トトガノート

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「現代ソフィスト伝」の第二部「三、学習以前の問題」の「2、学習の見通しが立てられない(1978〜1980)」を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用》
一般に、教育はできるだけ幅広く、十全なる基礎力を子どもにはあたえるべきだと考えられている。生活重視の実物教育も、労作教育も、総合教育も、子どもの全体を教育するという発想である。低年齢のときの教育は、かぎりなく自由にして、そして、ゆたかに、「ゆとり」を持って。物心ついたあたり、自覚が生まれるころから、少しずつ目標をしぼって、それぞれの具体的な目標のもとに計画的な教育をおこなう、自立をめざす教育のイメージがこれなのだ。こうした意味の広い基礎力と自由が、そして、愛情が、とくに幼児期、幼いころには必要だとされている。
《引用終わり》

まことしやかに聞こえるので、つい「うんうん」とうなづいてしまいそうな文言ですが…。

《以下引用》
しかし、この考え方はまやかしっぽい。子どもの実際の姿を見ない一方的なものだから、自由だ、自立だと言っても、かえって、不自由感がまといつく。公の考えは、富士山のように上にいくほど狭まるイメージとはむしろ逆である。なにもかもやることなど、もともと、できはしないのだ。幼児教育や初等教育では、むしろ、できるだけ基礎学力にしぼる。子どもに栄養となるものを、あれもこれもあたえるのではなく、何をしないかが大事な要諦なのだ。これがなくては先で困るものだけにして、そして、成長していくにつれて、初めて子ども自身の力で学習の可能性の領域を広げていく。先にいって専門のせまい領域に閉じ込めようとするのではない。そうではなく、むしろ、上にいけばいくほど、子どもを自由の荒野に解き放つ教育の形である。公の教育の仕方は、世間が考える方向といつも反対を走る。第二次性徴はなにも体の変化だけをいうのではない。異性に興味をもつのは、むしろ、子どもたちが異世界への関係性を求めている証拠ではないのか。こうした時期に、あてがった専門の選択をせまり、モノサシを当てた規範のなかに子どもを押し込めようとするのは、新たな関係のなかに見出そうとする子どもの成長、また、子どもの可能性の発現に、むしろストップをかける。
《引用終わり》

総合的な教育を目指した「ゆとり教育」の失敗は、こういうことなのかもしれません。漠然とした「あれもこれも」にこだわって、この先に必要になることをしないまま、小学校時代が、あるいは大切な幼児期が終わってしまう。これは、とても勿体ないことです。

《つづく》

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「現代ソフィスト伝」の第二部「三、学習以前の問題」の「2、学習の見通しが立てられない(1978〜1980)」を読みました。(小林教室収蔵

当時、公氏が設定した「指導の目標」…

《以下引用》
(1) 新入会生徒には入会1年間に3教材以上、それ以降は2教材以上進めることを目標とする。(但し、幼児、小1の生徒は除く)
(2) 入会後、40人中20番以上の生徒であれば、その90%は入会1年後に学年に追いつき、1年半後には進度一覧表に掲載されることを目標とする。

…「進度一覧表」は学年を半学年分、進んだ生徒の一覧表のことである。だから、公文の教室に入ったら、ふつうなら一年半後には学校の半年先の学習に入っている、というのである。…

公はさらに数年後の『留意事項』には、次の(3)を書き加えている。

(3) 進度一覧表に掲載された後は、2学年先、3学年先を学習するように指導すべきである。
《引用終わり》

公文を知らない方のためにもう少しだけ解説しますと、1教材とは通常200枚のプリントで構成されておりまして、一学年分の内容です。小学一年生相当の教材がA教材、二年生相当がB教材、…中学三年生相当がI教材となります。

小一の春に入会したとしたら、一年後、小2に進級するときにはB教材を始めている。さらに半年後、小二の秋にはB教材を修了する…という感じ。その後は、どんどん進めるだけ進みましょう、ということですね。

これだけを見ますと、公文式は学年を超えた勉強にこだわり、先に進むことばかりいたずらにけしかけているように見えるかもしれません。「そんなに先に進んでどうするの?三年生になったときすることが無くなるじゃないの?」という疑問を、私も聞くことが多々あります。

