トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Category:★仏教 > 「神秘主義の人間学」

(p1〜3)はじめに
1.神秘主義の人間学

(p11〜30)第一章 キルケゴール
2.キルケゴール

(p31〜50)第二章 アウグスチヌス
3.アウグスチヌス引用リンク集
4.観想・観照の体験
5.宗教的独身とは

(p51〜70)第三章 マイスター・エックハルト
6.エックハルト引用リンク集
7.「神」と「私」の関係
8.神と人間の二重構造
9.存在のメカニズム
10.すべてのものが神である
11.被造物が終るところ

(p71〜90)第四章 十字架の聖ヨハネ
12.虚無の中で
13.自分の中にある神の隠れ家
14.神認識の方法
15.観想の暗夜

(p91〜109)第五章 ディオニシウス・アレオパギタ
16.3人のディオニシウス
17.無神論か有神論か
18.宗教と世俗の事情
19.観想の秘儀
20.観想のプロセス
21.神を知ったという人は神を知らず
22.自由…「私」からの解放

(p111〜129)第六章 イブン・アラビー
23.イブン・アラビー引用リンク集
24.スーフィ的死
25.世界は幻想であるとともに真実である

(p131〜151)第七章 ジャラールッディーン・ルーミー
26.ジャラールッディーン・ルーミー引用リンク集
27.cogito, ergo sum
28.粗大身と微細身

(p153〜174)第八章 シャンカラ
29.「私」という意識の連続体
30.神に祈るということ
31.あなたは何を達成する必要もない
32.アートマンとブラフマン

(p175〜196)第九章 ロンチェンパ
33.夢がかなうと空しくなるのはなぜか?
34.目標達成は、あなたを悟りから遠ざける
35.自分というプログラム
36.「チベット死者の書」
37.チカエ・バルド
38.チョエニ・バルド
39.シパ・バルド

40.瞑想のバルド

(p197〜220)第十章 劉一明
41.道教の劉一明
42.色身と真我
43.三宝:精・炁・神
44.順造化と逆造化
45.道教が目指す長生とは
46.性命双修
47.造化之道
48.有私と無私
49.人心と道心
50.自己懐妊

(p221〜250)第十一章 慧能
51.何れの生にか此の身を度せん
52.存在の3つの範疇
53.仏に逢うては仏を殺し
54.覚者とは
55.本源へと辿る三つの“見る”段階

(p251〜287)第十二章 空海
56.生死と空海
57.『成唯識論』から
58.六趣の夢苦・四生の妄憂
59.人は仮我の養いのために波々として人生を渡る
60.仮我は実体なし
61.無常に異ならざるの常にして不思議常と名づく
62.一切の衆生は皆是れ我が親なり
63.生死の輪廻なしと云うは、外道の見なり
64.この世界こそが夢幻
65.夢落に長眠す
66.仮有は有にあらざれども有有として森羅たり
67.主客の消え去ることを空という
68.一心の性、仏と異なることなし
69.如実知自心
70.自心に菩提と及び一切智とを尋求せよ
71.日月今更に生ずるにあらず
72.痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る
73.覚者は一人だけ?
74.この世は夢の如し
75.夢夜の別
76.仏と衆生は平等
77.衆生すなわち是れ仏
78.死亡したら仏にはなれない
79.自心を悟れば仏、迷えば衆生
80.自性を悟れば性愛は菩提となる
81.神秘主義を俯瞰して

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p286)》
心の本源は真理そのもの(真如)であるから、そこに辿り着きさえすれば、われわれは何をした訳でもないけれども大いなる完成(ゾクチェン)」を実現したことになる。捨て去るべきものなど何もない。見るものすべてが真理を顕している。言い換えれば、すべてのものが仏性を得ている。どこを向いてもそこに神の顔があるのだ(コーラン)。「法身の微細の身は虚空ないし草木まで一切処に遍ぜざるところなし。この虚空、この草木すなわち法身なり。肉眼に於いては粗色の草木を見るといえども、仏眼においては微細の色なり。この故に本体を動ぜずして仏と称するに妨碍なし」(空海『秘蔵記』)。

