トトガノート

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自己を創造するー学年の枠をのりこえて」(p391〜561)の「子どもの商品価値を高める教育」(p392〜414)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p393)》
なんだか会社がおかしいと感じ始めたのはいつごろからだったろう。まだそれほどの時間が経っていないようにも思うが、わかい社員が機械の歯車になることを当たり前のように受け入れて、「会社の仕事」にわだかまりなく動きまわる姿を現に目にすると、おかしくなり出してからずいぶん経ったような気がする。バブル崩壊とともに、終身雇用の制度が疑われだして、かわって能力別人事考課なるものが登場した。課長、部長という名称は横文字の言い方になって、きのうまで役職についてわかい社員に教育をほどこしていた役職者が無役の社員としてそこにいる。失業率が上昇して、どこの会社も大量採用を手控える一方で、一時的な景気回復にあわせて必要なときに必要なだけの人員を確保できる態勢をとるようになった。会社内の人の関係になにか落ち着きがなくなっている。そのためなのだろうか、その会社がほんらい集中して注力しなければならない研究業務が会社の隅においやられてしまった。
《引用終り》

この変化は、私も会社員時代に感じました。入社当初は社内のモラルの中にいわゆる「徳」のようなものが含まれていたのですが、いつの間にかそれが消えてしまって、ただ忙しく立ち回ることだけが珍重され始めたような気がします。そしてそれに気づき始めた頃から、会社組織や上司を尊敬出来なくなったような…。

《以下引用(p408)》
いつから社会は、また会社はこうなってしまったのだろうか。モノづくりにかかわらない人、研究に従事しない人が会社にふえたことがその原因の一つであることはまちがいがない。しかも、持ち株会社などが解禁になったことから、そうした人が権力を持つようになった。このために「会社の仕事」がますますふえ、柳の下の商品が町にあふれるのである。

「つくる人ーつかう人」のシンプルな関係のあいだに、ヌエのように形をもたない「会社の仕事」が入りこむ。「つくる人」は「会社の仕事」をするようになると、しぜんと「つかう人」からはなれだす。大きな組織になればなるほど、実際にこの商品をつかう現場からとおくはなれた位置に立たざるを得なくなるのだ。まさに、商品の使用価値は見失われ、交換価値だけが世の中でうごき出す。このありさまをさらに高いところから見下ろしながら、「会社の仕事」は十年一日のごとく、きょうもまた何事もなかったかのようにすすんでいる。
《引用終り》

ただ売ることだけしか考えていない「会社の仕事」で、果して教育ができるのか。

《以下引用(p406)》
教育の「方法」とは、生徒が学習するにあたって、その思考活動をどんな道筋でおこなっていくべきかを示すものである。方法は方法であって、これ以上ではない。学ぶものが教育によって得るものまで強制することはできない。しかし、その学びの道筋については、提示をして、このまま進んでまちがいはないよ、と言ってあげるべきものなのだ。…

…教育は生徒にクスリを与えれば済む世界ではないのである。処方箋を出せば医療が終了と考える医者はいない。患者の来し方行く末までつづく一筋の命を看ながら施療をおこなうはずなのだ。教育は裁判の裁定でもない。裁断と指導はあいいれない。裁断をうけた人はふかくみずからの罪を悔いて首垂れるだろう。しかし、教育にあっては、生徒は「指導の現場」からみずからの足で一歩を踏み出し、あゆみ出すのである。そこに道筋をつけるのが教育の「方法」なのだ。
《引用終り》

会社は「会社の仕事」をするしかないのかもしれません。指導者は幸いなことに会社の人間ではありません。ですから、教育の「方法」を行うことができるということになります。