以下は私見ですが…

そもそも「一年生で習う内容」というのは絶対的なものなのか?と疑問を持つことが重要です。大雑把に言うと、義務教育で教えておきたいねぇ〜という内容を集めて、分量を9で割り、最初のひとつを「一年生で習う内容」としたのだと思います。

「一年生で習う」というのは「一年生でだけ習わなければいけない」という意味なのか。「幼稚園児がやってはいけない」という意味なのか。逆に「二年生がやってはいけない」という意味なのか。それに近いことをおっしゃる学校の先生が意外と多いように思うのですが、そんな絶対的なものでは断じてないはずなのです。

なぜなら、4月に生まれた子と3月に生まれた子が一緒の学年に入っていますけど、「一年生で習う」がそんなに厳格な意味ならば、そんなことはできないはず。

また、「これからはゆとり教育ですから」とか「これからはゆとり教育じゃないですから」と言って、「一年生で習う内容」を減らしたり増やしたりもできないはず。

つまり、「一年生で習う内容」というのは便宜的なもので、それほど深い意味は無いということです。

それほど深い意味は無いのであれば、一年生のうちに二年生で習う内容を見ておくということは何の問題も無いはずです。

「早くやると変な形で身につくのでは?」という人がいます。それなら、「3月に生まれた子を4月に生まれた子と同じ教室に入れても構わないのはなぜですか?」とお聞きしたい。「3月に生まれた子は変な形で身につくおそれはないのですか?」と。

例えば9日間の旅行をするとします。「一日目に歩く分の地図は一日目にしか見てはいけない。明日はどこを歩くか絶対に教えない」と言われて旅行するのと、「9日目までの全行程を余裕があれば、いつでも見ておいていいよ」と言われて旅行するのとではどっちが楽しいでしょうか?言わずもがなだと思います。

公文の教材は、一年分の内容を200枚に凝縮しているわけで、完璧に仕上げるための問題集としては量が少ないと思います。でも、何枚あれば完璧と言えるでしょうか?おそらく何百万枚あっても完璧などということはありません。ですから、教材は多ければいいというものではないのです。むしろ、多くの要素を含んでいるのであれば少ないに越したことはないのです。

最低限の要素をこなして一年分を修了とし、どんどん先に行っておく。二日先も三日先も先取りして旅の行程を見ておくのです。何年か後の算数の時間にどのくらい急な坂道にさしかかるかを見ておくのです。

それでも、早くやると変な形で身につくとお考えですか?三年生でやることが無くなるとお考えですか?私は全く逆だと思います。心の準備ができており、自分でペース配分もできているかもしれませんから、変な形で身につくおそれはないし、万が一そうなったとしても直す余裕があります。三年生になって、もう一度、学校で見なおすわけですから、より深い理解が得られると思います。

いかがでしょうか?

《つづく》

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「現代ソフィスト伝」の第二部「三、学習以前の問題」の「2、学習の見通しが立てられない(1978〜1980)」を読みました。(小林教室収蔵

このころ、公氏は「進度モデル」というものを提唱しています。今、○○くらいの進度のお子さんは、半年後はここ、一年後にはここくらいまで進むでしょうという、指導の経験から創られる進度推移の予想モデルというようなものです。

《以下引用》
…「進度モデル」は、高進度だけをめざすものではない。右の文章では、公は、生徒の能力が変わる、と言っている。これこそが究極の個人別の指導である。新しい教材に入る前に、その教材相当の「学力診断テスト」をすれば、生徒の能力の変化が一目瞭然である。学年を越えた学習であったら、なおさら、この子どもの変化いっそう明らかになる。指導者は生徒の能力が教材ごとに、そして、学習中も時々刻々、変わっていたことを知り、おどろく。その生徒の能力にふさわしい新たな「進度モデル」が要求されるのだ。
《引用終わり》

こういったものを思いつくこと自体は、何も独創的なものではないと思います。が、この進度モデルが、生徒によって一人一人違うし、指導者によっても一人一人違うし、生徒は学習を続けるうちに、指導者は経験を積むごとに、時々刻々変化していく…ということまで想定しているところが、私としては驚きです。

