トトガノート

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Category:★公文式小林教室 > 国語教材

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L教材の60番まで終わりました。

「胡蝶の夢」の『荘子』は面白いですね。

湯川秀樹氏の文が引用されていますが、「小学校へ入る前から、漢学、つまり中国の古典をいろいろ習った。」とあり、中学校に入るころには「もっと違った考え方」を求めてお父さんの書斎をあさったとのこと。就学前にL教材ということでしょうか?

そして、やはり「荘子を特に面白いと思うようになった」とのこと。同じ物理学を勉強した人間として、とても嬉しいというか、納得です。知魚楽は、確か中学校の国語の教科書に湯川さんの文章が載っていて、それで初めて知りました。論理学の面白さというか、奥深さを知りました。「ここまで言われても反論するのか!?」という荘子と恵子の頭の良さというか、議論好きというか、「いい加減にしろよ!」と言いたくなるほどのしつこさというか…感嘆したものです。

今回も再読することができて、良かったです。

『孟子』に関しては、論理的な『荘子』と比較すると雲泥の差です。そのことが解説文にも書いてあるので、それを読んで「だよね!」と納得しました。ところが、学校の授業では、なかなかここまで批判的な評論はしてくれません。そうすると、「だよね!」という強い共感は生じなくて、結局、「よく分からない…」という印象で終ってしまうのではないでしょうか?

「だよね!」ではなくて、「僕は『孟子』好きだな」という感想を持つ人もいるかもしれませんが、それはそれで印象に残るし、漢文に興味を持つきっかけになり得ると思います。実際、私は『墨子』に関しては同情的でした(笑)

白黒ハッキリした解説文が良いと思います。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-060〕

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L教材の40番まで終わりました。

個人的には『墨子』が好きです。丁寧に理論を展開しているところがいいな、と。そうしたら「墨子の文章の拙さは、戦国時代から既に有名であったらしい。」という解説。「読み手にくどさとしつこさを感じさせる」のだそうです。自分の文章もそうなのかもしれません。

墨子が提唱したのは「兼愛」。「兼(ひろ)く愛して交(たが)いに利する」という考え方です。孟子は、主君や親をその他の人と同一視している点を批判しているそうですが、儒家のそういう視点の方を私はむしろ好みません。分け隔てない「愛」の概念はキリスト教のそれに近いものを感じます。

3年前に、直江兼続の「愛」の由来は何かという議論がありました。兼続の「兼」と兜の「愛」の字が、墨子の「兼愛」の文字を見るたびにチラつきました。当時、墨子の「愛」ではないか?という意見が全く聞こえなかったのは不思議です。それだけ墨子はマイナーなのかもしれません。

『列子』は寓話形式なので、楽しいですね。道家の思想だというので、てっきり「愚公、山を移す」という話は、山を動かした愚公が文字通り愚かだという話なのだと思っていたのですが、意外でした。道家にも積極的な部分があるのですね。

狙公の話もとんち話っぽくて面白いですね。タルムードの、ユダヤ人の悪口をする子どもたちに毎日褒美をやり、その褒美を徐々に減らしていくことで悪口をつまらなくさせてやめさせた、という話を思い出しました。

杞憂に関する故事も、久しぶりに読むと面白いです。天地が崩壊するという危惧は、世紀末にもありました。震災を経た今となっては、杞国の人の気持ちの方が共感を呼びそうです。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-040〕

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L教材の20番まで終わりました。漢文です。懐かしいです。

漢文と言うと、まずレ点とか、返り点を教えられて、まずそこでウンザリしていたような気がするのですが、公文教材は流石にそんなことはしませんね。ホッとしました。

書き下し文をまず音読するところから始めてみました。この独特の言い回しは大好きです。それから、いろんな考え方に触れるのが好きなので、諸子百家を読むのも大好きでした。

