トトガノート

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Category:★仏教 > 「瞑想の心理学」

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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「真如と言葉」を読みました。

二元性の世界を象徴するのが言葉だと思います。言葉を元にして一元性の世界を目指すこと、それが離言真如ということになります。

《以下引用》
妄りに心が起こるということは、言葉でもってさまざまな思いを表現することだ。われわれは言葉を尽くして、是非・善悪を論じ、いろんな価値や意味を自分なりに勝手に造り出すが、かえってさまざまな問題を抱え込む言語ゲームの世界、すなわち戯論の世界へと入っていく。しかし、そういう心(妄心)を離れていくならば、やがて言葉というものが消え、次第に沈黙の世界へと入っていくであろう。…言葉というのは、とりわけ真理に至る実践の道を辿ろうとする場合、ただ言葉を離れるために言葉を利用するに過ぎない。
《引用終わり》

言葉は何事をも正確に語り尽くすことなどできません。真如などという究極的なモノに限らず、日常的な会話でさえ言葉を離れた時に理解は生じるのかもしれません。

《以下引用》
言挙げを必要とするのは虚妄だけであり、その証拠にわれわれはこれまで主義、主張、理念など、いろいろと声高に叫んできたが、一体それが何を生み出したか、少し歴史を顧みれば分かるはずだ。そんなものはすべて心(妄念)の生み出した妄想であり、結局、政治的、思想的、経済的に混乱を招いただけであり、総ては崩れていった。これからも人間が心というもの、同じことであるが、実体のない単なる言葉を連ねた思考の本質を根本的に問い直さない限り、立ち上げてはどんどん崩れていくことだろう。
《引用終わり》

大きな結論に達したような気がするのですが、まだ序章です。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「真如―空と不空」を読みました。

以前、依言真如としてまとめておりました。

《以下引用》
…われわれが心(妄心)でもって一瞬一瞬(念念)に分別し、心ゆえに二元相対の世界が現れ、真実の世界を翳しているのであるから、われわれが空ずべきは、あるいは離れるべきは自分自身の心(妄心)であり、その心を離れることさえできればそれでいいと理解しているところが、『起信論』の「空」理解の非常に重要なところなのだ。

しかし、心を空ずると、後には何もないのかというと、そうではなく、…真実ならざるもの(妄境界)が空じられるだけであって、真実なるもの(一法界)までもがなくなってしまうのではないから、『起信論』は「如実不空」と言う。
《引用終わり》

井筒先生の文章も併せて読むとより分かりやすいと思います。

「Aである」と言って、その舌の根も乾かぬうちに「非Aである」と言っているような表現方法です。矛盾に満ちたまったく意味を成さない文章のようにさえ見えます。しかし、逆に言うと、言葉で表現し得ないものを表現した場合にはこうなるということなのかもしれません。

言葉でスッキリ表現できるということは、妄境界を語っているということです。そしてこれが因分可説・果分不可説ということなのでしょう。

論理矛盾のような表現を用いることによって、果分可説の道が開けるということかもしれません。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「アーラヤ識」を読みました。

唯識派のアーラヤ識と、起信論のアーラヤ識の違いについて述べられています。

唯識派の場合、われわれが生死に迷う根本意識と見なされることから妄識と言えます。そして、これが「転依」とか「転識得智」と呼ばれるように、「転」じることでさとりに至ります

起信論の場合、人間の心を心真如(真心)と心生滅(妄心)の二相に分け、如来蔵的に説明しているので、アーラヤ識も真識と妄識の和合識としています。そして、和合識の相を「破」して、相続心を滅することで、法身が顕現することになります。

《以下引用》
…しかし、法身を得るということで言うならば、…目的は同じなのだ。

さらに、その目的に至る方法論も同じなのだ。例えば、『大乗荘厳経論』が説く「転識得智」のプロセスの基本は奢摩他・毘鉢舎那(止・観)であり、『起信論』の場合も、真妄和合識の相を破していくプロセスは止観双修である。
《引用終わり》

《つづく》
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序章「『大乗起信論』概説」の「心源―大海水波の比喩」を読みました。

《以下引用》
…心源とは心の本源という意味であり、それはもとより浄いということで本源清浄心、あるいは自性清浄心とも言う。心と心源は先に挙げた、妄心と真心、妄念と本心、心と心性などと同じ関係にあるが、果たして仏教は、心をその本性において知ることの大切さをことあるごとに主張する。実際、心の本性(真心)を知ることが存在の意味を知ることでもあり、心の本源以外あなたが辿るべきところなど本当はどこにもないのだ。というのも、心の本性(本心)はもとより仏であるからだ。
《引用終わり》

この心(妄心)と心源を、『起信論』では波と海に譬えています。

《以下引用》
…今のところわれわれは、この波に過ぎない心を自分の心と見誤り、良くも悪くもその心に惑わされ、徒に混乱して、その内側に始めもなければ終りもない心(真心=本源清浄心)が果てしなく広がっていることに全く気づいていない。…『起信論』は「無明の風」によってわれわれの心は波立つと言う。