《以下引用(p410)》
人は人生のなかで何回も進退きわまる岐路に立つ。そのとき、最後には自分にとって望ましいカードを引くか、それとも、自分以外の他者にとって役立つカードを引くかで道が分かれる。これは、りっぱな社会人になるとか、社会に貢献するとかといった一時代前の道徳の話のことではない。生徒自身が学びのなかで、いつも経験するのが、この岐路に立ったときの自分を賭けた選択なのだ。教育が相手にするのは、自分を超えた一点でものごとの解決を図らなければ活路が見出せないといった局面での話のことである。「教えるー学ぶ」関係は、まさに情報を超えた場所で成り立っている。
《引用終り》


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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「数学教材から考える:教材と指導の一体化」(p342〜389)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p383)》
すこし以前に評判になった本に、リヒテルズ直子氏の『オランダの個別教育はなぜ成功したか―イエナプラン教育に学ぶ』(2006)がある。指導現場とバックヤードでおこなう指導サポートや教材制作の関係にオランダがどうとりくんだかの現場報告が書かれている。…
《引用終り》

この本、絶版のようですが、オンデマンド版があるようです。アマゾンで入手できるようなので、いま発注しました。

《以下引用(p385)》
戦後復興を成功裡に終えたオランダでは、高度成長のあと、旧秩序や旧体制を批判する動きが活発化し、伝統的なキリスト教倫理にささえられた旧来の社会が部分的に崩壊しだす。

とくに旧い画一的な教育では、同じ内容をただ反復するという授業形態が留年の原因になっていること、また、留年する子どもはわかっていない部分をもういちど学ばせるために、わかっている部分もくり返して学ばなければならない、という非効率な教育がおこなわれていた。こうした状況に対して、1965年ごろから学生を中心に批判の嵐がまきおこる。従来のように学習内容を学年ごとにヨコに決めるのではなく、タテに、つまり子どもの発達を、学校就学期間全体をつうじて継続的にとらえ、より包括的な形で組織していくべきだという意見が出されたのである。

自分の子どもをオランダの地方都市の学校に転入させようとしたときに、著者はおどろく。地方都市といえども、「自宅に一番近いところの学校に通わせようと思っても、歩いて買い物に行けるほどの距離のところに3つや4つの学校があるのがあたり前で、子供が自転車で通える範囲まで含めると、容易に10校前後が候補としてあがるのが普通だからです。選びたくなくても選ばざるを得ないのがオランダの小学校です」。

なにも同じ教育に統一する必要は、少なくとも子どもの側にはない。オランダではすでに憲法を改正して、教育の自由が確立していた。市民団体であっても、独自な理念や方法に基づいて学校をつくり、公立校と同様に国庫補助金を得て、教育活動が展開できるのである。オールタナティブ教育が受け入れられる素地ができあがっていたのだった。

オールタナティブというのは、従来型の教育法に対して代替的な方法を提唱するさまざまな教育思想家によってつくられた教育、既存の教育にとって代わる別の教育、という意味である。ここで既存の教育といわれるのは、長いあいだ習慣とされてきた、同じ年齢の子どもを一つの教室にあつめ、先生が教壇に立って、おもに一方通行で知識を伝達し、子どもはそれを受け身的に習うという形式の教育のことである。

こうして比較的小さな学校が街の辻にならぶという、日本ではちょっと見られない光景ができあがる。カトリックの学校、プロテスタントの学校、モンテッソーリの学校、シュタイナーの学校、イエナプランの学校(学校を協同社会として位置づけ、部分的ではあるが、無学年制をしく。集団学習と個別指導を両立させるユニークな教育をおこなう)、という具合である。もちろん、行政もこの動きに積極的にからむ。
《引用終り》

つまり、学習塾のように、学校が町に点在しているということですね。

《以下引用(p386)》
1976年には「国立カリキュラム開発研究所」ができた、そして、「教育サポート機関」が全国各地に公費で設置された。国家事業として、教材の開発、制作、そして、指導法の研究、支援が組織的におこなわれたのである。学校の指導者に自由裁量権をもたせたがゆえに、教材開発など、バックヤードの仕事との関係も構築されていった。移民を積極的に受け入れてきた国柄である状況から反転して、まったく新しい教育行政の道をひらいている。