以前は、この進度モデルがグラフで描かれていたそうですが、最近は文章でまとめられているだけだと聞きます。でも、だからと言って、この考え方が廃れたということでもないかと思います。だって、生徒一人一人が違い、指導者一人一人が違い、しかも時々刻々変化するというのであれば、無限の可能性があるわけで、グラフ化することはナンセンスです。むしろ、グラフ化することは偶像を作ることに似ていて、生徒をそのグラフにあてはめよう、自分の指導をそのグラフにあてはめよう、ということになり、時々刻々実態から乖離していくことになります。

《以下引用》
この時期の公の姿が今でも目にうかぶ。会長ゼミといわれる局員の勉強会でも、指導者の研修会でも、公はいつも同じ話をしていた。年長11月入会、40人中30番の生徒。一年後にはどこを勉強していますか。公のこうした問いかけに、出席者はさまざまな進度モデルで応じる。Aの100には進みます。いや、Bの100です。そうすると、公はたのしそうに「はあ、きみはBの100ですか。そうですかあ」。何々くんは、どうですか。いえ、わたしなら、Cの200ですね。「えらいですねえ。きみはCの200まで進むというのですねえ」。こうした話し合いが窓の外が暗くなっても、延々とつづくのである。

わたしは当時を思い返して、この会社はおかしな団体だな。生徒も見ないで、実際に生徒を指導する前から、一年後、一年半後の進度見通しを言い合っている。バカじゃないか。それでも、こうした公の話にもなれて、しばらくすると、C200まで進むという局員がいれば、では、どんなふうに指導するつもりなのかと、訊いてみたくなるから不思議である。
《引用終わり》

この進度モデルを意識して模索しながら指導をすることが、真の個人別指導なのだと思います。

《つづく》

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「現代ソフィスト伝」の第二部「三、学習以前の問題」の「3、勉強がきらい(1980〜1983)」を読みました。(小林教室収蔵

このころ、公氏は幼児教育へと進んでいきます。それはありがちな業務拡張とか多角経営とは視点が違います。

《以下引用》
私たちの仕事は、子どもの能力差を見定めることから始まりますが、その際大切な問題があります。それは、子どもの能力差が、いつごろからどのようにして始まり、どの程度の差をつくっていくかという疑問であります。私たちの五年前の指導であれば、教室に来てくれた生徒の能力差を見出し、その子に合った教材を与えることはできましたが、そのどのように生じるかにつきましては、まだまだはっきりとしたことが言えないのが実情でした。ただ、幼児から始めたほうが伸びるということを手がかりにAA教材やかずあそびを開発していったのが、今から六年前になります。(『山彦64』1980)

わたしはこうした公の感性、教育的センスがおもしろいと思うのだ。世間の幼児教育家と一線を画しているではないか。情操の教育が幼児教育の中心であるとか、右脳教育が大事だとか、0歳児からの幼児教育などなど、世間では相変わらずの、ぼやっとした根拠薄弱な幼児教育論があふれている。しかし、公は、能力差のその始まりの大元が知りたい、どこからこの差は生まれ出るのか、ここに関心がある、というのだ。
《引用終わり》

こういう関心の持ち方は、経営者としては変ってるかも知れませんが、教育者としては極めて自然だと思います。

《以下引用》
学習枚数と復習を多くすることで、完成時間を短くし子どもをつねにラクに指導することができるようになりました。また、子どものもつ能力の素晴らしさが知られてきたことにより、これまで遅進児と思われてきたのが実は現在の私たちの一般論と照らし合わせてみて、指導の失敗であったということがわかり、今では、次のことがある程度はっきりと言えそうです。「優秀児は指導者でもってつくられる、遅進児も指導者でもってつくられる。そこで遅進児をつくるにはどうすればよいか、一カ月の使用枚数と復習を少なくすればよい。優秀児をつくるにはどうすればよいか、一カ月の使用枚数と復習を多くすればよい」ということになりそうです。こう申しましても、すべての生徒がそうであるということではないにしても、80〜90%の優秀児、遅進児は指導者によってつくられているのが現状ではないでしょうか。(『山彦66』1981)

