トトガノート

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「自己認識への道」(法蔵館)
「プロローグ」を読みました。

デルポイの神殿に掲げられた「汝、自らを知れ」が、この本のテーマです。同著者による「瞑想の心理学」では大乗起信論から、その問いへアプローチしていました

この本では、「廓庵の十牛図」と「トマスの福音書」を手掛かりとして、つまり禅とキリスト教の立場から、この問いにアプローチしていくようです。

《以下引用》
…宗教は、ともすれば絶対者(神、仏)の信仰であるかのごとく思われてきた。確かに宗教が信仰で始まるという側面を持っていることは否めない事実であるが、アウグスチヌスも「信仰で始まり、見ることによって完成する」と言ったように、本来宗教は如何にして真理に目覚めるかということを主眼としている。

しかし、何が今のわれわれをして直ちに真理を目睹することを許さないのであろうか。それは真理を求めているわれわれ自身の無知(仏教はそれを「無明」と言う)に原因がある。もちろん、自己を知らなくとも、学問がそうであるように、真理の探求ということはあり得る。しかし、それは宗教がいう真理(真の知識)ではない。後者の場合、その無知ゆえに真理は見えていないという性質のものであり、自らの足元を照らす灯明が消えているために、本当に求むべきものの見分けもつかないまま、手探りで闇の中を探しているようなものなのだ。…
《引用終わり》

学問的な探求、特に科学的な探求がわれわれの中に浸透していくにつれて、宗教的なそれは排除されていったような気がします。それが現代の書物の内容が薄っぺらな感じがする原因だと、私は思っています。「私とは誰か」というような、素朴にして究極的な探求を忌み嫌い、「宗教」と聞いただけで毛嫌いしているが故に、かえって妖しげな新興宗教に対して鼻が利かず、装った仮面を見抜くことができなくなっているということはないでしょうか。

そんな仮面を見破り、巧みな布教を論破するためにも、素朴にして究極的な思索は必要だとは思いますが、それが第一目的ではもちろんありません。

私たちは、毎日、とっても忙しいです。愛する家族の顔をよくみる暇もないほどに忙しく働いている方々はたくさんいると思います。どうして、こんなに忙しくする必要があるのか。素朴にして究極的な疑問を避けて、私たちは、いつまで頑張れるのでしょうか?

科学の中でさえも、私たちは究極的な疑問を避けているように思います。例えば、二酸化炭素の増加を抑えるために電気自動車を開発しているけれども、発電は原子力に頼ることを一向に変えようとしません。二酸化炭素よりも劣化ウランの方がクリーンなのでしょうか?

ひとつ嘘をつくと、嘘の上塗りを繰り返さなければならなくなるように、ひとつの本質から目を背けているが故に、いくつもの本質に目をつぶらざるを得ない状況に追い込まれているような気がします。

ここは逃げないで、「自分」という問題に取り組んでみましょう。

《続きを読む》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「総序」を読みました。

「瞑想の心理学」で述べられていたようなことが多く書かれています。時間に関する件が興味をひきました。

《以下引用》
…われわれが求める究極の真理は時間の中にはない。ということは、時間の中を動いている思考の中にもないということだ。真理はあなたの内なる実存に「本有の真源」としてある。それはかつて在ったし、今も在り、永遠に在り続けるものなのだ。従って真理は、今ここであなた自身が探りをいれるかどうかの問題であって、思考や努力によっていつか実現されるような性質のものでは決してない。もしそうなら永遠の真理が未来に存在するという不合理が生じてくるだろう。…
《引用終わり》

「永遠の真理」なんですから時間に依存するのは確かにおかしい。

《以下引用》
…真源は始まりもなければ終わりもない永遠であるが、あなたが「我在り」と自らを意識したとき、あなたの始まりは真源であり、終わりもまた真源になるということだ。なぜなら真源からさ迷い出たあなたはいつか真源へと帰る(還る)旅を始めることになるからだ。『十牛図』のプロセスの中に「返本還源」が組み込まれているのもそのためだ。…
《引用終わり》