人間だけではない、草木を含む全宇宙がもとより真理を顕している。ただ肉眼には見えてこないのだ。仏眼(アウグスチヌスは「魂の目」と呼び、ルーミーは「心の目」と言った)でもって見るならば、存在するすべてのものが神なるものを顕している。神(仏)とはこの全体を言うのだ。

当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり (白隠『坐禅和讃』)

仏教は無神論だといわれてきた。果たしてそうであろうか。彼らは同じ心の本源に究極の真理を見ていたのではないか。ここにはいわゆる一神教的な神の概念は当てはまらない。そして神の概念をめぐって宗教に争いが絶えなかったことは周知の事実である。神の概念の数だけ宗教があるのだから避けられなかったというのが本当のところであろう。われわれはもう一度〈神〉を観念的、伝統的教義のリゴリズムを離れ、捉え直す時代に生きているようである。
《引用終わり》

この本は比較神秘学的な趣があって、実存主義とかキリスト教とかイスラームとか道教とか仏教とか…様々な神秘主義を俯瞰しています。それぞれの教えを重ね合わせていったときに共通項がはっきりと見えてきます。故に、これこそが宗教家の口から伝えられるべきことと思うのですが、少なくとも巷でもてはやされる有名な宗教家がこのようなことを説いているのを見たことがない…。

何とも勿体ないことです。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p283)》
これと関連して想起されるのは『理趣経』であるが、密教タントラの偏見と曲解の坩堝に思える問題に性愛(妙適清浄の句)がある。それに依れば、性愛に限らず、あらゆる現象はわれわれ人間が恣意的に付与した価値とは何のかかわりもなく、それ自体は清浄なものとして存在している(「一切の法は自性清浄なり」)。

例えば、若さというものに価値をおくと、老いを恐れ、いつまでも若くあろうとするだろう。しかしそれは現象に囚われて自己の本性を(自性)を見てとれないことから生じてくる妄執なのだ。本来のあなた(仏)は若くもなければ、老いるということもない。肉体はやがて老いてゆくが、あなたの本性は始めから若いとか老いるという区別の彼方にあるのだ。従って、厭い捨てるべきものも、また殊更しがみつくべきものもない。この中間に道があることを仏教はウペクシャー(upeksa)と言うが、あなたが新たに得るものもなければ、失うものも本当は何もないということだ。

性愛についても同じで、娥眉に惑って、六道・四生の愛輪をめぐる幻化のわれわれが、妄りに耽溺するばかりでは、それは煩悩以外の何でもない。だからといって抑圧し、妄りに菩提を得ようとするのでもない。耽溺と抑圧はいずれも幻の男女に眩著する(*)われわれの間違った対応の仕方であり、真実(自性)は両極の彼方にある。

自性を悟れば性愛は菩提となり、自性に迷えば性愛は煩悩となる。そして自性を悟ることと如実に自心を知ることは空海においては同じことなのだ。

(*)空海『秘蔵宝鑰』(「第六他縁大乗心」)
《引用終わり》

これに関しては、司馬遼太郎の文章も秀逸です。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p282)》
仏はあなたの心を離れてあるのではない。心の本源(心源)が仏なのだ。それを空海は「自心の仏」、あるいは「一心の仏」と呼んだ。
《引用終わり》

そして、以下の言葉が引用されています。

《以下引用(xiv)》
(59)「自性もし悟らば、衆生は是れ仏なり。自性もし迷わば、仏は是れ衆生なり」(慧能『六祖壇経』)
(60)「衆生は迷えるが故に多の衆生を成し、諸仏は覚れるが故に合して一仏となる」(空海『念持真言理観啓白文』)
《引用終わり》