こうしてオランダの学校では、「個別教育」をベースにして、このほかに、自分の進度に応じてどんどん挑戦的に先にすすんでいく「自立学習」と、ほかの子どもたちとの相互学習をつうじて、その関係の築き方や役割分担の仕方などを学ぶ「共同学習」がおこなわれるようになる。自分の発見や関心事をほかの子どものそれと比べることによって、おたがいの性格や適性の発見につなげていく考えである。これら3つの、方法のちがう教育をじょうずに組み合わせて、子どもの発達を多方面からはぐくむのだ。個別学習や自立学習があってはじめて、共同学習が成り立つ、これは新しい学力観を提示し、「総合的な学習」を取り組もうとして、道半ばで頓挫したわが国の教育行政に大きなヒントになるのではないだろうか。
《引用終り》

それぞれのお国柄があると思うので、日本でオランダのような方法が実現できるかは分かりません。わが国の場合は、行政が絡むと本来の目的から遠ざかってしまうような気がしますし。逆に、オランダの学校のように町に点在している学習塾がそれを担っていくべきなのかもしれません。

そもそも、公文式は創立時からそれを目指しているということかもしれませんが。



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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「数学教材から考える:教材と指導の一体化」(p342〜389)を読みました。(小林教室収蔵

分数の計算で出てきた途中式。同じ値のものをイコールでつないでいって、複雑な式をどんどん簡単な式にしていく…これが数学の計算力だと思います。

《以下引用(p370)》
斉田先生は生徒全員にノートを持たせて、教材以外の練習につかう場合もあるが、主にはその生徒が意識して取り組むべき問題とその解法を書かせている。…そこで、先生はノートの見開きの左ページに連立方程式の問題と解答、これを書かせて自分用の例題にすることを指示する。計算手法にまよったら、これを見るように指導するのだ。そして、このノートの右ページは2直線の方程式のグラフを書かせる。すると、2直線の交点が連立方程式の解と一致する、この性質に気づいた生徒は目をかがやかす。この指導に抵抗感をもった生徒はこれまで皆無であったという。それぞれの数の世界が、生徒の内側では、方程式のあとに学習する関数の理解に何のためらいもなく、つながっているのだった。
《引用終り》

算数は、計算して最終的にひとつの数値に辿りつきます。これは、座標空間で捉えればひとつの点でしかありません。文字式を用いた数学の計算では、文字xはひとつの値である必要はありません。つまり、座標空間では線になります。文字がxとyの二つになれば面、zを加えて三つになれば立体になります。

ひとつの点に絞り込まなければ先に進めない思考形態から、どんな値であっても構わない変数を複数組み合わせた、線・面・立体の思考形態に飛翔する…翼ではばたくが如く、生徒たちの目は左右のページを行き来することになります。

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「数学教材から考える:教材と指導の一体化」(p342〜389)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p366)》
分数の場合、学校ではわざわざ学年別に区切って、この分数の意味をかえって生徒に見えにくくしている。
《引用終り》

スパイラル方式というやつですね。計算の手順を少しだけ習って、翌年わすれた頃に続きを、さらにその続きはさらに翌年習う…。

《以下引用(p367)》
斉田先生は分数の加減がまざっても一つの学習課題だと考えている。一気に学習を終えさせてしまう場合が多い。途中でとぎれるところはない。…

通分、帯仮分数の変換、約分、こうした手順を確実にできることを、まずは指導する。そうすれば教材進度に比例して、分数のあつかいはじょじょに上手になっていく。なかには、異分母分数の足し算をするまえの説明など不要な子がいる。約分とその逆の倍分の関係をつかんだ生徒は、異分母分数の加減を先生の説明なしに、しかも例題もなしにできる生徒はいるのである。もちろん、そうでない生徒もいる。こうした生徒の能力の幅を指導者がつかんでいれば、指導の方法はより個人別にすることができるはずである。
《引用終り》