衆生の自性清浄心も無明の風に因りて動ずる。(『起信論』33)
《引用終わり》

如来蔵思想や唯識などの説明でもいろいろな例えが用いられていますが、大海水波の比喩が一番しっくり来るような気がします。3.11の津波の映像を見たばかりだからでしょうか…。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第一章「認識論―不覚無明」の「無明の忽然念起」を読みました。

《以下引用》
…では、無明はいつ始まったのであろうか。言い換えれば、われわれは不生不滅の永遠の世界から生滅する時間の世界に、いつ退転してきたのかということだ。

…それは、心源の不覚とともに時間は始まったと理解することで解決される。つまり、不生不滅の永遠の世界から生滅する時間の世界にわれわれが入ったそこは、いわば「始源の裂け目」であり、われわれは無時間の世界から時間の世界に入ったということだ。そして、心源の不覚によって生じた心(妄心)が時間を紡ぎだしていると見るのだ。

…無明には始まりがなく、しかも原因なくして起こってくるところを『起信論』は「忽然」と言い、無明は時間の中で起こったのではなく、時間とともに始まったということで「無明の忽然念起」と言ったのかもしれない。
《引用終わり》

この『起信論』の説明は、SF的な雰囲気があって素敵です。

相対論の最も衝撃的だった点のひとつは、時間さえも相対的であると指摘した点だと思います。物体の運動の仕方で時間の進み方は違う。重力の強弱でも時間の進み方は違う。

時間の進みを早く感じたり遅く感じたり、というのは完全に自分の錯覚だと思っていましたが、時間そのものも歩みを早めたり遅らせたりすることがある…。

『起信論』では、時そのものが妄心によって生じるという。

「忽然」は仏教用語としては「こつねん」と読むようです。

《つづく》
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第一章「認識論―不覚無明」の「深層意識<三細>」を読みました。

《以下引用》
…『起信論』は根本不覚に続いて、「三細」と「六麁」からなる枝末不覚が起こってくると言う。六麁の「麁」は粗大という意味であり、われわれの日常生活の中でも自覚されうる粗大な心を言う。一方、三細の「細」は微細という意味であり、粗大な心のさらに内側にある深層レベルで、ほとんどの場合、自覚されないままに存在している微細な心を言う。「六麁」を表層意識とするならば、「三細」は深層意識と言えるだろう。
《引用終わり》

デヴィッド・ボームが提唱する明在系と暗在系が、それぞれ「六麁」と「三細」に対応するようです。

唯識の八識で言えば、五識と意識を合わせた六識が明在系で、末那識と阿頼耶識は暗在系。

三細の三種の相については以前もまとめましたが、本書に沿って再度まとめてみます。

1.無明業相(むみょうごつそう)
根本不覚ゆえに、われわれが無明の相、すなわち生死輪廻する業(カルマ=行為)の世界に入ること。不覚の心(妄心)が続く限り、われわれは徒に生と死を繰り返し、虚妄の世界をさ迷うことになる。

心源の不覚によって三界生死の迷いの世界に入ったとき、心は見るものと見られるもの、経験するものと経験されるものの二つに分かれる。不覚ゆえに生じた無明の心(妄心)は主体と客体の二相に分かれる。

2.能見相(のうけんそう)
見るもの。経験する主体。

3.境界相(きょうがいそう)
見られるもの。経験世界(客体)。

「業(カルマ)」という言葉は、三細の無明業相でも、六麁の第五の起業相でも出てくる。六麁の業は身・口・意の三業(行為)で、普通われわれが行為(業)ということで考えているもの。三細の業は深層レベルの出来事で、われわれは全く自覚していないけれども、不覚ゆえに心が揺らぐところに、すでに業(カルマ)による生死の世界が始まっていることを意味する。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第一章「認識論―不覚無明」の「表層意識<六麁>」を読みました。

六麁については以前もまとめましたが、本書に沿って再度まとめてみます。

1.智相
われわれは何であれ五官が捉えたものに、文字通り主観を交えて、愛不愛、好悪、美醜、損得などを一瞬のうちに識別する段階。われわれが実際の行為に移る前にこのような判断、あるいは計算がまず働いているので、「六麁」の最初に智相がきている。

2.相続相
好悪、損得などを直感的に判断した後、好ましいものならば楽と結びつき、そうでなければ苦と結びつく段階。好きなものには取り込もうとし、嫌いなものはできるだけ遠ざけようとする。

3.執取相
相続相で生じた苦楽にどこまでも執着していく段階。

身・口・意の三業に当てはめるなら、これまでの三相は意業に当たる。

4.計名字相(けみょうじそう)
愛不愛から苦楽を読み取り、それに執着するあまり、「名字」、すなわち言葉や概念を連ねて、自己や組織エゴをむき出しにする段階。

身・口・意の三業に当てはめるなら、口業に当たる。

5.起業相(きごつそう)
このように適当に言葉で理論武装しておいて、いよいよそれを実際行動に移す段階。

身・口・意の三業に当てはめるなら、身業に当たる。智相に始まった身・口・意の三業は、ここにおいて最も具体的な行為となり、われわれは目的達成に向けて多大のエネルギーを注ぎ込む。