『念持真言理観啓白文』のこの一節は、以前も引用していました。

《以下引用(p282)》
宗教は絶対者を信仰するとか、人神を宣言する個人崇拝でもなければ、まして現世利益を追い求めることではない。あなたの心が本来仏であることを知ることなのだ。勿論、それが容易なことでないことは空海も認めている。「近くして見難きは我が心、細にして空に遍きは我が仏なり。我が心、思議し難し。我が心、広にしてまた大なり。」(空海『秘蔵宝鑰』第九極無自性心)たとえそうであっても、それはあなたの心であり、あなたの仏だ。すべてはあなたに委ねられている。従って、真の意味では、誰もあなたを幸福にすることはできないし、また不幸にすることもできない。これはよく理解されねばならない。
《引用終わり》

十住心の中の九番目「極無自性心」には、華厳宗が分類されています。空海は、華厳経を重視しました。

《以下引用(p283)》
このように即身成仏とは結局のところ空海のキーワードである如実知自心に尽きる。そして繰り返しになるが、われわれはこれから悟るのでも、成仏するのでもなく(「衆生にまた本覚法身あり、仏と平等なり」空海『声字実相義』)、すでにあなたはそれなのだ(tat tvam asi)。しかし、自心に迷うがゆえに菩提は煩悩となり、いつか(今生ではないかも知れない)自心を悟れば煩悩は菩提ともなる。「菩薩(即心の道を辿る凡夫を指す)いまだ成仏せざるときは菩提、煩悩となり、すでに成仏するとき煩悩、菩提となる」(空海『梵網経開題』)
《引用終わり》


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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p280)》
だからこの地上に肉体を得て存在していることには限りない意味があるのだ。というよりは、その意味を知るためにわれわれは生まれている。つまり内なる真理の身体(法身)を知るまで生々死々は続くということだ。それ故、どんな理由があれ、短絡的に命を終りにしてはならないし、だれをも傷つけてはならない。即身にのみ成仏の可能性が与えられているからだ。
「法身何くにか在る。遠からずして即ち身なり(即身)」とは、仏身はわれわれの身体を離れてはないが、さりとて同じだとも言えない、不一不異の関係にあることを意味している。「仏身すなわちこれ衆生身、衆生身すなわちこれ仏身なり。不同にして同なり、不異にして異なり」(空海『即身成仏義』)。
《引用終わり》

「死んで仏になる」と、日本人は当たり前のように言います。浄土教の影響でしょう。しかし…

「仏になる」とは「悟りを開く」という意味のはずです。だとしたら、生きている段階で悟っていない人が、ただ絶命しただけで仏になれるはずがない…こんな単純な、当たり前な論理にどうしてみんな気付かないのか、いつも不思議に思います。

空海が「即身成仏」を提唱した真意は、「生きたままでも成仏できますよ」という意味ではなくて、「死亡してからは成仏できませんよ」ということなんじゃないか?

そもそも、宗教は生きている人間の救済を目指すべきものであり、生きている人間を修行に誘うものであるべきです。「死ねば救われる」という宗教に何の意味があるのか、今の自分には全くわかりません。

《以下引用(p280)》
このように仏身と衆生身の不一不異を説く密教が肉体を貶めたりするはずがない。かといって、単に容認しているのでもない。肉体の内側に真理の身体があることを知らず、生々死々するばかりで、今もって肉体の養いがすべてになっているところに問題があるとしたまでだ。密教は人間の高貴な可能性とそれへの絶対の信頼を説いてきた。ところがわれわれ人間は同じ生死の円環を巡るばかりで、一度としてその可能性を顧みたことがない。その結果、本来仏(神)であるにもかかわらず衆生にあまんじ、終には生の不条理を嘆くとは何という体たらく。実は、あなたを貶め、欺いてきたのは他ならぬあなた自身なのだ。

心すなわち仏なり
心はなれて仏なし
           (『ヘーヴァジュラ・タントラ』)
《引用終わり》

司馬遼太郎は「日本思想史上、密教的なものをもっともきらい、純粋に非密教的な場をつくりあげた親鸞」と書いていましたが、密教と浄土教が正反対であることが今やっと分かりました。