スパイラル方式は、難しい分数を嫌いにならないように…という配慮らしいのですが、そのために嫌いになる子も多いでしょうね。

《以下引用(p368)》
ところで、じつは斉田先生が分数計算で大事にしていることは、これだけではない。計算力の向上に欠かせないのは、まずは正確にできること、まちがってもいいが、まちがえたら、そのまちがった箇所を自分で見出すこと、そして、その間違いをすばやく直すことであった。この原則は分数の加減乗除でも、また、分数や小数をふくんだ四則混合算であっても同じである。いや、こうした自己訂正力は分数計算においてこそ求められる。

分数計算ではそれまでの四則算にはなかった途中式というものが登場する。途中式とは解答にたどりつくまでの道筋のことである。ここではまちがえたところだけを見つけ出させて、そこからあとを訂正させる指導が必要になる。先生の教室では、解答を自分で確認させたあと、まちがえた箇所を見つけさせて、そのまちがえたところは消させずに、その下に赤のボールペンで訂正を書かせる。もっとスマートなやり方があるかもしれないが、実質ではこれに勝る方法はないだろう。
《引用終り》

私も、学生時代はこうしていました。

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「数学教材から考える:教材と指導の一体化」(p342〜389)を読みました。(小林教室収蔵

数の概念を子どもに植え付けるにあたり、指で数える「かぞえ主義」が是か非かという議論があったようです。数における「ヴィゴツキーの内言の世界」を構築するには、どうしたらいいのか?

《以下引用(p359)》
計算力があるというのは、どういう状態のことか、公文氏は次のようにその要点を述べていた。\騎里任△襪海函↓△泙舛いがあったら自分で見つけられること、まちがいをすばやく訂正できること、の三点である。ここで注意しておきたいが、意外にもこの要点のなかに、速く計算できるということがない。わずかにの「すばやく訂正できる」という点があるだけなのだ。教材をしていると、結果的に計算が速くなった、というのが正しい理解なのだ(…計算が速いことと数学ができることとは次元がちがう話である。多くの人がこれをとりちがえている)。
《引用終り》

「ソフィスト伝」にも同様の内容の箇所がありました。

《以下引用(p360)》
まちがえそうになったら、指でかぞえればいい。あやふやな答えがなくなる。指折りなら答えが出る、自習ができる。これならだれもが安心して足し算ができるのである。できないことで悩む必要などない。困ったら指で数えてもいいのである。かぞえなくてもできれば、それはそれで、もちろんいいわけだが、できなければ確実にできる方法をとる。あやふやになったら指でたしかめることもOKである。まちがえそうな自分に気づいて確実な方法をえらぶ、これこそ自学自習の姿ではないか。
《引用終り》

足し算を学習中の子どもが、自分のまちがいをみつけ、それを訂正するには、確かに指折りしかない…。

《以下引用(p363)》
公文氏はこうも言っていた。「足し算の導入は、どうであろうと、指折りである。指折りをしながら指折りから離れていく」、と。

指折りをしながら順序数の世界に入り、じょじょに足し算の世界に移っていく。「AとBを合わせる」という概念が育ち、さらに「AにBを加える」という概念が芽生えてくる。これを生徒のほうが自分で学び取っていけるようにすることが、自学自習における学習態度を形成する目になるのである。
《引用終り》

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「数学教材から考える:教材と指導の一体化」(p342〜389)を読みました。(小林教室収蔵

数学教材に関する章は、教材論から始まっています。

《以下引用(p342)》
批判のない教材は死んだも同然である。公文氏の時代には、かれ自身がこの教材のここはいかがなものかと指導者のまえで、隠すことなく疑問を呈した。みずからのつくった教材をそろそろ本来の形にしてもいい時期が来たと言うこともあったし、指導者との意見交換の場で教材改訂のための自分の考えを述べて先生からの反応を得ようとすることもあった。教材発展のためと考えれば、むしろ批判は歓迎されこそすれ、無視したりいやがられたりするものではない。斉田氏ももちろんそう考えていた…。