例えば海面に発生した波。これを波動関数として表現することは可能でしょう。当然、時間tというパラメータを含む関数になります。時間tを代入しないと変位xは決まらないという見方をすれば、波はtに依存しています。逆に、時間tが何であってもこの関数は成り立つという見方をすれば、波はtに依存しているとは必ずしも言えなくなります(数学的には依存すると言うのが正しいのだろうが)。

「我在り」の瞬間に時間tが始まるとしても、時間tは我々が通常考えているような振る舞いをしない。ずーっと一定の速さで一定の方向に流れているのではない。悟りに近づくプロセスならば尚更…。

『十牛図』も階梯とはいえ、ただ順番通り見るだけでいいものではないかもしれません。向上門を描いた曼荼羅も向下門として逆に辿る見方がありました。

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第一 尋牛」を読みました。

《以下引用》
…さて『十牛図』に登場してくる「牛」が心を象徴していることは次第に明らかになっていくと思うが、第一「尋牛」ではまだ牛は姿を見せていない。ということは、この段階でまだ悟りへの道が自らの心を如実に知ること(如実知自心)だということが理解されておらず、どこを捜せばよいのか、その手掛かりも分からず、全く取り付く島もない状態にあることを示している。

忙忙として草をはらう撥(はら)い去(ゆ)いて追尋す
水闊(ひろ)く山遥かにして路(みち)更に深し

どんな人も一度は生の意味は何かと自問自答したことがあるだろう。いや、その意味が分からなくて途方に暮れたことがあるかもしれない。しかし、殆どの人の場合、結局は手近な目的や計画が意味に取って代わられ、今日したいことを自分はするだけ、今日という日は二度と来ないのだからと思ってか、思わずか、深く生の意味を尋ねることもなく、やがて人の生は使い果たされる。そんな恣意的な願望や野心の中に生の意味があるとはとても思えないが、生の意味というか、目的がどこにあるかを説いてきたのが宗教なのだ。宗教の存在意義はここにあり、またそれだけで充分なのだ。しかし、われわれはそれが分からないために忙忙とあれもこれもと試してみるが、本当に覓むべきものが見つからない。ただ精も根も尽きて、独り空しく佇むばかり。

力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処なし
但(た)だ聞く楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせい)の吟ずるを

《引用終わり》

前にも書きましたが、『瞑想の心理学』とこの本は表裏一体という感じです。『瞑想の心理学』ではこの本のテーマである「私とは誰か」が取り上げられたように、『瞑想の心理学』のテーマである「生の意味」が早速この本にも出てきました。

「生きる意味」については、私も以前考えた事をいろいろ書いています。『瞑想の心理学』を読んでいるときにそれまで書いたことをリンク集のようにまとめました『瞑想の心理学』に書かれてある悟りの記述もリンク集のようにまとめました

一望して気付いたのですが、結局は、聖俗両面の見方を身につけ、常に両方の見方で物事を見つめ、思索すべし…ということかと思います。

というのは、たとえ悟ったとしても、そのままこの世でお金を稼いで、おいしいものを食べて生きていくのであれば、二元論的見方もしなければ他の人との遣り取りに不都合が生じてしまうわけで、サンサーラとニルヴァーナの両方を具有し、その場その場で十段変速のギアを切り替えるしかない。十の階梯を順序どおりという時間の観念を排して、場面に応じて、ランダム・アクセスできるようにした方が良い。

そんなことを考えながら、この先、読んでいきたいと思います。

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第二 見跡」を読みました。

水辺の林の下で牛の足跡を見つけます。草が踏みつけられています…そんな情景でしょうか?

《以下引用》

水辺林下 跡(あと)偏(ひと)えに多し
芳草は離(り)披(ひ)たり 見たるや

現代はかつてのように一部の特権階級のみに機会が与えられていた時代とは異なり、すべての人に情報は平等に提供されている。それを手に取り、選び取るどうかはあなた自身に委ねられている。それだけ現代はいつにもまして自分の存在に自分自身が責任を持たねばならない時代と言えるだろう。…

