トトガノート

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「釈尊の生涯」(春秋社)
「1.釈尊および釈尊伝について」を読みました。

「仏教入門」とかぶるところがあるかと思いますが、この本で釈尊の生涯を丁寧に見ていきたいと思います。

《以下引用》
それが大乗仏教になると、仏陀に関する哲学的考察がなされるようになって、仏陀には、仏陀の本質としての原理的仏陀の面(法身)と、修養努力によって完全の域に達した理想的仏陀の面(報身)と、教化し救済する相手に応じて、最も都合のよい姿をなし、特定の時代や地域に現われる具体的仏陀の面(応身または化身)との、三つに区別して論ぜられるようになった。この見方からすれば、前にあげた毘盧舎那仏(大日如来)は法身であり、阿弥陀仏は報身であり、釈迦仏や弥勒仏などは応身であるとせられる。
〔注〕
この見方からすれば、観世音菩薩も、その名は菩薩という仏陀以前の仏陀候補者にすぎないけれども、実はすでに仏陀となっているので、ただ衆生救済のために菩薩の姿をなし、相手に応じてそれぞれ三十三身等の身を現じて活動をするという。したがって観世音菩薩も応身の仏である。
《引用終わり》

仏陀とは、という最初のところで、釈尊と仏陀の違い(定義の違いというか、概念的な違いですね。釈尊=仏陀は紛れもないことです)と説明する中で、法身・報身・応身という三身説について説明しています。

この説明は他の本でも何度もお目にかかっておりまして、この本の説明が特別優れているということでもないと思いますが、自分としてしっくり来たのでノートしておきます。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「2.釈尊前後のインドの時代と環境」を読みました。

・ヴェーダ時代(紀元前1500〜1200年)
アーリア人がインドに侵入し始め、この新しい土地で、一方では自然の脅威と立ち向かい、他方ではドラヴィダ人などの先住民族と衝突していたが、着々と勢力を拡大していった。

・ブラーフマナ時代(紀元前1200〜700年)
アーリアの社会が安定したものになる。アーリア人は、バラモン(純粋な種族。祭事や学問をつかさどる最上位の階級)、クシャトリヤ(異民族との混血種族のうちで、戦いに従事したり、政治を司る武士王族の階級)、ヴァイシュヤ(異民族との混血種族のうちで、牧畜、農業、商工業などにたずさわる庶民の階級)の3つの階級を形成。その下に被征服民族のドラヴィダ族がシュードラ(奴隷階級)として仕えた。

・ウパニシャッド時代(紀元前700年以後)
アーリアの社会は爛熟とともに腐敗堕落するようになった。ガンジス上流地方から東南の中流地域へと繁栄は移り、新天地では政治勢力をもった王族階級が実質的権力を握った。商業貿易も盛んで、豪商財閥も多かったらしい。

祭官であるバラモンは私利私欲に走って、真面目な研学実践や、民衆の精神的指導のような、本来の義務を怠り、民衆からの信頼尊敬と、社会への影響力を次第に失っていった。

そこで、新しい思想が生まれた。神や祭式が人生の運命を決定するという説に対して疑問をいだくようになり、人間の運命はわれわれ自身の心の持ち方や努力のいかんにかかっており、われわれの行為の善悪によって決定されると考えられるようになった。

それはわれわれの自由意志による善悪の業(行為)によって、幸不幸の結果が得られるという善因善果、悪因悪果の因果応報の思想である。

この因果の連鎖は、単に現世のみの間に存在するのでなく、過去から現世へ、現世から未来世へというように三世にわたって不断に存続するとせられた。これが三世にわたる業報説であり、業に従って幸不幸の世界に生まれ代るという輪廻説である。

ウパニシャッド時代には、昔ながらの祭祀バラモンと、業報輪廻説を説き、輪廻からの自我の解脱を考究実践する哲学バラモンとがいた。

・解脱思想
輪廻は永遠に続いて、そのままでは、この輪を断ち切ることはできず、絶対の幸福と安心は得られないから、実は苦悩にみちたものであるという、現状に対する悲観が基調となっている。

この不安な現状を脱して、絶対平安の世界を求めたのが解脱の要求であり、ウパニシャッドでも、自我(アートマン)と精神世界である梵(ブラフマン)とが融合して、梵我一如の理想境に到達した時に、輪廻からの解脱が得られるとした。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「3.釈迦族について」を読みました。

