙である人間が大宇宙にひたひたと化してゆくことも可能であり、その化する場合の媒体として咒がある。…
《引用終わり》

バラモンたちも大量の咒を使っていたが、釈迦はそれを嫌った。教義上嫌ったのか、僧が咒で衣食することを嫌ったのかは分からない。咒には、ひとの病気をなおしたりする修行者の護身のための善咒と、他人を呪い殺したりする悪咒とがある。釈迦が禁じたのは悪咒で、善咒は時と場合によってはやってもかまわない黙認のかたちだったらしい。

《以下引用》…
釈迦の仏教は、インドにおいてはながくつづかなかった。釈迦教に従ったところで、人間が肉体をもつことによる苦しみから解脱するというきわめて高級な境地が得られるのみで、しかも解脱に成功する者はすくなく、あるいは天才の道であるかもしれなかった。平凡な生活者たちは現世の肯定をのぞんだ。そういう気分が咒を核とする雑密を生み、仏教の衰弱とともにそれらが活発になり、さらにはそれら雑密が仏教的空観によって止揚され、統一され、ついに純粋密教を生むにいたる。さて、そういう過程において、孔雀についての思想も変化してゆくのである。
《以下引用》

孔雀の解毒機能が、人間の解脱を妨げる精神の毒(貪ること・瞋ること・癡かしいこと)にも作用するとして、「孔雀明王」が成立。やがて、密教の中に合流していく。

《以下引用》…
紀元一世紀ごろから六、七世紀ごろまでのこの亜大陸のアラビア海に面する西南海岸では、地中海とのあいだの貿易がさかえて多くの港市が発展し、後世のインド人からは想像しがたいほどに精力的な商人が活躍していた。…

釈迦は商利の追求を貪りとして人間の三毒のひとつとしたが、現世の栄耀を否定するかれの宗教がかれの死後二百年後で力をうしない、とくにこの西南海岸の諸港市において変質もしくは他のもの――密教――に変らざるをえなかったのは当然であったかもしれない。…

この商業的世界に当然ながら無数の土俗的雑密が流入していた。そして商人たちに福徳をあたえていた。雑密を好むくせに、一面では宇宙的構想を好むインド人たちは、たとえば星屑のように未組織のままに、カケラとして存在している雑密の非思想的な状態に耐えられなくなったらしい。これらカケラのむれを、哲学的磁気で吸いあつめ、壮大な宇宙観のもとに体系づけようとした。…

その作業のためには、たとえばキリスト教が神という唯一絶対の虚構を中心に据えてその体系に真実をあたえたように、インド的思考法もまた絶対的な虚構を設定せざるをえなかった。…このため、生きた人間として歴史的に存在した釈迦をも否定し、あるいは超越せざるをえなかった。
「この大いなる体系を、大日如来が密語(宇宙語)をもって人間に説法した」

…おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。大日如来は無限なる宇宙のすべてであるとともに、宇宙に存在するすべてのものに内在していると説かれるのである。太陽にも内在し、昆虫にも内在し、舞いあがる塵のひとつひとつにも内在し、あらゆるものに内在しつつ、しかも同時に宇宙にあまねくみちみちている超越者であるとされる。
…《以下引用》

壮大な思想体系がどんなふうに出来上がっていったか…推理するのは楽しいものです。司馬説によれば、密教は現世的であり、現代のような経済社会とも相性がいいことになります。

《つづく》

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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の六」を読みました。

まずは華厳経についての記述。私が探し求めている「古き良き日本」の根源、武士道なのか仏教なのかと彷徨っていましたが、華厳経の中に見つかりそうな気配がします。

《以下引用》
…中国および日本の思想にこの経ほどつよい影響をあたえたものもないのではないかとおもえる。一個の塵に全宇宙が宿るというふしぎな世界把握はこの経からはじまったであろう。一すなわち一切であり、一切はすなわち一であり、ということも、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、また禅がしきりにとなえて日本の武道に影響をあたえた静中動あり・動中静ありといったたぐいの思考法も、この経から出た。この経においては、万物は相互にその自己のなかに一切の他者を含み、摂りつくし、相互に無限に関係しあい、円融無碍に旋回しあっていると説かれている。しかもこのように宇宙のすべての存在とそのうごきは毘盧遮那仏の悟りの表現であり内容であるとしているもので、あと一歩すすめれば純粋密教における大日如来の存在とそれによる宇宙把握になる。さらにもう一歩すすめた場合、単に華厳的世界像を香り高い華のむれのようにうつくしいと讃仰するだけでなく、宇宙の密なる内面から方法さえ会得すれば無限の利益をひきだすことが可能だという密教的実践へ転換させることができるのである。…空海はのちに真言密教を完成してから、顕教を批判したその著『十住心論』のなかで華厳をもっとも重くあつかい、顕教のなかでは第一等であるとしたが、このことはインドでの純密形成の経過を考えあわせると、奇しいばかりに暗合している。…
《引用終わり》

つづいて大日経について。

《以下引用》
…毘盧遮那仏は釈迦のような歴史的存在ではなく、あくまでも法身という、宇宙の真理といったぐあいの、思想上の存在である。…この思想を、空海ははげしく好んでいただけでなく、さらに「それだからどうか」ということに懊悩していたはずであり、その空海の遣り場のなかった問いに対し、『華厳経』は答えなかったが、『大日経』はほぼ答え得てくれているのである。大日経にあっては毘盧遮那仏は華厳のそれと本質はおなじながらさらにより一層宇宙に遍在しきってゆく雄渾な機能として登場している。というだけでなく、人間に対し単に宇宙の塵であることから脱して法によって即身成仏する可能性もひらかれると説く。同時に、人間が大日如来の応身としての諸仏、諸菩薩と交感するとき、かれらのもつ力を借用しうるとまで力強く説いているのである。…
《引用終わり》

空海の足跡の中での謎の七年間、私度僧として、社会的に肩身は狭いながらも自由な立場で、むしろそれを存分に利用して、大安寺や久米寺に出入りし、多くの経典に触れたようです。

《以下引用》
…かれは釈迦の肉声からより遠い華厳経を見ることによってやや救われた。死のみが貴くはなく、生命もまた宇宙の実在である以上、正当に位置づけられるべきではないかと思うようになったはずである。生命が正当に位置づけられれば、生命の当然の属性である煩悩も宇宙の実在として、つまり宇宙にあまねく存在する毘盧遮那仏の一表現ではないか、とまで思いつめたであろう。この思いつめが、後年、「煩悩も菩薩の位であり、性欲も菩薩の位である」とする『理趣経』の理解によって完成するのだが、その理解の原形はすでにこの久米寺の時期前後にあったであろう。…
《引用終わり》

私度僧になるということは、通常は「脱落」になります。でも、空海の場合はこの時期に思想の原形が出来上がったようです。

善無畏三蔵が725年に翻訳を終えた『大日経』が5年後には日本に伝わっていました。多くの経典の中に埋没していたものを私度僧空海が発見します。そして諸仏・諸菩薩との交感の方法を身につけるために、唐を目指します。

純粋密教は、中国でもインドでも消滅し、チベットでは変質してしまっているので、空海が確立したもの以外は残っていないそうです。

これほど有意義な「脱落」は世界史的にも稀でしょう。

《つづく》

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