トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Category:★仏教 > 念中仏仏

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「○○としての仏教」という記事を書いてから、7年も経とうとしています。仏教に含まれる内容の幅の広さについて書いた記事です。

例えば「ぶっちゃけ寺」という番組があります。日本史への興味関心から嫌いじゃない内容ではあるのですが、何か違和感を感じてしまって視聴し続けることができません。もちろん、この番組も「仏教」には違いないのでしょうが、私が「仏教」に求めているものとは違う。

また、「葬式仏教」と揶揄する言葉があります。一般の人が仏教と接するのは死者を弔う時に限られるような現状ですから、仕方のないことかもしれません。これも、私が求めている「仏教」ではありません。

私が「仏教」に向き合うことにした理由、それは般若心経の中の「照見五蘊皆空度一切苦厄」だったような気がします。もっと絞れば「度一切苦厄」。生老病死という苦しみから救われる方法、他者を救う方法を見つけることを仏教は目指している!…と発見したのがきっかけです。

そして、今年に入ってから心理学の本を読むようになりましたら、その中に自分が仏教に求めていたものがあることに気づいたのでした。

ケリー・マクゴニガルさんの三部作(勝手に選定:「Yoga for Pain Relief」「Willpower instinct」「upside of stress」)を読むと、「呼吸法」「瞑想」「欲望のコントロール」「一日一善」等々、順不同で思いつくまま羅列しましたが、仏教の修行法とダブるものが多々あります。

仏教は長い歴史の中で、修行者の能力開発法を見つけ、ノウハウを蓄積していったのでしょう。心理学は科学的な実験によってその手法の数々を見つけ出しています。両者を結び付けていくことで、仏教の修行にもエビデンスを付け加えていくことができるような気がしています。
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「六塵ことごとく文字なり」…これの現代版がITかなと思いました。「文字」とは即ち「情報」。

現在ではセンサー技術が発達しているので、色・声・香・味・触を感じ取るセンサーは全て有ると言っていいでしょう。センサーは電気信号に変わり、デジタル信号として数値化されます。これは六塵のうちの五つのカテゴリーの文字を読み取ったと言っていいでしょう。

但し、「文字を読み取ること」つまり「情報伝達」とは相互作用ですから、読み取る側の器量によって解釈は変わります。

「色」即ち「視覚」を例にとりますと、同じ被写体を映像化するにも3Dになる場合もあれば、デジタル画像、アナログ画像、等いろいろです。可視光に限らず赤外線を映像化する場合もあります。X線を映像化すればレントゲンになります。磁気の共鳴で含水率を映像化すればMRIになります。

同じ対象でも読み取り方によって結果は変わります。同じ絵を見ても、同じ音楽を聴いても、同じ匂いを嗅いでも、同じものを味わっても、同じものを触っても、感じ方は違います。

同じ文字でも読み取り方によって意味が違います。ゆえに、「ことごとく文字なり」という比喩は絶妙だな…と思います。

仏教の勉強をしていなければ、念仏を聞いても馬と同じです。物の値打ちが分からなければ、真珠を見ても豚と同じ、小判を手にしても猫と同じです。

鍼灸師という立場で言うならば、人の体に触れても研鑽を積んでいなければ患部の状態や患者の苦しみを読み取ることはできないということです。そして、その苦しみよ消え去らんという祈祷文を書き込みように、手技を施し鍼を刺し灸を燃す…

いろいろな仕事、いろいろな立場に置き換えることができそうです。
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以前、不殺生について考えた時から、人間は生まれた瞬間から二律背反に苦しむさだめ…という憂鬱なとらえ方をしていました。

改めて噛みしめてみて、確かに憂鬱なとらえ方が基本だとは思ったのですが、ちょっと吹っ切れたところもあって、何だか明るい気持ちにもなったのでした。

それは、「不殺生を完全に守ったら、人間は生きられない」ということは、生きること自体が破戒になるということではありますが、「生きる」を認めるなら不殺生の例外も認められるということに気付いたことでした。

人がいなくなってしまったら、仏道も修行もなくなってしまうわけです。だから、「人が生きる」ということは善悪はともかくとして受け止めなければいけない。他者を食べたり他者に食べられたりという衆生のドロドロとした営みは受け止めることになる。

そう考えると、正邪はともかく淫もなければ人は生まれてこないわけで、これも受け止めざるを得ない。で、結局、十善戒ことごとく必要悪として受け止めざるを得ない部分があるのではないか…

淫を受け止めたのが理趣経だ!という言い方をしてみると、空海という思想家、真言密教という思想に、現実的なものを感じました。

そもそも、宗教は生きた人間が修めるもの。死んで生まれ変わったところにしか希望が持てないような教えでは話にならない。つまり即身成仏を唱えなかったら、何の意味があるのか?