釈迦国はヒマラヤ山麓の辺鄙な場所で、新興文化の中心であるマガダ地方と比べればおくれていたであろう。他国との頻繁な交通や商業貿易もあまり行われなかっただろう。金持ちの商人がいた様でもない。そのかわり、戦火の巷となることもなく、平和で静かな生活ができたことだろう。

しかしながら、釈迦族は元来武士王族であったため、武術には長じていたらしく、西南の隣国である大国コーサラが、臣下として隷属している釈迦国に、武芸を学ばせようと王子を送り込むほどであった。

原始聖典のなかの、釈尊の少年時代の述懐が引用されています。

《以下引用》
私は若いころには、たいへん身体が柔弱であり、きわめて華奢であった。私の父の住まいには、あちこちに蓮の池があって、私を喜ばすために、それぞれが赤や白や黄色の蓮や睡蓮などが植えてあった。私はよい香りのするカーシー産の栴檀香以外は用いないし、衣類はターバンやジュバン、下衣、上衣などにいたるまで、カーシー産の軽い立派な絹のものだけを身に着けた。
私が邸内を散歩する時は、夜も昼も、私の上には白い傘がさし掛けられていたが、これは暑さ寒さを防ぎ、雨露をしのぎ、ちりやほこりが落ちて来ないためであった。また私のために三つの宮殿が建てられたが、その一つは冬に適し、一つは夏に適し、一つは雨期に適するものであった。たとえば雨期の四カ月間は、私は雨期用宮殿にあって、美しい女たちだけで奏でるいろいろの歌舞音曲を楽しみ、宮殿から下りることもしなかった。また一般の家では、召使や職人たちには、屑米の飯やすっぱい粥などを食べさせるけれども、私の父のところでは、召使や職人たちにも、白米や肉の食事をとらせたのである。
《引用終わり》

かなり裕福な生活だったようです。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「4.釈尊の出生から出家」を読みました。

釈尊の生母マーヤー(摩耶)夫人は35歳前後で懐妊され、臨月に里のコーリヤ国に向かう途中、両国の中間のルンビニー園で急に産気を催し、お産をしました。シッダッタ(悉達多)、サンスクリットではシッダールタ(Siddhartha)という名前は「一切の目的を完成している者」という意味。当時は珍しくない名前だそうです。

マーヤー夫人は産後の経過が思わしくなく、一週間目に他界。その末妹が新しい夫人となります。つまり、二十歳くらいの若い叔母が、継母となり、シッダッタを育てることになります。ナンダ(難陀)という弟は、この継母の子。

シッダッタ王子は沈思黙考を好む性格で、ある考えが浮かぶと解決するまで徹底的に追及しなければ気が済まない人でした。瞑想を習慣とし、禅定による精神統一が得意でした。また、生来、優れた霊能力者であったようです。

そして、老、病、死について悩むようになります。他人が老いさらばえ、または病気で苦しみ悩んでも、あるいは亡くなっても、一般の人々は他人事として気に留めない。しかしシッダッタ王子は、自分の身に引き当てて悩み、慚じ、きらい、そして自分の現在の壮年に対するおごり、健康に対するおごり、生命に対するおごりに気づき、断ち切りました。

結婚後10年して子どもが授かりますが、この子に対する愛着が出家の決意を鈍らすだろうと考え、男児出生の報を聞くと、「困ったことだ、障碍が生まれた。」と言ったので、障碍(障害?)という意味のラーフラ(羅睺羅:らごら)と名づけられたそうです。

何て親だ!全く!

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「5.出家の旅にのぼる」を読みました。

《以下引用》
当時のインドでは、バラモン階級だけでなく、他の新興階級の間にも、人生問題を解決するために、妻子を捨て家を出て、道を求めるという風習があったので、太子もこの風習に従って、出家求道の旅に出られたのである。…それはのちに成立し、制度化したインド上層階級の四時期の習慣と関係する。四時期とは、物心ついてからの男子の一生を四つの時期に区分したのであって、それは次のごとくである。
《引用終わり》

この風習は釈尊時代にはまだ完成していなかったようですが、ほぼこれに近い風習が釈尊時代にもあったと考えられるので、ノートしておきたいと思います。

1.学生期
7,8歳のころから約十二年間の修学時代。バラモンの学問の師の家に起居し、ヴェーダその他、人生に必要なあらゆる学問技術を学び、独身で厳格な訓練の下に生活する。梵行期とも言い、学生を梵行者という。