処理能力という考え方を教育にもちこんだ公であったが、ここで選ぶ言葉は慎重である。すべてが解決されたわけではなかった。子どもたちの現実態はつねに広くて、深い。しかも、指導力の差によっては、学習不振児を生み出す危険すらあるとなれば、指導にあたる者も安穏としていられない。指導の研鑽もつまずに、障害児はこうだ、遅進児はああだ、問題行動を起こす子はこうだなどと、同じ場所にとどまったまま世間話をしているわけにはいかないのである。
《引用終わり》

優秀児を生み出しうるということは、逆に言うと遅進児をも生み出しうるということなわけです。表裏一体の同じ意味です。ですが、とかく前半部だけを取り上げ、後半部は黙して語らないものです。

これを敢えて指摘し、指導者自身に、日々の接し方が両刃の剣であることを知らしめている…ということでしょうか。

1980年4月に英語教室スタート、1981年4月には国語教室スタート。(国語より英語が先だったというのは意外でした)

1982年4月に学校法人公文学園「のびていく幼稚園」を開園、10月には全国の教室に「公文式幼児教室」を設置し、国語教室の開設を機に「くもん文庫」の設置も各教室に義務付けらたということです。

幼児の時期から公文をすることの重要性は、生徒さん達をみていて日々感じることですが、これが国語教室よりも後にスタートしていたというのも意外でした。

《つづく》

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「現代ソフィスト伝」の第二部「三、学習以前の問題」の「3、勉強がきらい(1980〜1983)」を読みました。(小林教室収蔵

優秀児の共通点、それは本好きということでした。

《以下引用》
…幼児で方程式にまで進んだ子どもたちがわたしたちに知らせている、どの子も不意にできるようになったこと、そして、この偶然を生むための環境がそなわっていたことを。実際に調べてみると、はたして、この優秀児たちは、例外なく本好きなのだった。しかも、しぜんな形で周りには、その環境がととのっていた。子どもたちは、この支援を当たり前のように受け、これを吸い取って、自分の可能性の扉をなんの抵抗もなく、スッと開いていく。…
《引用終わり》

この発見を基に、国語、特に読書重視へと変わっていくのだと思います。国語力がないと、算数の伸びにも限界があるようだということは、今も言われています。

《以下引用》
子どもみずから外にあらわす可能性の発現こそ、幼児にも自習ができるという証明である。幼児はかまえることなく、自分で自分の好きな本を選んでは読み、読んでは選ぶ。これはまさに幼児が自習している姿そのものなのだ。幼児のなかの底流には、すでに自習精神があふれ出していた。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。自学自習力を幼児にもつける、だと。公は今さらのように自分の迂闊さを悔やんだ。
《引用終わり》

教室に最初に来た時には机に向かって勉強するなど想像もできないような幼児さんでも、数回通ううちに、大人しく座って、運筆教材や数字盤をやるようになります。机に向かう習慣をつけることは、実は小さい時ほどつけやすいのではないかとさえ、私も最近思います。

幼児さんのそんな変化を発見するたびに、その子の幼児期を有意義にできたような気がして嬉しくなります。

《つづく》

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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「1、教材が進んでも能力が広がらない(1983〜1985)」の「1 可能性を伸ばす仕事」「2 コップは一つ一つ大きさがちがう」を読みました。(小林教室収蔵

1983年に社名を「公文数学研究会」から「公文教育研究会」と改め、既に数学だけでなく英語と国語を増やしていましたが、さらに盆栽、囲碁など教育以外の領域にも公文式のメソッドを用いて教材化を進めようとしていたそうです。そして、会のスローガンも「個人別・学力別指導」から「ひとりひとりの可能性を伸ばす」に変更しました。

《以下引用》
可能性を伸ばす教育に「方法」があるということを世間に知らせること自体、意味のあることではないか。この方法が世の中に行きわたれば、子どもたちはもっと容易に自分を伸ばしていけるのだ。今のままではあまりに障害物が多すぎる。だから、研究会は子どものこの可能性に応えられるだけの準備をしなければならない。これからの教育の仕事は、何かを教えるという仕事から、子どもの可能性を伸ばす仕事へと展開していく。(p493)
《引用終わり》

