トトガノート

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第二章 神の国・地の国」を読みました。

《以下引用》
イエスが言った、「父の国は、荷物を持っていて、一つの真珠を見出した商人のようなものである。この商人は賢い。彼は荷物を売りはらい、自分のためにただ一つの真珠を買った。あなたがたもまた、衣蛾が近寄って食わず、虫が食いつくさぬ所に、朽ちず尽きることない宝を求めなさい」。(『トマスの福音書』76)

…イエスは、いずれわれわれは知識も物も人も全て後に残して一人旅立つことになる。その時われわれにとって本当に私のものと言えるのはわれわれ自身の内側に隠された、「朽ちず尽きることのない宝」だけであると言おうとしているのだ。…そしてイエスも言うように、「自分のために」というところが大切なのだ。宗教というと自分はさておき、他人を優先してと、ちっぽけな愛を振りかざす人がいるが、そうではない。…あなた自身が自らを整えない限り、あなたは何をやろうとも、無意識の内にこの地上に混乱とトラブルを持ち込むことになるからだ。
《引用終わり》

一見すると、イエスは真珠を買うことを薦めているようです。「真珠」とか「大きな富」というのは例えなわけで、われわれが自身の内に秘めた価値あるものを指している筈ですから、金銭的な価値ある物とは対極にある物なのですが、区別がつきにくい表現です。

しかし仏典でも、たとえば『如来蔵経』でも、「金塊」とか「宝蔵」という比喩を使っております。他の比喩というのはなかなか難しいのかもしれません。

《以下引用》
真珠はわれわれ自身の内側にある。…要は外側に向かっていたあなたの関心をあなた自身の内側へと向けさえすればいいのだ。道元はそれを「回光返照(えこうへんしょう)」と言い、「いかんが回光返照せずして、甘んじて宝を懐いて邦(この世)に迷うことをせん」と言った。内に隠された真珠(宝)を知りさえすれば、われわれは内にも外にも拡がる一なる世界(神の国)を知ることになる。この「一なるもの」こそわれわれが辿るべき道なのだ。
《引用終わり》

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第三章 隠れた宝」を読みました。

さて、いよいよ「私とは誰か」という最初の問に入っていくようです。

「生きる」ということを考え始めると、落ちるところまで気持ちは落ちていくし、そこで死ぬわけにもいかないとなると、どこかでふっ切って、その追求を保留にしなければ何ともなりません。

《以下引用》
気づいたらわれわれはこの世に存在していた。しかも、それはいつかは終る有限の生であると知る。ここから人間は「なぜ」と独り思考することを余儀なくされる。パスカルは、その時、彼を捉えた言いようのない不安を「誰が自分をそこに置いたのか、自分は何をしにそこに来たか、死ぬとどうなるかをも知らず、あらゆる認識を不可能にされているのを見るとき、私は眠っているあいだに荒れはてて怖ろしい島に連れてこられて、目覚めてみると、そこがどこかわからず、そこから脱出する手段もない人のような、恐怖におそわれる」と言った。わずか三十九年という短い生涯であったが、彼を死ぬまで悩ませたこの問題に粘り強く立ち向かう人は少ない。もちろん、そういう問があることを人は知らないわけではないが、それには容易に解答が見つからないために、いつしか忙しさの中で忘れ、波々として生を渡る。…

しかし、ナグ・ハマディ文書はそんな人間の無関心と怠慢をよそに、われわれ人間の出自はプレーローマ(充溢)であると言う。そして、プレーローマから流出した人間が行き着いたところが欠乏(貧困)からなる地の国、すなわち二元葛藤する幻影の世界であったのだ。
《引用終わり》

パスカルもそうだったとは、何だか自信が湧いてきそうです。

はて、プレーローマ、充溢とは何でしょう…

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第三章 隠れた宝」を読みました。

前回までをまとめたような文章を引用しておきます。

《以下引用》
…外側で多くのものを溜め込みながら、足ることを知らず、未だあなたが満たされず混乱しているとしたら、その問題は外側にあるのではなく、あなた自身の内側にあるはずだ。われわれを取り巻く生活環境は進歩と発展を見たけれども、われわれ人間の内なる実存、すなわちプレーローマ(充溢)を知らないことから生じてくる虚しさと焦燥感ではないかということだ。われわれはこの内なる宝(真珠)を顧みないで外側で宝の山を築こうとしている。
《引用終わり》