教材は改訂が命である。教材改訂をしたら、その三ヶ月後にはさらに教材改訂をするつもりで改訂情報を集めろ、とは、公文氏の言葉である。公文氏自身が教材は神棚にあげてまつりあげるものではないと考えていたのだ。
《引用終り》

これは、読んでみれば当たり前のことなのですが、こういう考え方を持ち、実践していくことは難しいことです。教材の改訂は、各教室でも新旧の教材の入れ替え作業が生じ、大変なことです。しかし、公文氏は実践された。素晴らしいことだと思います。

《以下引用(p343)》
まず生徒には能力差がある。しかも、指導者の指導力も千差万別である。多くの指導者が改訂をのぞむ箇所であっても、能力の高い生徒にはなんの問題もないことはしばしばである。また、指導力のある指導者はその教材の箇所をまったく意に介しないこともある。多くの声があるというだけでは教材改訂はできないし、ましてや全体の平均的な声や数字的な平均値を神の声とばかりに信じれば、いきおい教材の質はどんどん落ちていくことになる。
《引用終り》

教材に関する声に耳を傾けなければ「裸の王様」になってしまう。しかし、「ろば売りの親子」みたいな教材改訂ではいけない…

《以下引用(p344)》
斉田氏が教材への批判をしばしば口にするのは、教材の改訂が全指導者に満足のいくものにしようとして、平均値の教材改訂をおこなおうとするからなのだ。こうした改訂は先生にしてみたら、教材の質の低下としか映らない。教材自体が成長発展するイメージを担当者が持とうとしない、これがなんとも釈然としないのだ。先生の教室には年少の生徒の高教材学習者がたいへん多い。こうしたとき、学習のしやすさだけをねらって、問題の量を減らしたり、その問題の質を落とされたりするとひじょうに困る。それまでに指導でつちかった学力がムダになるばかりか、消えてしまう場合すらあるのだ。生徒の能力は上がるどころか下がってしまう。生徒は毎日闘っている、同じように教材も闘ってほしい、と思う。だから、先生の教材批判は容赦のないものになるのである…。
《引用終り》

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「国語教材から考える:教育は生徒のいま、ここでの経験に立脚する」(p308〜341)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p339)》
…斎田先生の国語指導の特長はなんといっても、教材のある箇所で右に述べた読みの指導を、その日一日の、教材一枚のなかですべてし終わってしてしまうところにある。先生の言葉をつかえば、読みの不十分な生徒がいたら、その教材で読みを「ちょうどにする」、「ちょうどにしてしまう」指導なのである。…ある人が言った、「斉田先生の完成時間は、問題一題ごとなんですね」と。まさにそのとおり、先生は10枚一組で学習状態をみたり、5枚一組でみたりはしない。一枚のなかで、いや、一題のなかで、「ちょうどの学習」でない状態があれば、間をおくことなく、即座に、その場で「ちょうどにする指導」をおこなうのである。

生徒の読みが不十分であることがわかったら、あわてて何教材か下の教材にもどして、復習をするとか、もっと初期の簡単な文が出る教材をつかって、そこで集中的な音読訓練をおこなうというやり方が、しばしば見受けられる。しかし、やさしい教材にもどして音速読(速い速度で音読をさせる)ができたからといって、いま学習中の教材の読みが改善されることはない。もともと生徒の読みが不十分であったのは読みの速度が遅かったのではなく、みずからの経験に裏打ちされた読みができなかったからである。しかも生徒はとつぜんこの教材をしているわけではなく、これまではスムーズな読みで学習してきている。BとかC教材の学習で読みの不十分さが見つかったといって、すぐさま7Aとか6Aとかにもどして復習する指導は、生徒が困難を感じている教材から指導者が逃げているだけではないか。
《引用終り》