子どもの個人差・能力差については以下の記述が興味深かったです。

《以下引用》
…普通の子どもが一教材先で身につく感覚が、能力の低い子どもの場合は二教材先まで進まないとつかない場合があり、能力の高い子どもであれば半教材先で身についたりするのです。公文式の指導経験がまだ少なく、先に進んだ生徒をもったといっても、もともとの能力のかなり高い生徒の場合しか経験がないと、まだまだ公文式の実態を知ることができません。私たちが注意しなければならないことは、こうした優秀児のケースと他の生徒とを比較してしまうことです。「優秀なA君は半教材先の時にかなり応用力も感覚もあった、それなのにB君は半教材先に進んでいるのに、まだまだその力はない。お母さんも『計算は十分にできるようになったが、文章題や他のことができない』と言われる。能力のさほど高くない子どもには、やはり計算だけでは感覚や応用力は育たないのでは」という不安にとらわれることがあります。しかし、だからと言って文章題などの練習をしたところで、まだまだ感覚が育ってないのですからいっこうに力はつきません。このような生徒こそできるだけ先に進めることが大切です。そうすれば必ず、ある段階まで進んだところで急に感覚がよくなり、応用力がついてきます。(『山彦79』1983)
《引用終わり》

能力の低い子どもの場合は逆に教材をずっと先まで進ませてしまうという、常識からすると全く逆のような指導法もアリなんですね。結果として、その子どもが伸びるのであればそれでいいわけです。

これは、同様のことが以前にも書かれていました。「…六年生の算数がよくわかるためには六年生の参考書を多くあたってみるというのは、すぐれた勉強法とはいえません。むしろ、中学一年生、二年生と進んで勉強してみることが大切です。…(「進度一覧表」1972)」おそらく、公氏が経験的に到達した持論なのでしょう。

学校の授業のように一斉に進んでいく場合では、これに似た状態が自然に発生してしまうことはあるでしょう。分からない子が分からないまま先に進んでしまう状態です。要するに落ちこぼれですね。

公文式の教材を先に進ませることが落ちこぼれを作ることにならないのは、先に進んで別な方面からの展望が開けた時に、また前の教材に戻るということができるからです。一年先、二年先の教材へ数カ月で進み、ポーンとまた元に戻って必要な箇所だけ復習するということができるからです。

学校の通常の授業でこれをやるためには、一年とか二年とかの歳月がかかってしまいます。それでは、もう取り返しのつかないほど貴重な時間が失われてしまうことになります。ポーンと二年前に戻って復習してみましょう、なんてフォローも学校の先生はしてくれません。これでは、脱落する子が出てしまうのは当然のような気がします。

《つづく》

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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「1、教材が進んでも能力が広がらない(1983〜1985)」の「3 学力以外の能力の広がり」「4ちょうどの学習」を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用》
「幼児で方程式」の生徒になれるため三歳以前の幼児教育として心がけるべきもの、また実行しやすい目標は、次のようなものでした。
‘鷓个了に漢字二百(かなも含む)
∋虻个了に磁石すうじ盤1〜100を三分以内
三歳の時に歌を百

公の幼児教育は、まったく幼児教育の名に値しないのか。幼児のうちからそんなにしなくてもと言われる「漢字カード」、盤の上に数字のコマを置くだけの「すうじ盤」、そして、「歌」である。…幼児教育に付き物の、情操の教育、人間性の陶冶といったものは何もない。世間の幼児教育の専門家がバカにするのもムリないかもしれない。…ここでもまた、公は「何を教えるかではなく、何を教えないか」の教育を実践している点に注意しなければならない。幼児の指導では、とくにこの点が肝要になる。余白をのこして、自学自習の遊びをひき出すのが幼児指導のコツなのだ。ゆめゆめ効率性などの問題ではない。