2.家長期
二十歳前後〜。家に帰って結婚し、家長として家業に従事する。家産や子孫や祭祀の火を絶やさぬこと、神々や祖先の霊をまつること、父母師長に孝養をつくし、客を歓待し、宗教者や困窮者に財物の施しをすること、などが義務付けられる。

3.林棲期
50歳ころになって、長子が家督を継ぐころになると、家を出て森林に隠棲する。妻を伴う場合と家に残す場合がある。林中では、神や祖先の霊をまつり、生産に従事することなく、他から食を乞うこともなく、林野に自生する穀物果実、草根木皮などを食べ、獣皮、樹皮などを身にまとい、断食や苦行をなし、祭祀のほかに坐禅瞑想をなし、哲学的思索をなして、聖音オーンを念じ、梵我一如の境地を得ることに努める。この時期の人を、シャモンとか牟尼(寂黙の聖者)と呼ぶ。

4.遊行期
林中での修行が完成し、人生問題が解決され、理想の境地が体得されると、森を出て、村落や都市を、一介の雲水として、無一物になって、托鉢遊行する。学生も托鉢するが、この時期の遊行者に対して家長は丁重に仕え、衣食を給することで、大きな利益功徳が得られるとされた。比丘(食を乞う者)と呼ばれた。

これをベースに考えると、釈尊の行動も特別変ったものでもなかったようです。

《つづく》
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「6.太子の修道――(一)禅定」を読みました。

当時のインドで、人生問題を解決し、輪廻から解脱する方法としては、禅定と苦行が一般的だった。

最初は坐禅瞑想によって、梵我一如を思惟観察し、聖音オーンを念想し、梵我の一元論を主張していた。次の段階として、個人的な精神原理(プルシャ:神我)と物質原理(プラクリティ:自性)という物心二元論が主張されるようになった。

精神原理と物質原理の対立が諸悪の根源であり、これを取り除く方法、即ち物質の束縛からの精神の自由を得る方法が瑜伽禅定である。瑜伽とは禅定と同義で、精神を一点に集中して、外部からの物質的肉体的な刺激や誘惑にも動ぜず、精神の統一と自由なはたらきを実現させるものである。

一方、肉体を苦しめて衰弱させ、肉体の束縛から精神を解放しようというのが、苦行の考え方である。

まず、太子(釈尊)は禅定の修行を目指し、アーラーラ・カーラーマに、続いてウッダカ・ラーマプッタに師事した。

アーラーラ仙は無所有処定(何物にも執着しない無一物の状態となった禅定)を得て、これに到達すれば、人生の最高の理想が達成されると主張した。ウッダカ仙は非想非非想処定(精神作用があるのでもなく、ないのでもないような、一種の無念無想の精神統一の禅定)を理想とし、それで輪廻から解脱できると説いた。

太子はこの段階ではどちらにも満足できず、苦行の修行の方へと移っていく。が、この二つの禅定は、仏教でも採用されることになる。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「7.太子の修道――(二)苦行」を読みました。

禅定で悟りが得られないと判断した釈尊は、苦行に挑戦しました。当時行われていた苦行は、大別して四種類ありました。

1.心を制御するもの
2.呼吸を止めるもの
3.断食によるもの
4.食を減ずるもの

心を制御する苦行とは「端座して上下の歯を合わせ、舌を上顎に着け、その姿勢のままで、心をもって心を制御、統制すること」ということですが、禅定と似て非なるものという感じですね。

呼吸を止める、あるいは食事を減らしたり絶したりというのは、体力を衰えさせる方法としては納得できます。

SMのMみたいのもので、こういうのはギリギリのところまでいくと気持ちいいらしいですね(もちろん聞いた話ですが)。当時のインドでは、変態趣味でも虐待でもダイエットでもなく、極めて真面目な目的で行われていました。とっても危険な話です。

太子はとっても真面目な性格だったので、いずれも超ハードなコースを選んでしまい、瀕死の状態を何度も経験したようです。

そして六年の修行の後、苦行の放棄を決意します。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「8.菩提樹下の思惟と成道」を読みました。

苦行をやめて体力が回復した太子は、菩提樹(アッサッタ樹という一種の無花果)の下で思念をこらしました。悪魔の来襲(修行の妨げとなる一切のものを例えたんでしょうね)を受けながらも、ついに悟りを開きます。このとき悟ったとされるのが…