縦(たとい)是深山の更に深き処なるも
遼(りょう)天(てん)の鼻(び)孔(くう) 怎(なん)ぞ他(かれ)を蔵(かく)さん

もちろん、第二の「見跡」では「衆器の一金たることを明らめ、万物を体して自己と為す」ところまで体験的に知るには至らない。それどころか主客(人法)の二元論の妄執(人我見・法我見)がサンサーラの世界(世間)を造り出していることさえ気づいていない。ましてこの認識の構造を断ち切ることがニルヴァーナの世界(出世間)への道であることなどまったく知らない(「二取(能取・所取=主・客)の随う眠はこれ世間の体なり。唯しこれのみをよく断ずるを出世間と名づく」)。ここでは数多の覚者が辿った道を尋ねるところで、まだ真理(真如門)に足を踏み入れてはいないから、仮に足跡を見たところと言われるのだ(「未だ斯の門に入らざれば、権に見跡と為す」)。
《引用終わり》

現在も仏教はある程度のブームなのかもしれません。毎日の暮らしの中に疑問を覚える人が少なからずいるということだと思います。

「私とは誰か」とかいう究極的なものでなくとも、「これでいいのかな…」という漠然としたもの。この違和感のようなものから出発して、これを解消あるいは解明すべく、本を見たり、ネットで検索したり。それは『尋牛』と言っていいと思います。

本もたくさん出版されているし、ネット上の記事もたくさんあります。「これかな?」と思う内容のものに出会うことも多いと思います。それが今回の『見跡』という段階かと思います。「これかな?」と思って読み始めてみても、読んでいるうちにやっぱり違和感が湧いてきて追跡を止めてしまうことも多いと思います。実際、私がそうでしたから。

仏教の有名な解説者とか、とても有名なお坊さんの講話とか、いろいろ試してみましたが、違和感が必ず湧いてきました。

二元論を超えるところに仏教の真髄があると考えると、この広く深い仏教哲学の世界もシックリとシンプルに整理できるような気がします。それに比べれば、巷で話題の仏教書という類のものは、この核心を外しているものが多いような気がします。まさに「未だ斯の門に入らざれば」の段階なのです。

『見跡』の段階の人々に対しては、真如門の中からの説明では受けない(売れない)ということなのだと思います。敢えて、相手のレベルに合わせて説いていくのも、菩薩としては重要なこととは思いますけど…。

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第三 見牛」を読みました。

《以下引用》
…われわれは何よりまず心(今のところそれは妄心でしかないのだが)を捕え、それと取り組むことによって心の本源へと帰っていかねばならないのだ。そして、その心(牛)をわずかに捕えたところが第三「見牛」であり、牛が少し姿をのぞかせ、視界に現れた様子が描かれている。

ここで初めて人(私)と牛(心)が実際に出逢い、外に向かっていた姿勢を改め、自分自身と対峙することになるのだが(回光返照)、私もまた心が仮構した観念(五蘊の仮我)に過ぎないから、私の心でもって牛を捕まえる、つまり心でもって心を捕えようとしているのだ。第三「見牛」から第六「騎牛帰家」までに描かれている人・牛・境(自然)のすべては、心(妄心)が造り出したものであることはよく理解しておかなければならない。そして、他ならぬこの心が無始劫来生死の本であり、辿るべきは、この心を除き、その本源(真源)であると深く思いを定めて、ようやく悟りに向け、実践の道を歩み出した端緒が第三「見牛」なのである。…

黄(こう)鸎(おう)枝上 一声声
日暖かに風和して 岸柳青し
只だ此れ更に廻避する処無し
森森(しんしん)たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
《引用終わり》

この世が「自心所現の幻境」ということであれば、見えたと思った頭角は、自分の(心の)影かもしれません。

影を追えば、影も逃げる。同じ速さで。それが自分の影とも知らず、追いかけっこはいつまでも続く。

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第四 得牛」を読みました。

《以下引用》
人が美しいものに心惹かれ、いとおしく思うのも、それが内なる真実の反映であるからに違いない。しかし、美の写しの定めとしていつかは滅び、土(humus)へと帰っていく。その悲しみをわれわれは何度も経験している。愛を求めた果てになお狂おしく、切ない思いに駆り立てられるのも、実は、反映の向こうに真実なるものを予感しながら、どうしても届き得なかったことからくる諦めにも似た虚しさからではなかろうか。地上の愛は、逆説ではあるが、その不完全さを知ることにあるのかも知れない。というのも、他者に求めた真実は、実は最も近いところで自分自身の内に有り、それを見出したときに初めてわれわれは愛すべきは、諭すべきは何かを知るのだ。…
《引用終わり》