与えるものをできるだけ少なくシンプルにして、二学年先、三学年先に進んだときに見せる能力の発現、すなわち、そこに現われる「学力以外の能力の広がり」に向かって、公の幼児指導は展開していく。幼児教育に必要だといわれている全てをしようとする気持ちはさらさらなかった。
《引用終わり》

『「何を教えるかではなく、何を教えないか」の教育』という点と、『余白をのこして、自学自習の遊びをひき出す』という点ですが、幼児教育に限らず、今現在国語のK教材を解きながらもその配慮を感じます。

教えない内容、つまり余白を厳選している。教材を解いていると、その学習内容に興味が湧くように配慮されていて、教材にはない余白の部分が気になるようにできている。おのずとその方向にアンテナを張るようになるから、それに関連する情報を何気なく目にする、あるいは耳にする機会があったときにはすぐに吸収できるようになる…そんな気がします。

好奇心と作業力を育てることによって、自分の知識を自分で貪欲に補完していこうとさせる。この状態にあって人と接するならば、情操とか人間性は自然と身に着くのではないかと思います。(教室の子どもたちを見ていても、そう感じます)

というか、そもそも情操とか人間性って、外から意図的に働きかけて身につくものではないような気がしますが…。

《つづく》

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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「2、自分から学ぼうとしない(1985〜1988)」の「1 手当たり次第に本を読んでいけばいい」を読みました。(小林教室収蔵

最終教材まで終わってしまった優秀児のお母さんからの要望が、問題提起となったようです。「最終教材が終わったらどうしたらいいんですか?もっと先の教材を作ってもらえませんか?」

この要望にこたえて、現在「研究コース」と呼ばれている教材が作られることになります。

《以下引用》
それにしても、公は今また、大きな課題をかかえこむことになった。しかし、公の教育の目標は、子ども自身による自学自習欲の高揚であったことに変更は微塵もない。手当たりしだいの読書なのだ。自学自習、すなわち、人に習わなくても学んでいくためには読書しかない。…

数学の勉強をしたら、数学の本が手あたりしだいに読めていいはずである。国語の学習は読書ができることにつながるし、英語の学習なら、原書でも読もうと思うようにならなければならない。どうして、こうならないのだ。…

子どもたちに読書教育を早くからしておこうと思ったのは、読書で広く世界をしっておけば、中学や高校の歴史や地理が単なる暗記する勉強にならずにすむだろうと思ったことと、社会に出てからも読書をし続けられる人間に育てたいと思ったからです。(『山彦94』1985)

…昔は「文章題の力もなんとかしてくれ」という声が強かったものですが、これなども読書能力の問題であり、読書能力の育っていない子どもは、教材はできても応用の幅ができにくいものです。しかも、この能力は幼児期ほど育てやすいため、後になると難しいのです。(同前)

公が読書の大切さを述べている。しかし、くり返すが、公はあくまで自学自習を問題にしているのだ。自分から学ぶ力がわいてくるようにしようと思うなら、読書が役に立つ。読書することなくして、自学自習などできないのだ。…
《引用終わり》

ずっと先までも教材を作るのはいいけれども(その方が公文式の経営上はいい)、教材に依存し続けた学習が行われるのであれば、それは公文式が目指すものではありません。

《以下引用》
教材は、むしろ、粗雑がいい。教室は、かえって、不均質がいい。子どもたちの可能性が縦横無尽に広がるものの方が、かれらには数段ふさわしい環境なのだ。だとすると、読書しか、ない。…
《引用終わり》

これは道具にも言えるかもしれません。素朴な道具は、使う人間の工夫が必要になります。一方、完璧な道具は(ボタンを押せばOKみたいなものになるから)使う人間を不器用にするだけです。人を育てるのが教材の目的なのですから、素朴(粗雑)である方がいいわけです。

《以下引用》
公文式の値うちは自習で学年を越えていくところにある。小学校・中学校のうちになるべく早く高校教材に進み、授業を聞かなくてもよくわかるように、確かな学力を身につけさせたいものです。そして、自習で学んでいく習慣を体得した子どもならば、大学に入ってからも社会に出てからも、自分で本を読んで問題を解決していける人間に育っていくはずです。私がこの学習をひとりでも多くの子どもたちにさせたい大きな理由も、ここにあります。(『山彦99』1986)
《引用終わり》