・宿命通(宿命明):自分および他人の過去を知る能力。
・死生智通(天眼明):人々の未来の運命を予知する能力。
・漏尽智通(漏尽明):後述。
・神変通:空を飛んだり水上を歩いたり体を大小にしたり…ウーム、忍術のようなものでしょうか。
・他心智通:他人の心を見抜く力。
・天耳通:聴力が敏感であること。

で、先の3つを三明、後の3つを加えて六通あるいは六神通、または三明六通と言います。
釈尊は全てを身につけたということですが、漏尽智通のみが仏教者の悟りとされています。

《つづく》



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「釈尊の生涯」(春秋社)
「9.さとりの内容」の最初の方を読みました。

釈尊がさとった漏尽通は、存在するものはすべて生滅変化するものであり(諸行無常)、そこに絶対不変の本体というような存在を認めない(諸法無我)ということが出発点になっています。ところが当時のシャモン、バラモンたちの主張は全く逆でした。

到底わかってもらえないだろうから人に説くのはやめようとしますが、梵天勧請によって説く決心をします。

釈尊の主張は…
1.実体界は苦の解脱に関係のないことだから、たとえ本体の問題が解決されても、それは人生問題の解決には役に立たない。
2.このような実在は時空のうちになく、時空のみに関係するわれわれの経験をこえたものであるから、われわれの経験的知識によっては絶対に解決されない。

1.は、ソクラテスが、当時のソフィストたちが、単なる議論のための議論(詭弁論)に終始しているのを批判したのに似ている。
2.は、カントが、彼以前の唯心論や唯物論が問題とした実体は、われわれの経験をこえた形而上学的存在であるから、その解決はわれわれの経験的知識では不可能である、としたのに似ている。

釈尊は当時の形而上学的問題を十無記または十四無記の名でまとめている。箭喩経の毒矢(毒箭)の喩えが有名である。

《以下引用》
仏教外の一般の宗教や哲学では哲学問題として、「何があるか」、「何であるか」という本体そのものを取り扱ったが、仏教では、「いかにあるか」、「いかにあるべきか」という現象の考察およびそれへの対処方法を取り扱ったのである。換言すれば、仏教では、ものが存在するか否かではなく、ものの存在はいちおう通俗的立場で現象としてこれを認め、その存在がいかなるあり方をし、いかに生滅変化するか、そして理想としてはそれはいかなるあり方をすべきであるかということを探求し考察したのである。もののあり方は理論的には無常であり無我であり、さらに実践的には無我――他と矛盾衝突することのない、正しい法にかなった無執着にして自由自在なあり方――の態度を取るべきであるというのが、仏教の根本的立場であった。
《引用終わり》

《つづく》


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「釈尊の生涯」(春秋社)
「9.さとりの内容」の中ほどを読みました。

釈尊当時のインド思想界で、本体論に次いで問題となったのが現象論だそうです。現象界がいかにして発生し、いかに変化するかということです。当時のシャモン、バラモンの主張は…

1.神意論(自在化作因説)
最高神を立てる正統バラモンの主張。現象世界の発生・持続・消滅すべては全知全能の神(自在天とか梵天)によって支配されており、人間の幸・不幸の運命も神の意志によって決まるとする。

この理論では人間の自由意志が全く認められず、我々は自身で自分の運命を開拓することが許されない。責任もなく、自分の意志による修養努力もなくなってしまう。

2.宿命論
我々の運命は、前世の行い(宿業説)や、生まれながらの階級(階級因説)や、地水火風などの要素の結合状態の良否(結合因説)によって、あらかじめ定まっているという考え方。

神意論と同じく、我々の自由意志の介入する余地が全くない。

3.偶然論(無因無縁説)

因とは直接原因、縁とは間接原因をいう。我々の運命は、最高神やその他のものに左右されることはない。

運命は偶然に起こるから、偶然の好機を捉えることだけが必要であり、機会が到来した時に直ちに把握し享受すべきであるという、刹那的享楽主義になってしまう。

***

真理はいずれにあるか、という問題なのかもしれないのですが、真理であることを証明することも難しい問題です。ですから、前掲の三つの論の問題点を考慮し、自分の運命に対する考え方としてどんな理論が哲学的・宗教的に意義深いか、という思索を釈尊は巡らしたのではないかと思います。

自分の運命に対してどんな捉え方をすれば、人々は生老病死の苦悩から解放され、元気に生きていくことができるのか…それが釈尊の、宗教デザインのコンセプトのようです。

《つづく》


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