人を愛する時、相手の内なる真実への思いであるならば、初めは純粋に美しいのかもしれません。でも、妄念としての心の性なのか、「真実」は形骸化し、ただそれを思うことだけに酔い、その人を獲得することだけに執着するようになる…「愛」を抱くものが妄念である以上、アガペーのようなものに止揚することは極めて稀だと思われます。ゆえに、仏教で「愛」は執着を意味します

同様の私見は、「不邪淫」とか「夫婦同性」とか「空海の風景」でも書いていますのでご覧下さい。

成就しない「愛」だけが真実のままでいられるとしたら…これは、消え去ることでしか真実の姿になれない「心」と全く同じ構造ですね。

《以下引用》
…広劫よりこのかた生死の苦海に沈淪してきた私が、その正体である妄動する輪廻の心をやっと捕えたところが「得牛」である。しかし、心(牛)を捕えてみたものの、妄動する心を繋ぎとめるのがやっとで、とても心を除くまでにはいたらない。

精神を竭(けつ)尽(じん)して 渠(かれ)を獲得す
心強くし力壮(さかん)にして 卒(にわ)かに除き難し

心は良くも悪くもありとあらゆる想念を生み出すプロジェクターのようなものであり、われわれは実際そこには存在しないにもかかわらず、スクリーン上に次々と現れる映像を見て、喜んだり悲しんだりと自らの心を乱しているのだ。さらに心は、上は天国から下は地獄まで「自心所現の幻境」に自ら迷い、一瞬たりとも落ち着くということがない。

有る時は纔(わず)かに高原の上(ほと)りに到り
又(ま)た煙雲の深処に入って居(きょ)す
《引用終わり》

それに対する思いが強いければ強いほど、それは力強く、
押さえようとすればするほど、それは暴れる…

《以下引用》
…心というものは二元性しか理解できない。しかもわれわれはずっと二元論的な思考方法に慣らされてきているために、どうしてもこの心から離れられないのだ。しかし、この心を除かない限り、対立二つながらの源である一元性の世界(法界一相)を知ることができない。そのためには妄りに動く執拗な心(頑心)を、一切の分別を挟むことなく注意深く観察すること(鞭楚)が必要なのだ。…

頑心は尚(な)お勇み、野性は猶(な)お存す
純和を欲得(ほっ)せば、必ず鞭(べん)楚(そ)を加えよ
《引用終わり》

この鞭楚が止観双修ということでしょうか…。

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第五 牧牛」を読みました。

《以下引用》
…思考と思考するものは同じ心であり、思考は思考するものであるのだ。

思考と思考するものの間にある見せかけの距離に欺かれ、思考を追い求めていくこと、それが欲望なのだ。そして生はどこまでも欲望の投影であり、その達成にこそ生の意味はあると見ているのであろうが、欲望の本質は今述べたように、心が生み出したものを心が追い求めるという矛盾なのだ。言うことが憚られるが、人間とは目の前に自分でぶら下げた人参を把えようとして走り続ける馬のようなものなのだ。
《引用終わり》

これに気づくことが「前思纔(わず)かに起これば、後念相い随う」であり、「止」ということなのでしょう。思考(妄想)が消えると、それを生み出していた心も妄りに動くことを息(や)め、無為寂静の本来の心に帰っていきます。

《以下引用》
真源を覚れば「本覚の真心」となり、たちまち六道・四生を出て、真実の自己(仏)に目覚め、迷えば「不覚の妄心」となって、三界虚妄の世界に沈淪する凡夫(衆生)となる。

「覚(さと)りに由(よ)るが故以(ゆえ)に真と成り、迷いに在るが故以に妄と為(な)る」
《引用終わり》

その境い目は紙一重…

《以下引用》
…心は、われわれが経験するあらゆる悲喜劇の創造者であるだけでなく、奇妙なことに、その悲喜劇に一喜一憂しているのもまた心なのだ。このように一切の境界はただ心が妄りに起こるがゆえに存在するのであって、決してその逆ではない。