スーフィズムの偉大なシェイフ、ルーミーも同様のことを言っています。

《以下引用》
世間でいう学問とか技能とかは、いずれも海水を茶碗で量るようなもの。あらゆる技術で身を飾り、金もあり顔も綺麗だが、一番大切な「あのもの」を欠く人がたくさんいる。反対に、見かけはいかにも見すぼらしく、美しい言葉も力強い言葉も喋れないが、永遠不滅の「あのもの」だけは持っている人もいる。それこそは人間の栄光であり高貴さの源であり、またそれあればこそ人間は万物の霊長なのである。もし人間が「あのもの」に辿り着けさえすれば、それでもう己の徳性を完全に実現したことになる。が、もしそれができなければ、人間を真に人間たらしめる徳性とは縁なき衆生だ。(『ルーミー語録』)
《引用終わり》

「あのもの」とは意味深な表現ですが、これに辿りつかないと大変なことになるみたいです。

《以下引用》
イエスが言った、「あなたがたがあなたがたの中にそれを生み出すならば、あなたがたが持っているものが、あなたがたを救うであろう。あなたがたがあなたがたの中にそれを持たないならば、あなたがたがあなたがたの中に持っていないものが、あなたがたを殺すであろう」。(『トマスの福音書』70)
《引用終わり》

今度は「それ」で表現されています。この「死」については、つぎのような表現もあります。

《以下引用》
魂は神を所有することなしには生きることもできず、また死によって身体の苦痛を免れることもできないので、死は存在しないどころか、永遠の死が存在するからである。第一の死は魂をその意に反して身体から追い出し、第二の死は魂をその意に反して身体のうちに留める。(アウグスチヌス『神の国』)
《引用終わり》

「あのもの」とか「それ」というのは「神」なのでしょうか?

「大死一番」ということで、起信論やナスルは、いわゆる「悟り」を「仮我の死」として表現しておりましたが、ここでの「死」は逆の意味のようです。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第四章 永遠の故郷」を読みました。

人間には外なる人(homo exterior)と内なる人(home interior)があるという、キリスト教独自の人間観があるそうです。これを理解するには、エックハルトの「ドアと蝶番」の説明がいいとのこと。

《以下引用》
…外側では生死、幸不幸、喜悲、愛憎、得失…と、ドアが大きく左右に振れるように、良いこと悪いこと、さまざまなことが絶えず起こっている。そして、この比喩が優れているのは、内側を蔑ろにして、外側へと向かえば向かうほどドアが大きく振れるように、二元性はその対立を深め、先進国に見られるように、社会の歪と矛盾はますます混とんとしたものになっていく。しかし、どんなに外側が揺れ動いても、それを支えている蝶番は何事も無いかのように、いつも変わらず不動を保っている。
《引用終わり》

ドアが激しく右往左往すればするほど、遠心力でますます外側に行こうとする…そんなところも、この比喩の優れているところかもしれません。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第四章 永遠の故郷」を読みました。

われわれはどこから来て、どこへ行くのか…この「どこ」は同じ場所らしい。

《以下引用》
弟子たちにイエスが言った、「私たちの終わりがどのようになるかを、私たちに言って下さい」。イエスが言った、「あなたがたは一体、終わりを求めるために、始めを見出したのか。なぜなら、始めのあるところに、そこに終わりがあるのであろうから。始めに立つであろう者は幸いである。そうすれば、彼は終わりを知るであろう。そして死を味わうことがないだろう」。(『トマスの福音書』18)

…弟子たちは…人間の究極的な安息と充溢の場をわれわれはどこに探し求めたらいいのでしょうかと問うているのだ。それに対する彼の答は、未来の何処かではなく、全く反対に、「始めに立つであろう者は幸いである」と答える。要するに、われわれが流出してきた一者(神)の充溢(プレーローマ)の中にこそ、われわれ人間が求めている究極の真理と安息があり、そこに辿りついて初めてわれわれの生は完成されるということだ。…
《引用終わり》

これは十牛図の「第九 返本還源」と同じですね。

エックハルトも同様のことを言っています。「瞑想の心理学」でも引用されていますが、このブログでは引用しなかったのでここで引用します。

《以下引用》
すべての草もまた原初の純粋性においては一である。そこではすべてのものは一である。原初の始めは最後の終りのためにある。生が一つの存在であるような生の明白な原因の内に連れ戻されない限り、生は決して完全なものとはならない。(エックハルト『ドイツ語説教』)
《引用終わり》

イスラム神秘主義(スーフィズム)の思想家モッラー・サドラー(1571-1640)は、この場所を「始源」と呼んでいます。これも「瞑想の心理学」で引用されていました

《以下引用》
存在について無知なものにあっては、魂がいかにして究極の始源に帰り行き、その旅路の最終点に到達するかについても、全く知らない。(モッラー・サドラ―『存在認識の道』)
《引用終わり》