文章の内容を自分の経験世界に移しこんで腑に落とす」ことが国語の場合は必要なのですね。

《以下引用(p340)》
「ちょうどの学習」ができていないとみたら、すぐに、その場で「ちょうどにする指導」をおこなう、これが学力の実態をみる、ごくしぜんな態度なのだ。この指導の基本は、数学でも、英語でも、国語でも変わることはない。こうした必要な指導をしないで、別の教材に逃げこんだり、読書をすすめたりすることで読んだことにしておこうといった指導者の姿勢は、子どもにも大きな損失を引き起こすものだと、指導者はふかく自覚しなければならない。
《引用終り》

なかなか手厳しいですが、「なるほど!」です。

《インデックス》

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「国語教材から考える:教育は生徒のいま、ここでの経験に立脚する」(p308〜341)を読みました。(小林教室収蔵

やはり村田氏は国語の人です。国語教材の説明には注目すべきことが多い…。

《以下引用(p336)》
学習上の問題点を大別すれば、(1)縮約文を書くための指導が必要な場合と、(2)縮約文を書こうにも、そのまえにもともとの文章が読めていない場合の二つがある。要するに、書きの問題と読みの問題である。
《引用終り》

まず、書きの問題について。

《以下引用(p336)》
書きに問題がある場合は、読めているわけだから、ここまでこの教材を順番に学習してきた生徒がなにも書けない、ということはない。書ければよしの対応で、ともかく白紙にしないことを国語学習にさいしての基本的な初期指導にくわえる。できるだけ書きの抵抗感をなくすため、教材とは別の補助プリントを使う。…何回でも書き直しができるものであると生徒に知らせておく。訂正が必要なら、線で消してその横に書けばいい。正解ではなかった解答も消させない。その横にあたらしい縮約文を書く(補助プリントは最後にホッチキスで教材に添付し持って帰らせる。…)解答作業とは、すなわち、推敲である。書けただけで、もう50%の正解である。…推敲をかさね書き直せば書き直すほど解答の文章はよくなる。…このままでも十分よく書けている、もっとよくしてみよう、よりすぐれた文章にしていくことを生徒への指導の中心にする。書きに強くなるための指導は、ただ一つ、「また、書きたくなる」ようにすることである。生徒にはこの思いをのこす指導を心がける…。
《引用終り》

教材の文章を基に自分で文章を組み立てていく。「推す」にしようか「敲く」にしようかと迷い悩むこと。それが最も国語的な作業であるし、それを楽しめるようになれば国語が大好きになるはず。そこに導くのが指導者の仕事であるし、その楽しみを共有できれば最高ですね。「香炉峰の雪」は何度も降ることでしょう(笑)

《以下引用(p336)》
「縮約文」には誤答はあるが、正解はない。自分が読み切った部分だけを、ていねいに文字を書き込むだけのことである。話題にそった、日本文として流暢な文章ならいい。…一字一句、解答書に合せようとするから、生徒は書けなくなるし、指導がめんどうになるのだ。不足のキーワードがあったり、言葉と言葉の連接に流暢さがなかったり、ぎこちない文章であったりした場合は、生徒が仕上げた文章はそのままのこし、そこに推敲をくわえたあと、あらためて書けばいい。別紙に書かせることで、書く抵抗感がなくなる(せっかく仕上げたのに、ゼロからまた書き始めるのはつらい)。
《引用終り》