漢文と言えば、やはり最初は『論語』です。「学びて思はざれば則ちくらし…」で「学ぶ」を「読書」と解説されているのを見て、なるほど公文だ!と思いました。

ただ、何となく、この歳になって読み返してみると、孔子という人は何となく偏屈な感じがして、思想としても余り深いものを感じません。儒教が余りにもスタンダード過ぎて新鮮味を感じなくなったということなのかどうか。

その点、『老子』の方が何だか深みを感じました。「賢者を尊ばなければ人民の争いは生じない、品物を貴重だとしなければ盗みはしない…」とか「器にしても家にしても『無』があるから用を足すのだ」という考え方は、学生の頃に初めて出会ったときと同様の「なるほど」感がありました。

ただ、この思想にどっぷり浸ってしますと何もしないことになってしまいそうですが。

書き下し文に触れて、それぞれの思想のエッセンスをつかむことができますから、世界史や倫理社会の参考書としても使える教材ですね。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-020〕

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K教材の200番まで終わりました。というか、K教材終了です。『玉勝間』が、公文教材の古文のトリということになります。

本居宣長は国学者ということですが、その思想は哲学の本にも引用されるほどで、世界に通用する哲学者ではないかと思います。

引用部分では、手当たりしだいに本を読みあさって、契沖を書物の上での師としてその著書を次々に読破したことなどが描かれています。それは、日本の文化に心酔し傾倒していく姿でもあります。

読書による自学自習という点でも、これまでJ・K教材を通して俯瞰してきた古文学習のまとめとしても、とてもふさわしい題材だと思いました。

【グラス片手に大人の公文】国語〔K-200〕

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K教材の190番まで終わりました。

『雨月物語』を読みました。「1776年刊行。上田秋成作。読本。和漢の多くの書を典拠とした翻案怪異小説集で、9編の短・中編から成る。作者の倫理観・人間認識が織り込まれた傑作。」と教材で紹介されています。

1776年と言えばアメリカ独立の年。享保に生まれ、天明とか寛政といった時代を生きています。天明年間に次の教材で出てくる本居宣長と論争したりしています。

読本というのは、大衆娯楽小説のようなものでしょう。江戸怪異文学という分野があるほどに、江戸庶民は怪談好きだったのでしょう。そこに僧の背徳や妖しい美を織り込んだ深みは、それだけ江戸文化が円熟しているということだと思います。

現代人もホラーとか好きですよね。

【グラス片手に大人の公文】国語〔K-190〕

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K教材の180番まで終わりました。

『おくのほそ道』『曽根崎心中』『心中天の網島』を読みました。時代は江戸。

『おくのほそ道』は、ドナルド・キーン氏の解説文が素晴らしい。「国破れて山河あり」には私も疑問を感じていました。第二次大戦を想起すれば、国が敗れれば山河も木っ端微塵に爆撃される。そんな近代戦を考えなくても、自然てそんなに不変だろうか…。やはり、中国と日本は違うのかな、と。

どうやら、芭蕉もそう感じていたらしい。聖武天皇の時代からあった多賀城の壺碑に、心を留めています。山や川といった歌枕でさえ、かつての姿を留めてはおらず、自然は不変ではないということを痛感させられる旅であったようです。

さらにキーン氏は、文化元年(1804)の地震で、象潟が既に芭蕉が訪れた頃の姿を留めていないことを指摘しています。景色が変わってしまうような大地震は、千年を待たなくともやってくるのですね。原発を開発した人々が、この文章を読んでいたら…と思います。

『曽根崎心中』『心中天の網島』は、いずれも近松門左衛門の代表作です。浄瑠璃には、英雄や佳人の伝説・実話を題材とした時代物と、江戸時代の庶民生活を取材した世話物があるそうですが、心中を扱った上記二作品はもちろん世話物。時代物では鄭成功をもとにした『国性爺合戦』が有名ですね。