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第四章 永遠の故郷」を読みました。

《以下引用》
宗教とは本来、外側を探し求めた末に、一つとして真に安らげる場所もなければ、移ろう時間の中に真実はないと知った者が、内側へと目を転じたところから始まる。その旅を歩み始めた者がたとえどれだけいたとしても、本質的にその旅は全く独りの旅であるだろう。なぜなら、少なくともプレーローマへと辿る旅の初めは自分自身と向き合うことになるからだ。…
《引用終わり》

「旅人は自分の家の戸口に辿りつくまでに、他人の戸口を一つひとつ叩かなければならない。…」というタゴールの言葉は「瞑想の心理学」でも引用しました。やはり、目に止まるのは同じフレーズです。

《以下引用》
…このタゴールが言う「内奥の神秘」こそ宗教が説こうとしているものであり、宗教はそれを「隠れた宝」(共観福音書、スーフィズム)、「自家の宝蔵」(禅)、「一つの真珠」(グノーシス)、「摩尼宝珠」(仏教)など、さまざまに呼んだのだ。

まことに、神は造りたもうてのち立ち去ったのではなく、これらのものは神からでながら神のうちにある。一体、真理はいずこにましますか。いずこにおいて味わわれ得るか。心の最も奥深いところにおいてだ。しかるに心は、そこからさまよい出てしまった。道をはずしたものたちよ、心に立ち帰れ。(アウグスチヌス『告白』)
《引用終わり》

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第五章 真知の覚(グノーシス)」を読みました。

《以下引用》
真珠は泥の中へ投げ込まれても、価値を失いはしない。…神の子たちについてもちょうどそれと同じである。彼らがどこに居ることになろうとも、それでも、彼らは彼らの父にとっては常に変わらない価値を持っている。(『ピリポの福音書』)
《引用終わり》

これと似た例えは『如来蔵経』にたくさんありました。

《以下引用》
イエスが言った、「私は彼らのすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」。(『トマスの福音書』77)

神は至るところに存在する。人間だけではなく自然の中にも神は存在するが、それはひとえにわれわれの「見る」能力に関係している。尊いのは人間だけではなく、見るものすべてが神なるもの(神性)を顕しているから尊いのだ。人も物も利用価値があるかどうかという価値基準で動いているところに現代社会の病巣の一つがある。…

ともあれ、宗教を考える場合、尊大になるのでも、また不当に自分を蔑むのではなく、「真珠は泥の中に投げ込まれても、価値を失いはしない」と言ったイエスの言葉だけは心に留めておいて良いだろう。
《引用終わり》

目ある者が見れば、この世は全て光り輝いている…

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第五章 真知の覚(グノーシス)」を読みました。

《以下引用》
仏教に少し慣れ親しんだ人なら「真知の覚」が無著の『摂大乗論』で説かれるキー・タームであることを知っているだろう。なぜ私が敢えてこの言葉を『トマスの福音書』の副題として選んだかを言えば、グノーシスとは本来、真の知識に目覚めること、すなわち「真知の覚」という意味であるからだ。
《引用終わり》

唯識や『摂大乗論』については少し勉強しましたが、「真知の覚」という言葉は知りませんでした。まだまだ勉強不足ですね。

《以下引用》
…真知に目覚め、本源(プレーローマ)へと帰り着いたものは、世界は変わらないのに、盲人(人間)が視力を回復したかのように世界を新たに見ることになる。…

欠乏が起こったのは一者(父)が知られなかったためである。だから父が知られれば、その瞬間から欠乏はもはや存在しないだろう。ある人の無知は、闇は光が現れれば消え去るように、その人が認識すれば直ちに消え去る。そのように、欠乏も完全の中に消え去るのだ。この瞬間から姿形が見えなくなり、一者との融合の中に消え去るであろう。今は彼らの業が同じく残されているのだ。しかし、やがて一者が場所を満たすであろう。一者の内にそれぞれが自己を受け取るであろう。知識の内に彼は自己を多様性から一者へと浄化するであろう。彼は物質を炎のように呑み込むであろう。そして闇を光によって、死を命によって呑み込むであろう。(『真理の福音』)
《引用終わり》

「真知の覚」について無著はどう書いているか、見てみましょう。

《以下引用》
もし覚時において、一切の時処に、みな夢等の如くただ識(こころ)のみありとせば、夢より覚むればすなわち夢中にはみなただ識のみありと覚するが如く、覚時には何故にかくの如く転ぜざるや。
真知に覚めたる時は、またかくの如く転ず。夢中にありてはこの覚は転ぜず、夢より覚めたる時、この覚すなわち転ずるが如く、かくの如くいまだ真智の覚を得ざる時は、この覚に転ぜず。真智の覚を得れば、この覚すなわち転ず。(無著『摂大乗論』)