「境に由って有なるにあらず、唯だ心より生ず」

だから第五「牧牛」では妄りに動く心(牛)をしっかりと捕え、ためらうことなく真源(心源)へと帰っていく様子が描かれているのだ。

「鼻索牢(つよ)く牽(ひ)いて、擬議を容(い)れざれ」
《引用終わり》

妄念を止めれば、心はおとなしくなって、真源へと帰っていく…

《以下引用》
従って、われわれは心あるいは欲望のからくりに気づき、妄動する心をあえて除こうとするのではなく、いわんや、追い駆けるのでもなく、善悪・凡聖など一切言わず、心の動きをひたすら観察するならば(時時に鞭索するならば)、心はその落ち着きどころを自ら見出して、その本源へと自然に消え去るのだ。

鞭索(べんさく) 時時 身を離れず
恐るらくは伊(かれ)が歩を縦(ほしいまま)にして埃塵(あいじん)に惹かれんことを
相い将(ひき)いて牧得(ぼくとく)すれば純和せり
羈鎖拘(きさこう)することなきも自(おのずか)ら人を逐(お)う
《引用終わり》

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第六 騎牛帰家」を読みました。

《以下引用》
…仏教は、何か目的のために忙しく散走することではないが、少欲知足を美徳としたり、清貧の生き方を説いているのでもない。「自家の宝蔵」が示すように、宗教とは自らの家郷(家山)に辿り着きさえすれば、そこにすべては円かに具わり、一つとして欠けるものがという体験なのだ。その時すべての欲望が消える、少欲すらない。…

…仏教(宗教)は、ややもすると禁欲を説いているように思われるが、そうではない。欲望とは「自家の宝蔵」を知らず、家郷を投げ捨てて、外へと彷徨い出たあなたのあがきであり、空しい努力であると教えているのだ。なぜなら、あなたがこの地上で手に入れるものであなたのもとに永遠に留まるものなど何かあるだろうか。名誉、地位、権力、財力…何であれ、あなたはすべてを残して独り旅立つ。だから馬祖は、言葉の最も厳密な意味において、あなたのものと言えるのはただ一つ「自家の宝蔵」であり、それを顧みることなく、何をし、何を手に入れようとも無意味だと言おうとしてのだ。
《引用終わり》

本源に帰るという思想は洋の東西を問わないということで、プロチヌス、エックハルト、『トマスの福音書』が取り上げられています。

《以下引用》
…例えば、怒りを鎮めなければとんでもない結果を招くかもしれないと必死に怒りを抑えようとしている人がいるとしよう。怒り(客)とそれを抑制する人(主)の間にある主客の分裂が葛藤を生み出していることは確かだ。そして感情的に激することなく、理性的に振る舞えば、世間では大人だと見なされる。それはそうに違いないが、ここで問題なのは、怒りもその人なら、抑えるのも同じ人であることだ。われわれの経験として主客が二つあるように見えるが、実は心が自ら抑制するものと抑制されるものに分かれているだけなのだ。

第四「得牛」第五「牧牛」において、人牛が繰り広げてきた争いもまた心の分離がもたらしたものであり、心でもって心を抑制しようとしてきたのだ。それが第六の「騎牛帰家」に進むと、人牛(主客)の争いも終わり、まだ主客の区別は残るものの、主客は共に心が仮に区別したまやかしと認識しているために、もはや二元論的な見方に惑わされることなく、心を摂してその本源へと帰ろうとしているのだ。…

干戈(かんか)已(すで)に罷(や)み、得失還(ま)た空ず。樵子(しょうし)の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。身は牛上に横たえ、目は雲霄(うんしょう)を視る。呼喚(こかん)すれども回(かえ)らず、撈籠(ろうろう)すれども住(とど)まらず。…

しかし、第六「騎牛帰家」ではまだ人牛(主客)が断じられるところまではいかない。…

牛騎って迤邐(いり)として家に還らんと欲す
羗笛(きょうてき)声声 晩霞(ばんか)を送る
一拍一歌 限り無き意
知音は何ぞ必ずしも唇牙(しんげ)を鼓(こ)せん
《引用終わり》