この本で紹介されている神秘主義は一貫して「大死一番」の考え方であり、「捨此往彼」の浄土教は完全に矛盾しています。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

前回「仏と衆生は平等」ということでしたが、次のような言葉も紹介されています。

《以下引用(p279)》
「衆生の身中の本来自性の理は仏と等しくして差別なし」(空海『秘蔵記』)と空海は言うが、人間は自性に迷うがゆえに生死の苦海に身を淪める。それでも覚者の眼には仏と衆生は平等と映っているのだから、それほど大きな違いがあるとは思えない。毛一筋ほどの違いであろうが、そのギャップを埋めるために覚者は身を削る努力を重ねてきたのだ。しかし私の努力が成仏を可能にすると考えてはならない。むしろ成仏を妨げているのは他でもない私なのだ。そして、この私と仏は並び立つことはできない。
《引用終わり》

この「私」を空海は「五蘊の仮我」と呼びました。

《以下引用(p279)》
しかし、成仏という言葉は誤解を招く恐れがある。というのも、文字通りに理解すれば、何らかの方法によって、これから仏に成るというような印象を与えるからで、実際は、そうではない。人間は本来仏なのだ。ただ、仮我あるいは煩悩でもって覆うが故に、身中の仏を顕出することができないだけなのだ。

衆生本来仏なり   纏うに煩悩を以てす
それしも除かば   衆生すなわち是れ仏
(『ヘーヴァジュラ・タントラ』)
《引用終わり》

客塵煩悩」とか言いますね。

《以下引用(p280)》
即身成仏などと聞くと眉をひそめ、疑いのまなざしで見るけれども、生死即涅槃、煩悩即菩提という大乗仏教の基本理念を、方法論的、実践的に捉えなおしたものであり、われわれは成道への手掛かりとして身心があり、それに即して一歩を踏み出すしかないのだ。それを即身(即心というも同じ)に成仏するというが、われわれは如夢如幻の身体の内側に真理の身体としての仏身(法身)をすでに持っているということだ。「法身何(いず)くにか在る。遠からずして即ち身なり……法身と衆生の本性とは同じくこの本来寂静の理を得たり」(空海『性霊集』巻第八、『即身成仏義』)。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p277)》
ここで空海における解脱の問題を取り上げるのがいいだろう。「仏と衆生と同じ解脱の床に住す。此もなく彼もなく無二平等なり」(空海『吽字義』)と彼は言うが、仏と衆生が平等と知っているのは「慧眼」をもって観るものにそう映っているのであって、われわれがそうと知っているわけではない。それどころか解脱の床に臥しながら生死の夢を見ているのがわれわれ人間なのだ。

それはともかく、空海は『成唯識論』から「自心を観じて生死を解脱する」を引用している。古来、解脱の方法としていろいろ考えられてきたが、いずれも基本は自らの心を観察して、心源を覚る、いわば即心の道を辿るというものだ。この道から逸脱したとき宗教は最も危険な誇大妄想の狂気となる。
《引用終わり》

これが、幾度となく大きな悲劇を生んできました。

《以下引用(p278)》
即心の道が解脱へと繋がるプロセスを明らかにするためには、やはり『大乗起信論』の心(生滅心)と心性(心真如)の二つの概念を導入するのが分かりいいだろう。心(妄心)と心性(真心)の関係は波と大海に譬えられる。波は大海の上に様々な形をとって現われては消えるが、その源である大海は常に変わらず存在する。心とは心性を覆う波のようなものであり、一方、心性はどんなに心が騒ごうとも本来不生の心源である。「本不生はすなわち心の実際なり……本不生際といふは、心は虚空の如くにして不生不滅なり」(空海『秘蔵記』)。
《引用終わり》