『曽根崎心中』は大阪で起きた心中事件を題材にしていますが、事件から上演までわずかに一カ月しかかかっていないとのこと。この速さに、江戸時代の庶民の活気を感じます。

『曽根崎心中』には昭和の改訂版があるそうですが、近松の正本と比較している富岡多惠子氏の文章が引用されています。改訂版がいかに不粋か、近松がいかにセンスがいいか、とても面白い内容でした。

【グラス片手に大人の公文】国語〔K-180〕

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K教材の160番まで終わりました。

『井筒』『忠度』『日本永代蔵』を読みました。時代は室町から江戸。

『井筒』『忠度』は、いずれも世阿弥謡曲の代表作ということです。足利義満など、将軍家をパトロンとして創り上げられた文化のようです。一般大衆を対象にしているわけではないでしょうから、マニアックに深淵に作りこまれているようです。

能は敷居が高いという印象がずっとあって、一生その深みなど分からないだろうと思っていましたが、教材は結構分かった気になれるように仕上がっていると思います。

音読してみると、その読みやすさはすぐに分かります。音の多様性や意味の多義性など、二重三重に重ねられた構成は凄いんですね…。ハマったら抜けられなくなりそうなくらい魅力がありそうです。

『日本永代蔵』も当然名前は知っていましたが、これほどのものとは思いませんでした。近世初期に富を築いた町人の例が30話あげてあるとのこと。教材では三井九郎右衛門の話が取り上げられています。今の三越ですね。

商売も一つの取引で大きな利益を上げることができなくなってきた時期(現在に酷似)に、九郎右衛門は売り場を大きく取り、現金取引で薄利多売にし、呉服の種類別に専門の店員を配置、しかも一反売りにこだわらず高級布地も切り売り可、急ぎの客にはその場で仕立てられるように裁縫する人も置いていたという…

九郎右衛門の知恵もさることながら、ビジネス成功の理由を分析して紹介しています。これが、1688年に成立していたというのですから、日本て凄い国だなとつくづく思いました。

今回、この教材を勉強して思い出したのが、サミュエル・スマイルズの「自助論」(1858年)。ヨーロッパで困難に負けず頑張って事業等で成功した人の話がたくさん紹介されている本です。明治維新直後に「西国立志編」として翻訳され、明治期の事業家たちはバイブルとして読んだと言われています。これと似た物が約二百年も前に日本に成立していたというのですから…すごいな。

【グラス片手に大人の公文】国語〔K-160〕

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K教材の140番まで終わりました。

『徒然草』『太平記』『風姿花伝』を読みました。鎌倉から室町へと移っていきます。

『徒然草』は、誰もが知ってる作品。「書き手も気軽に書いてますから読む人も気軽にね」的なイメージがあったのですが、やはりそれは上辺だけで、底には深〜いものがあるようです。

「仁和寺にある法師」とか「神無月のころ」とか今でも何となく覚えているものがあるのですが、教科書で習っていたのは深みのないところばかりだったんじゃないかと思われるくらいに、教材で引用されている個所は私の今までのイメージとは違うものばかりでした。

今を思うと、古文の授業というのは解釈ばかりに終始していたような気がします。兼好法師の人柄や、後世への影響、現代における評価など、もう少し教えてもらえたら興味を持ったかもしれない。

理系だったから古文なんか(!)に興味を持つ暇がなかったのかもしれませんね。やはり、高校教材は高校に入る前にやるべきです。

『太平記』は、最大の軍記物語なのですね。楠木正成など、天皇を救うために、積極的に犠牲となっていく場面が描かれています。鎌倉時代よりも武士の地位が確固たるものとなり、その忠義の証となる切腹はこの時代に圧倒的な数になるとのこと。新渡戸稲造の『武士道』も引用され、とても興味深い解説文です。