人間が生まれ出ることを受け止めずして何とするか、例えそれが暗いものであるにせよ。
人間が生き続けることを受け止めずして何とするか、例えそれが他者の冥い死の上に成り立っているにせよ。

この吹っ切れが結局なににつながったかと言いますと、「金を稼ぐ」ことで感じていた罪悪感を軽くしたのでした。獲物を追いかける雌ライオンのように、仕事も頑張らないといかんな…と思ったのでした。
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不殺生という戒めは、誰もが当たり前と考えることかと思います。
「人殺しは悪いに決まってるじゃないか!」

そして、つい、「他の生き物も殺してはいけないんだ!」と言ってしまいがちです。そんなとき、ドキリとしてしまいそうな厳然とした事実があります。

「生命は生命を食べて生きている」ということ。「人は何かを食べなければ生きられません。何かとは他の生き物。他の生き物を殺し続けながら、私たちは生きていかなければならない。」ということ。

確かに、昨日牛肉を食べた。今朝、お魚を食べた。でも、僕が殺したんじゃない。死んだ牛の肉塊を買って来たんだ。死んだ魚を買って来たんだ。

殺したのは僕の知らない、誰かさ…

でも、誰も買わなかったら、その「誰か」は牛や魚を殺さなかったはず。だとしたら、間接的ではあるにせよ、金を払って殺しを依頼したことにはなりませんか?

でも、それを責めるつもりはありません。だって、そうしなかったら、私たちは生きられないのですから。「不殺生」の戒めは、他の生き物の「死」の上に私たちの「生」が成り立っているのだということを忘れるな!ということだと思います。

さて、死刑制度についても同じことが言えそうな気がするのです。私は死刑を宣告したことはない、私は死刑を執行したことはない、と皆今まで思っていたのです。でも、この制度を変えようという行動も特に起こさず、裁判官や執行人に納税という間接的な形ではあるにせよ代金を払っていたわけです。

でも、それを責めるつもりはありません。死刑制度の是非を問題にするつもりもありません。ただ、私たちはそういう形で、自分たちの社会を守るために、つまりは自分たちの平和な「生」のために、共存できないと判断した犯罪者を「死」に追いやったということは、ひとりひとりが自覚しなければいけないということです。

その自覚のためには、裁判員制度は有効であると思います。一般の人間が、死刑を宣告した重みを背負うのはいかがなものか?という議論ばかりがなされているようです。でも、本当の問題はこれまでその重みを背負っていなかったということではないでしょうか?

裁判員制度は、それ以外の論点で評価されるべきと考えます。
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造(な)すというも作(な)されるというも、どっちから見るかという違い。

本当は、造も作もないのだ。

この世はすべて造作ないこと。

造作なく生きればいい…。

《トトガメモgooより転載》
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書かれている文字に意味は無い…

字の間を読め!行の間を読め!


五感で感じるものは真の姿ではない…

見えているものは存在しない…
聞こえているものは存在しない…
匂っているものは存在しない…
味のあるものは存在しない…
触れているものは存在しない…

見えているものと見えているものの間を見ろ!
聞こえているものと聞こえているものの間を聞け!
匂っているものと匂っているものの間を嗅げ!
味のあるものと味のあるものの間を味わえ!
触れているものと触れているものの間を触れ!

《トトガメモgooより転載》
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「星」という字は星らしく、「湖水」という字は湖水のように、「鳥」は鳥らしく…文字ひとつひとつの書体を変えていた書家がいたと言う…

ひとつの文章で、書体を統一する必要など、実は無いのだ。それじゃあ、ワープロと同じじゃないか。それじゃあ、手書きの意味がないじゃないか。

「書は人なり」というけれど…

ひとつの人生で、自分を統一する必要など、実は無いのだ。それじゃあ、ロボットと同じじゃないか。それじゃあ、生身の人間の意味がないじゃないか。

我を忘れて…エゴを忘れて…

でも、

自分に束縛される苦悩と、自分が見つからない苦悩と、

どっちが辛いんだろう…
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先日思いついた宇宙観…


かん細胞とがん細胞のように

浄と穢が紙一重の要素

しかも独立にはその状態を保ち得ない要素

宇宙は構成されている

私たちも構成されている

ことばも構成されている


だから

ことばがすべてを語ることもありうる

私たちがすべてを理解することもありうる

私たちが浄なるものそのものになることもありうる


ゆえに

私たちは心して生きなければならない

少なくとも

そう信じたとき私たちの生き様は変るはずだ
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高校受験のとき、直江兼続ゆかりの亀岡文殊堂にお参りしました。その時、気づきました。自分の合格を祈るということは、別の人の不合格を祈ることにはならないか?だとしたら、これは祈りではなく呪いではないか?そんな願いに神仏は加担するだろうか?