大学の卒論指導に似ているかもしれませんね。

次に、読みの問題について。

《以下引用(p337)》
しかし、じっさいには、書けないというほんとうの原因は文章の不十分な読みにある場合がほとんどである。…

生徒がつくってきた縮約文を読む。生徒にしっかりと音読させることもある。そのまちがいや文章の不整合、また、流暢さの欠如などから、どこに読みの問題があるのかがわかる。わからなければ縮約文の最初からその意味を確認する。また、次に本文の読みをおこなう。語彙の理解不足や文章内容の把握が不十分な場合はこれを取り上げ、本文の言葉と言葉の関係をきわだたせて音読させる。最初は冒頭の一文から、数文の文章、そして意味のまとまりのある一パラグラフを読み切らせる。一見手間のかかる指導のようにみえるが、この指導がこのさきずっとつづくわけではない。読み方の指導が浸透するにつれて、自学自習による読みができるようになる。パラグラフ読みが終わったら、全文とおして読ませる。生徒のほうも読み方の要領がつかめてくる。未知の語彙に関しても、読み全体の流れのなかで、その語句の働きが理解できるようになる。重要度の高い言葉はうきあがり、そうでもない言葉はかるく、そして、すばやく読めるぐらいに濃淡のついたリズム感のある読みにする…。

読む力とは、文章中にある言葉の関係を具体的に、すなわち、文脈にそくして自分の腑に落としていくことである。そのためには、書かれた文章の話題をはっきりと頭におきながら読むようにする。…当然ながら何についての文か、すなわち、文章の話題を自覚して、そのつながりを意識に保持しながら、その話題が一定のオチにたどりつくまで読み切らなければならない。読み手は読みながらも、意義深く、独創的な言葉づかいには関心をもつ。つまり、話題に即して、当の文章にあった、ハッとする語句や言い回しに着目するわけである。これをつづめた形で頭のなかで整理しつつ読んでいくのである。…

読み手の頭のなかにおこるこうした読みの作業には、「縮約」という言葉をつかったほうが頭の働きを理解するのに適切かもしれない。「頭のなかで縮めて約す⇒文章を読んで解かる⇒文章を読解する」である。
《引用終り》

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「国語教材から考える:教育は生徒のいま、ここでの経験に立脚する」(p308〜341)を読みました。(小林教室収蔵

公文氏は意表をつくスローガン(?)を唱えたことが何度かありますが、「の前のE五冊」もそのひとつです。

《以下引用(p332)》
E教材に進む生徒は、当然ながら生徒みずからの、全身的な力をつかって教材に取り組めるようでなければならない。そうでないなら、教材学習はムダになる。公文氏はムダなことがきらいである。ムダであるばかりか、ほうっておけば学習自体まで不調になる。だったら、そのE教材で採択されている文章レベルの本を、E教材を学習するまえに読ませるようにすべきではないか。人には唐突でも、かれにとって当然すぎる提案であった。できないなら、どうするか。苦しんでいるなら、そのまえに何をさせればいいのか。これを考えるのが公文氏の指導、いや、教材の制作方針そのものであった(しばしば教材がむずかしければ、そのむずかしいところを削る教材改訂があったりするが、公文氏はそのまえにある教材の質を高めた。やさしくする教材改訂は一度もなかった)。この「Eの前のE五冊」は教室での国語指導に直結する問題である。…
《引用終り》

教材の一段一段のステップを小さくして、登りやすい階段にすることは可能です。しかし、それでは自分の力を鍛える階段では無くなっていきます。そして、教材の量はゾッとするくらい水増しされるはず。やさしくする教材改訂を望まなかった公文氏の考えはよく分かる気がします。

《以下引用(p334)》
まえに斉田先生の国語指導は文章の読み方指導を中心にしていると述べた。文章を読むとは、文章の内容を自分の経験世界に移しこんで腑に落とす、ということである。自分の経験に落としこまなければ、文章はほんとうに読んだことにならないのだ。しかも、この経験は当然ながら生徒一人ひとりでちがう。目のまえにある文章を読むための基本的な国語力もまた、生徒ひとりひとりでちがうのである。こうした状況のなかで、文章を読んで腑に落とす状態をつくるのが、国語教育の中心になる。もちろん、対応は個人別でなければならない。納得という気持ちになる場所が生徒ごとにちがうのである。了解の域そのものが異なっている。…

熊本に吉山先生という先生がいる。「G・H・I教材のなかの、どこかで、一回は生徒とその解釈の仕方について話しこむことがある」、こう言ったことがあった。これが国語力をモノにした生徒の特長であった、と。…