『太平記』は「義」のために命をかける武士の姿が美しく、私は好きなので、もっといろんなところで取り上げて欲しいと思っていたのですが、どうも戦前にかなり取り上げられていたようですね。楠木正成は父の世代には国民的ヒーローだったようです。これが自決を厭わない大日本帝国軍を作り上げたのかもしれません。その反動から、戦後はあまり取り上げられなくなったんでしょうか。

ともかく、この時期の文学を俯瞰する際、無視できない大作であることは間違いないようです。

『風姿花伝』は何となく興味があって、本を買ったことがあります。結局、買っただけで終わってしまいましたが(笑)。生まれつきの美しさ、容貌がいいのはいいと認めた上で、そうでない美しさについても触れています。

確かに論の中に矛盾めいたものがあって、そこが芸術の奥深さだと解し、分かったような分からないような気持ちで読んでいたのですが、世阿弥の中でも整理がついていないようだという指摘が解説にあり、とてもスッキリしました。

【グラス片手に大人の公文】国語〔K-140〕

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K教材の110番まで終わりました。

『十六夜日記』と『とはずがたり』を読みました。前者は鎌倉中期、後者は鎌倉後期の作品です。毎回ですが、昔の人を馬鹿にしちゃいかんなぁと思います。

『十六夜日記』は、遺産相続問題という実に生々しいお話。筆者(阿仏尼)の夫が亡くなり、遺言どおりであれば実子が財産を相続できるはずなのに、嫡男(正妻の子)が渡そうとしない。京の役所では埒が開かないので、鎌倉に訴えに行く話です。最高裁まで訴えに行くみたいな感じでしょうね。とても、現代的です。

現代文で解説されているように、この切羽詰まった旅でありながら、文章に技巧が施されていて、緊迫感が感じられない。例えるなら、息も絶え絶えの人が、五七五で季語と韻を施しながら助けを求めているような状況です。「本当に苦しいんですか?」と言いたくなるような…。ウケます。

『とはずがたり』は、前半が作者の数多くの恋愛の記憶、後半は出家後の見聞を記している日記。現代文の解説でも、「自己否定を知らない、自己嫌悪に陥ることもない」と酷評されています。出家しても、煩悩の塊…。

たばこプカプカ、お酒ちびちびやりながら、若い頃の自分の恋愛遍歴を、「もういいですから」サインをさんざん送っているにも関わらず、語り続けているオバサン(若い頃は美人だったかもしれない)…そんな状況を思い浮かべました。まさに、問わず語りです。

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『正法眼蔵随聞記』と『歎異抄』を読みました。今回はどちらも仏教書です。前者は道元、後者は親鸞の言葉をいずれも弟子がまとめたものです。

『正法眼蔵随聞記』での引用部分は、他人を助けるために自分の命を投げる覚悟が持てるか?ということが問題となる箇所です。現代文の解説は、和辻哲郎の「沙門道元」ですが、親鸞との対比によって道元の思想を説明しています。当然、学習者は親鸞にも興味を持つはず。そこで、次の教材が『歎異抄』となるわけで、ここでもありがたい構成になっているなあと思います。

『歎異抄』は、前半の引用部分では悪人正機説について理解することができます。後半の引用部分では、親鸞が弟子を試すように難題を提示し、弟子が困惑したところで「宿業」について覚らせようとしている箇所が取り上げられています。

ところで、親鸞が出した難題とは、「私の言うことには何でも従うんだな?」と念を押した上で「人間を千人殺して来い!」というもの。この究極の選択のような問題提起は「ハーバード白熱教室」を思い出しました。でも、ハーバードに遜色ない迫力と面白さです。

悪人正機説には、善人だけが救われるだろうという一般的な考え方を猛烈に批判したいと言う親鸞の気持ちを強く感じます。ニュートラルに表現すれば、昨日書いた「罪には善も悪も無い」ということかと私は思います。サンデル教授の「正義」に関する講義より、こちらの方が私には興味深いです。

【グラス片手に大人の公文】国語〔K-090〕

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