自分やその周囲だけの利益のために祈ることは、時として呪いになることがある…

不合格が必ずしも不幸とは限らない。長い目で見れば、その落胆から這い上がるために頑張って結果的にはかえって良かったということもあり得る。だから、他人の不合格を祈ることになったとしても呪うのとは違う…と、その時は納得することにしました。

でも、ならば自分が合格だけを願うのはなぜか?合格でも不合格でもどちらでもいいのではないのか?

それから、私は具体的な内容の実現を祈ることをしなくなりました。

入試のように定員が決まっているものは、自分の合格は他の誰かの不合格につながります。幸と不幸の交換のようなもの。

でも、定員が決まっていないようなことでも、自分のあるひとつの願いがかなうということは、必ず他の場所に何らかの影響はあるはずです。

それは、直接身の周りにいる人や物に対してだけとは限りません。バタフライ効果を考えれば地球全体が自分の影響下にあると言えますし、EPR効果を考えれば地球の中だけに限定することすらできないようです。

自分のことだけを考えた時、願いは強く、しかも願いの方向性もシャープに決まります。ところが、目の前のごちそうを食べたいと思っている人間が他にもいて、その人たちのことも考えるということになると、何等分にしようとか、この前は譲ったから今回は僕に頂戴とか、願いの強さも方向性も弱くぼやけたものになっていきます。

視野をずっと広げていったときに、つまり誰をも呪うことにならない願いを設定しようとしたとき、その方向性はしだいにぼやけていきます。

そんな中での祈りとはなんでしょうか?「神の思し召しのままに」とか「仏の教えが普く広がりますように」とか、全く方向性のない、Let it be のような内容になるかと思います。それは一見、受動に徹する生き方のようにも見えますが、似て非なるものではないかと思います。

そんなわけで結局何を願うと言うこともなく、毎日お経を唱えています。
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「空海の風景」(中公文庫)「あとがき」から…

《以下引用》
…ラマ僧にとって絶対的に崇敬せねばならぬものは、その直接師である。師とは、宇宙の普遍的原理の体現者である以上、師そのものが、真言密教の用語でいえば大日如来であり、師からそれを承ける弟子としては、大日如来への拝跪の方法は他にない。その師を拝むことなのである。このことは、空海が大師信仰のなかで神格化されたことと同心円のなかにあり、顕教の最澄が神格化されなかったことの理由をも明快にしている。
《引用終わり》


空海のように歴史的な存在になった人物ならば楽かもしれないけれど、目の前に居る人間を拝むことができるのだろうか?大日如来とみなすということは、師その人の全てを肯定し崇拝するということ。そんなことができるのだろうか?

仏像に対してならできそうな気もする。そんな金属塊や木塊に対してならできそうなのに、人間にできそうもないというのも我ながら奇異な感じはする。

でも、日々変化する生身の人間を、全肯定し、尊崇し続けることなんてできるんだろうか?

松下電器の社長を勤めた方の講演。松下幸之助から直接教えを受けたその人は、ある日、幸之助に聞いたそうです。「嫌いな上司とうまく付き合う方法はありますか?」幸之助は答えたそうです。「どうしたらええんでしょうな…」

その人の悪いところには目をつぶる、という接し方もあるようです。剛腕のワンマン社長の忠実な片腕として働いている人から教わりました。「その人は仕事はできる人なんだから、いいところだけ見てあげればいいじゃないか?人間なんて必ず悪いところも持ってるんだから。いいところがあるだけで素晴らしいんだ。」

それも一理あります。特に仕事だけの付き合いなら、それもいいかもしれない。でも、それではしっかりその人と付き合ってることにならないんじゃないだろうか?いいところだけの付き合いは、いい時だけの付き合いと同じじゃないだろうか?

この問題の解決の糸口も「受けとめる」というスタンスの中にありそうです。自分とは合わない部分に関して激怒したりしない。ただ合わない部分があることを悲しむ

全ての要素を含む大日如来の分身であっても、生身の人間となれば、必ず偏りはあるもの。その偏りが個性であり、光の部分が才能、影の部分が煩悩。しかし、光と影は光のあて方で変わるもの。

それぞれの光と影が合わないことはある。残念ながら必ずある。しかもどうしようもない。

ゆえに悲しい…。

全ての人に対して、そういう接し方ができればいいけれど…。まずは、隗より始めよ。に対して、こういう境地を目指したいと思います。
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