6.業繁苦相(ごつけくそう)
自分の欲するところに随って起こした身・口・意の三業によって、かえって因果の法則に縛られ、自由をなくしていく段階。

《つづく》
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第一章「認識論―不覚無明」の「メビウスの帯」を読みました。

この本は、仏教に限らず、別の宗教や、科学書からの引用も多く、興味深いです。

《以下引用》
…思い出されるのは『旧約聖書』の「創世記」である。「善悪を知る木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、きっと死ぬであろう」というのも、同じ人類の悲劇の幕開きを物語るものであり、神の国から地の国へ(『起信論』的に言えば、一法界から妄境界へ)転落した人間の「始源の裂け目」に認識の問題があり、われわれが何の疑義を抱くこともなく当然のこととして是認してきた、主客の二元論的な思考方法の中に、極めて重大な欠陥あるいは矛盾がありはしないかということだ。…

われわれは行為(身・口・意の三業)について是非・善悪を言うが、「六麁」で説明されたように、表面に現れたところだけを取り上げて論じてもあまり意味がない。すべての行為が起こってくる根底に心源の不覚無明があり、その不覚の心(妄心)がさらに主客の二つに分裂し、そこから愛・不愛(智相)というようにして行為が始まっていることなど全く考慮されていないからだ。
《引用終わり》

非常に高級な理念・理論のように聞こえても、結局は計名字相のプロセスが入念だというだけのことです。だから、どんなに高級な議論の対立であっても、どんどんと元を糺していくと結局は好き嫌い(愛・不愛)に帰着するんだと思います。

そこまで気づくことができれば、論争はバカバカしくなるんでしょうけどね…。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第一章「認識論―不覚無明」の「世間と出世間」を読みました。

序論でも同様のことが書かれておりましたが、この本は表現を少しずつ変えて繰り返して下さるので、初心者でも安心して読めます。

《以下引用》
『起信論』はこの心(妄心)に基づく主客の二元論は、人間意識の深層における出来事であるために、誰も注意を払うことはないけれども、われわれすべての経験の根底にある無知と迷妄の元凶と断じているものなのだ。心源の不覚無明から良くも悪くもすべての行為は始まる。そして、この全体が「不覚の相」であり、虚妄であると言ってくるところが、『起信論』における「三細・六麁」の非常に重要なところなのだ。もちろん、われわれは虚妄になど安住してはおれない。いかにしてこの無明を除き、真実を明らかにするかが、いずれ問われることになる。
《引用終わり》

前回の「元を糺せば…」は好き嫌い(愛不愛)でしたが、さらに元を糺せば主客の対立に行き着きます。

この無明をいかにして取り除くのか…

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第一章「認識論―不覚無明」の「学問と宗教」を読みました。

序論でも学問と宗教の違いについて述べられていましたが、そのときはちょっとしっくり来なかったんですが、この章の内容は大満足です。

《以下引用》
主客の二元論がもたらした私と世界との分離の結果、客観的に世界が記述できると信じられ、そのような客観的記述こそが、すべての学問の理想とされていることは誰しも認めるところであろう。その場合、主・客・知の三つの要素からの知の体系、すなわち学問は成り立っているが、ここで言われる知とは、もちろん客観的真理を指している。しかし、これまで述べてきたところからも分かるように、仏教(宗教)はこの認識の構造には多分に問題があると見ているのだ。少なくとも、これは世間知であって、仏教が目指そうとしている出世間智ではない。

…二元論の網の目を通してわれわれが外的に存在すると見なしているすべてのものは、元を辿れば心源の不覚によって起こってきた心(妄心)が主客に分裂した結果であり、観察するものと観察されるものが不覚妄心の分裂したものであるがゆえに、主客の認識構造から導き出される学問体系はすべて仮説にすぎない…

そうすると、仏教を初め、宗教というのは何を試みようとしているかというと、実は、この認識構造を壊し、虚妄(不覚の相)から真実を顕そうとしているのだ。しかし、それはわれわれが虚妄に代わる真実なるものを新たに作り出すという意味では決してない。というのも、真実を作り出すことなど人間には絶対できないのだ。人間が作り出すものは…すべて虚妄(不覚の相)であり、…従って、われわれは虚妄を取り除くだけであって、決して真実を作り出すのではない…。
《引用終わり》

自他の別のレベルが「区別」、好き嫌いの別のレベルが「差別」。「差別」から自分を解放することが、まずもって我々が取り組むべき修練ですが、それがなかなか難しい…。

「差別」を排した「区別」の段階が学問のレベルであることは、科学が典型的で分かりやすいと思います。

仏教は「区別」を排した段階を目指す。筆者は、仏教のみならず、宗教すべてがそうであることを示唆しています。これも興味深いところです。

《つづく》
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