夢から覚めるように、どうして虚妄の世界(現実)から目覚め、真実の世界を知ることができないのでしょうかという問に対して、あなたが真の認識に達していないから、と無著も答えている。…

このように、真知の覚とは、われわれが真の認識に達するとき、いわば現実という虚妄の世界が消え去るとともに、その後から真実の世界は立ち顕れてくる、そんな体験をいうのだ。それを宗教的に覚醒の体験というが、荘子が「大覚」と言ったことはその意味をよく表している。しかし、何よりも銘記しておかねばならないことは、われわれが確かなものとして捉えているこの現実が、虚妄(仏教)、幻影(グノーシス)、大夢(タオ)であるからこそ、真実の世界に目覚めるということがあるのだ。
《引用終わり》

要は「悟り」ということでしょうが、いろいろな宗教や思想で共通点があるということは興味深いです。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
このように自己を認識するものは、自分がどこから来て、どこへ行くかを知っている。彼は酔いしれており、酔いから醒めた者のように自己を知るのである。彼はおのれに帰って、自分のものを整えたのである。(『真理の福音』)

…この真の自己に目覚める時、夢から覚めれば、夢はすべて消え去るように、これまであなたが見ていた幻影の世界はそこにはなく、あなたは視力を回復したかのように世界を新たに見ることになる。つまり、真の自己に目覚めることと真の知識(真理)に目覚めることは同時なのだ。私が真の自己を知ることが宗教であると言うのもそのためであるが、今日、いかがわしいものの代名詞のごとく思われている宗教という言葉を持ち出すことに、私自身あまり気が進まないが、ともあれ、宗教を自己認識への道とするならば、そこに東洋と西洋の区別もないことだけは言っておかねばならない。しかし、宗教を快く思わない能天気な人はそんな世界などありはしないと言うだろうが、違うのだ。今のあなたである限り、決して見えてこない世界であるからこそ、宗教は自己認識への道、分かり易く言えば、今のあなた(仮我)から真のあなた(真我)に至る道を説くのであり、そのためには外に向かうのではなく、自己自身に帰り、自己の内なる真実を整える必要があるのだ。
《引用終わり》

ここの文章は真我に目覚めることに関する記述なわけですが、「宗教を自己認識への道とするならば、そこに東洋と西洋の区別もない」という指摘がいいですね。

真理に宗教の別も無いはずだし、宗派の別もないはずだし…。真理を言葉に翻訳する過程での違いはどうしても生じるでしょうから、それを由来と見なせる範囲での相違は許容されるでしょうけど。

この辺りの視点を、可藤さんからしっかり吸収したいと思っています。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
主が言われた、「生まれた時より前に存在するものは幸いである。なぜなら、存在しているものはかつて存在したのであり、また、存在するであろうから」(『ピリポの福音書』)

…われわれが知っている自分とは、生まれてから死ぬまでの自己であり、生まれる前に存在した自己などわれわれの想像を超える。しかし、イエスはわれわれの内側には、生まれることもなければ死ぬこともない誰か、あるいは何かが存在すると見ているのだ。それはわれわれが生まれる前にも存在していたし、今も存在し、これからも変わることなく存在するものなのだ。宗教とはこの始め(生)もなければ終り(死)もない永遠なる生(まことのいのち)にかかわるものであり、多くの人がそうであるように、生まれた時より後に存在し、やがて死でもって終る生を如何に楽しく、どううまく生き延びるかなどを問題にしているのではない。
《引用終わり》

宗教とは、「生まれた時より後、死ぬよりも前のこと」に関して思い悩むことをしなくなる境地へと導くものと言えるかもしれません。しかし、その教えを広めるべく設置された施設に人々は集まり、無病息災・家内安全・交通安全・学業成就・商売繁盛を神仏に祈る…そういった事柄に全く価値を見出さない存在であるはずの神仏に対して。

何かの冗談かと思えるほどに、奇妙なことです。

悟りを得られない人、現世への執着を断ち切れない人が大多数であります。そういう人をも救わねばならない。悟ることこそが真の救いなわけですが、そこまで行けない形での救いは無いものか…そういう強い要請があり、苦悩の末に、大きな矛盾を内包した形で今の宗教は出来上がっているんでしょうね。

例えば、司馬遼太郎が「絶対的な虚構」と呼んだものがそれだと思います。そう言えば私も、「虚々実々」というタイトルで、似たようなことを書いていました。

《つづく》
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