生徒自身が自分の経験として腑に落とさなければ納得はしないわけで、文章の読みも完結しない。「教えすぎよ」、「そんな暇ないわよ」という声が聞こえる。たしかに長口舌は禁物であるし、教室を混乱させるのもよくない。しかし、このぐらいの時間はつくるべきなのだ。何回もあるわけではない。そのあとの生徒の取り組みが変わる可能性があるのなら、時間がかかっても、教室の流れが多少わるくなっても、たいした問題ではない。できるだけ簡略に指導するのは、もちろんである。
《引用終り》

このような遣り取りを、私は「香炉峰の雪」と呼んでいます。ひとつの名作を間において、これから人生という険しい山を登ろうとする若者と、これまでの自分の経験を手掛かりにして対峙する…これは、「師」としては至高の瞬間ではないかと思います。「教えすぎよ」、「そんな暇ないわよ」とは、時計ばかり気にしてメインディッシュに手をつけずに帰るようなものではないかと。

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「国語教材から考える:教育は生徒のいま、ここでの経験に立脚する」(p308〜341)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p329)》
思考力をつける国語教育の方法について、いつも刺激的な発言をしている宇佐美寛氏の比較的早い時期の著作に『論理的思考――論説文の読み書きにおいて――』(1979)がある。看護教員養成のための講習会での授業報告であるが、氏はここで冒頭、次のように語り出す。

「宇佐美です。45時間にわたる「論理的思考」の授業をはじめます。ふつう、このような一つの科目の授業をはじめるときには、まず「論理的思考」とは何かを話すのでしょう。つまり、まず表題に出るような重要な概念の説明は一応する場合が多いようです。しかし、私は、そういう理屈をしゃべってみても、むだだと思っています。特に、最初の時間からそういう話をするのはまったく無意義です。なぜでしょうか。それを聞いている学習者がたるむからです」。…

「楽であることもできる勉強は受け身の勉強であり、身につくものが少ないのです。自分の頭を酷使せざるを得ない、「しんどい」勉強でなければ見につきません。「勉強」とは、文字通り「勉め強いる」ことなのです」。…

「ことばで話しても受講生にはわからないということです。なぜ、わからないのか。この「なぜ、わからないのか」に今ことばで答えることもできないのです。答えてみても、その答えのことばがわからないのです」。

ちょうど水泳を言葉で語って教えようとしても受講者が泳げるようにはならない、自分で泳ごうとすることによってのみ泳げるようになるのと同じである。言葉がわかるようになるのは、泳げるようになった後である。
《引用終り》

「授業」という言葉自体、ひたすら受け身で積極性を感じさせないものですが、勉強の取っ掛かりはそれを受けることが当たり前のようになっているのはなぜなのでしょうか?

勉強は、危険に自ら挑む冒険家のように、自発的な衝動がなければ本来は成立しない行為です。「しんどい」ものでなければ身につかないわけで、「しんどい」けれどもやるんだ!という積極性がなければ続きません。

「授業」という勉強のやり方。メリットもあるのでしょうが、ベストとは言えないと思います。

《以下引用(p330)》
「緻密に、正確に考えるとは、緻密で正確なことばを使って考えることです。ことばを、なるべく意識的に検討しながらしんどく考えるには、緻密・正確な文章を書くのがきわめてよい方法」だとして、「みなさんに、おおいに書いてもらおうと思っています。いわゆる講義調で私の方から話をするのは、みなさんが作文を書いた後にします」。

学んだあとにおこなう講義にしても、「ただ聞いているだけではいけません。必ずノートをとってください」。ノートをとるとは、講師の話を分析・整理することである。頭の働きがだいじである。ノートをとるのも、「頭をのんびりさせないため、しんどく考えさせるためです」。
《引用終り》

これを行わせるための教材…と考えたとき、「縮約」は確かに良い方法だと思います。

《インデックス》

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