見つめられる自分と、それを見つめる自分。分離はしているが、激しい葛藤、渇望はない…そんな状態。

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第七 忘牛存人」を読みました。

《以下引用》
…真理(法)に主客の二法はないけれども(「法に二法なし」)、この妄心が捕えるもの(人)と捕えられるもの(牛=心)の二つに自心を分けているだけなのだ。その差異を『十牛図』は蹄兎(ていと)と筌魚(せんぎょ)を例に挙げて説明している(「蹄兎の異名に喩え、筌魚の差別を顕わす」)。蹄は兎を、筌は魚を捕える道具であるが、心をもって妄動する心を捕えようとしてきた人が、第七「忘牛存人」に至って、その心をも除くことが求められているのだ。…

心ゆえに迷いに迷いを重ねてきたのであり、一方「自家の宝蔵」である本源清浄心はいかなる心の塵にも染まらぬ真心であり、われわれは心を除いて自家奥裏の心源へと辿って行けばいいのだ。…(「金の鉱より生ずるが如く、月の雲を離るるに似たり。一道の寒光、威音劫外(いおんごうげ)」)。

そうして、遂に心が心源へと消え、無心(真心)となれば、そこがあなたの永遠の家郷(家山)なのだ。…そこにはあなたがかつて経験したことのない深い沈黙と静寂がある。あたかも波が消えれば海はあらゆる清濁を飲み込んで何ごともなかったかのように鎮まりかえるように、あなたは全ったき静寂の中に独り停む。

牛に騎(の)って 已に家山に到ることを得たり
牛も也(ま)た空(くう)じ 人も也た閑(しず)かなり
紅日三竿(こうじつさんかん) 猶(な)お夢を作(な)す
鞭縄(べんじょう)空しく頓(さしお)く草堂の間

《引用終わり》

この世を生きるということは虚妄の世界を生きるということであり、そこで上手に生きるということは二元論的区別をこなすことです。この区別の上に言葉が生じてきます。そして言葉の上に観念とか概念は生じます。

苦悩もまた、そうかもしれません。よって、それらを取り去った時、深い沈黙と静寂は訪れる…

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第八 人牛倶忘」を読みました。

《以下引用》
世界を幻影あるいは夢の如しと見た人たち(覚者)はこれを瞑想のプロセスのある段階で(『十牛図』では第八「人牛〈人境〉倶忘」を指す)知ったのであって、そうでない殆どの人々にとっては、この世界は幻影どころか存在する唯一リアリティのある世界と映っているのだ。…覚者…は道を求め、慧海のように先師を訪ねた果てに、心の他に仏はなく、ただ自心に迷うがゆえに六道の波は妄起すると知って、意縁走作する心(妄心)を息め、有仏(瞑想の中で仏や神を見ること)、無仏のところを走過して、心源へと辿るとき、やがて人境(自己と世界)が倶に銷殞し、我が家へ帰り着くとそこはもとより無、あるいは空であったと覚るのだ。

凡情脱落し、聖意みな空ず
有仏の処、遨遊(ごうゆう)することを用いず
無仏の処、急に須(すべか)らく走過すべし

…これを宗教的覚醒(悟り)の体験と呼ぶが、体験と呼ぶには少し注意を要する。普通、経験には経験する人がいて当然であるが、そこに体験するあなたはもういないからだ。たとい神秘的なビジョンを見たとしても、それが仏(神)であっても、また宇宙との一体感を味わったとしても、そこにあなたが存在する限り、それを宗教的覚醒の体験とは言わないのだ。

両頭に著(お)らざれば、千眼も窺い難し
百鳥花を含むも、一場のもら



慙愧す 衆生界已に空ず
箇中の消息 若為(いかん)が通ぜん
後に来る者なく 前に去(ゆ)くものなし
未審(いぶかし) 誰に憑(よ)ってか此の宗を継がん
《引用終わり》

むかしむかしあるところで、宇宙は始まりました。
でも、「いつ(時間)」も「どこ(空間)」も、宇宙の中にしかないから、
それは、「いつ」でもない「どこ」でもない出来事。

「われ」も同じ。
思うがゆえに「われ」はある。
思うのを止めたとき、「われ」は消え去る。
「いつ」でもない「どこ」でもない存在に帰る。

《つづく》
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