私も同感です。

《つづく》

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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「2、自分から学ぼうとしない(1985〜1988)」の「2 幼児方程式よりも四歳読書」を読みました。(小林教室収蔵

公文式指導の第一目標を変更することになりました。

《以下引用》
子どもの能力開発の可能性を考えますと、ことばや読書の能力が先であり、読書とくらべれば、数学などはいつでもできると言えるほどです。読書能力がかなりある子どもであれば、反復回数も少なくてすみ、方程式などは短期間で進めるのではないでしょうか。読書能力が育ってない状態であれば、教材が先にいってなかなか進みにくくなるのは、当然のことと言えるでしょう。その面から言えば、幼児方程式というよりも先に、四歳までに読書ができるようにしておくことのほうが、子どもの能力開発には大切なことであり、結局は子どもも親も指導者もらくな近道と思われます。また、世間一般の方から見られた場合でも、「幼児方程式」というよりは「四歳までに読書」というほうが、かなり受け入れられやすいばかりでなく、当会の能力開発の目的がわかっていただきやすいのではないでしょうか。(『山彦94』1985)

…たしかに公の専門は数学である。あまたの試行錯誤の結果、幼児でも方程式の学習が可能という地点にまでたどりついたのだった。この地点にまできて、公には公なりの達成度を感じたはずである。しかし、こんな成就感に酔う公ではなかった。公の酔いを醒ます例外的な子どもの事例が、幼児で方程式よりも、四歳読書の方が大事と言っていた。公が教育に、すなわち、子どもの奥に見ていたものは、一般に想像するものとはまるでちがう。数学の教師が国語の領域にズカズカと入り込む。

方針などは何度でも変えられる。変えればいいのだ。…
《引用終わり》

この潔さは何なのでしょう。「改めるに憚ること勿れ」という言葉はありますが、なかなか行うに難しであります。自分の半生をかけて築き上げたものをそうやすやすと改められるものでしょうか。守りに入ってもいいだけの実績は既にあったはず…。

それだけ、四歳読書の有効性が無視できなかったということかもしれません。

《つづく》

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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「2、自分から学ぼうとしない(1985〜1988)」の「3 作業力と読書力」を読みました。(小林教室収蔵

前回書きました公文式指導第一目標の変更で「読書力重視」ということになったわけですが、かつて提唱していた「算数一科目主義」はどうなったのか。これは「一科目主義」ということで、一貫しているということであります。

《以下引用》
…公の「一科目主義」に何の変更もなかった。力の弱い生徒には多くの課題を与えてはいけない。与えても消化不良になるだけである。まず、得意科目を中心にして、基礎学力を学年以上にまで伸ばす、そして、頭を改善する。学習態度をととのえる。そうすれば、勉強とは、なるほど、こうしてやるものか。その後、他科目へと進むべきなのだ。学習の方法は自覚的になれば、効果も高まる。全教科をまんべんなく教える塾とは、その指導の仕方が根本的にちがう。

公文式の特長である一科目主義が、これまでは数学だけであったため、数学一科目主義になっていただけである。
《引用終わり》

国語力の重要性は、言われてみるとナルホドです。

《以下引用》
小学校と中学校の、要求される国語力のレベルの違いが意外にも知られていないのだ。国語といえば、文章を読んで、漢字や語句を覚えるぐらいにしか理解されていない。しかし、子どもたちの国語力の差は予想以上に大きい。まず、読むスピードがおそい。このスピードの遅さは文章理解にも悪影響をもたらす。重要な情報とそうでないものとの区別ができにくいから、音に出して読んではいても、そこから取り出す情報の量には大きな差が生じてしまうのだ。しかも、国語の教科書は、意外にも、数学や理科、社会の教科書よりも、語彙レベルでも、文レベルにおいても易しい。国語力不足がてきめん、他科目の学習不振をまねいてしまう。
《引用終わり》

公文の国語教材には、理科の本とか、社会科の本の文章も含まれています。専門書の読解力も国語力ということになると、国語という教科は教科の垣根を越えてどこまでも関わってきます。

《つづく》

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