これは、とても良い譬えだと思います。

《以下引用(p278)》
波のように生滅を繰り返す心ゆえに人間は生死に輪廻しているのだ。先に転生しているのは仮我であると言ったが、より厳密にいうと、仮我を構成している生滅心(妄心)であり、その意を汲んで輪廻の心とも言われる。「妄心流転するをすなわち衆生染汚の身となづけ、開発照悟するをすなわち諸仏の清浄法身と名づく」(空海『秘密三昧耶仏戒儀』)。しかし、始まりがあるものには終るということがある。この心(妄心)もそうなのだ。つまり心を観察して、去々として原初に入れば、心は自然に消える。心が消えれば仮我も消え、あなたは無我の大我(清浄法身)となって甦る。「心を安んじて内に住し流れを廻するを解脱と説く」(無著『大乗荘厳経論』述求品)。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p275)》
生まれてこの方、死がわれわれ人間の変わらぬパートナーであることを誰知らぬものはない。この果敢なき存在故に、人は幾度も悲しみの涙を流してきたのだ。これからもそうであるだろう。この点に関しては空海も同じだ。亡き弟子の智泉を偲び、「悲しい哉、悲しい哉。悲の中の悲なり。覚の朝には夢虎無く、悟の日には幻象無しと云ふと雖も、然れども猶夢夜の別、不覚の涙に忍びず」(空海『性霊集』巻第八)と一文を認めてもいる。

彼(彼女)は逝ってしまった。死者はもう何も応えてはくれない。遺体にとりすがり人は慟哭する。死はいずれの場合も、人間が経験する中で、最もリアリティをもって迫ってくる。とても「夢夜の別」などとは言えない。しかし、この違いが生と死に関する根本的な理解の相違から生じてくることにあなたは気づいているだろうか。
《引用終わり》

智泉は、空海の甥(空海の姉の子)で、十大弟子のひとり。十大弟子の中には、あの泰範もいるようです。

《以下引用(p276)》
それにしても、どうして空海は「夢夜の別」などと言うのだろう。これが彼の悟りの体験と切り離せないことは引用からも容易に理解できる。つまり、悟り(真智の覚)の体験を通して、これまで現実と思われていたものが非現実と化し、すべては如夢如幻と映る。死も例外ではない。そして、死が幻想ならば生も幻想なのだ。

私はこれまで悟り(覚醒の体験)を、われわれ人間にもっと近づけようとしてきた。そしてその体験は確かに人間が経験する最も貴重なものであるが、人間の浅薄な知識や驕りを根底から覆す文字通り希有な体験であることを確認しておかねばならない。何と言っても、生も死も幻想であるというのだから。…

「菩薩は一切の法に生を見ず死を見ず、彼此を見ず。尽虚空海ないし十方合して一相とす」(空海『一切経開題』)。

だからといって別離の悲しみがないというのではない。「悲が中の悲なり」と空海も言う。また、今まさに命果てようとする孤愁の人を看取りつつ、「いきしにのさかいはなれてすむみにもさらぬわかれのあるぞかなしき」と詠んだ女性もいた。生もなければ死もない、すべては本不生と知ってはいるが、やはりこの若い尼僧にとっても、今生の別離は忍びがたく哀しいのだ。しかし、死と対峙して死そのものの質がわれわれと全く違うのだ。
《引用終わり》

「若い尼僧」とは、良寛の愛弟子、貞心尼のようです。「いきしにの…」は、死を目前にした良寛に捧げたものとか。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p273)》
一心(心源)の上に様々な心が立ち現れてくると、その心にとってのみ意味を持つ世界がいくつも現れてくる(「心と縁と合すれば、すなわち三種の世間、三千の相、みな心より起こる」空海『十住心』「第八一道無為心」)。これをわれわれ人間は世界そのものを見ているのではなく、見るものの心によって世界は様々に見えてくると言えば、少しは分かりいいかも知れない。
《引用終わり》

幻影に翻弄される喩えとして、「月華の比喩」が引用されています。

《以下引用(p274)》
その比喩としてしばしば夢が引き合いに出される。確かに夢は心が投影したものであるが、さて、それを現実にまで敷衍して理解しようとしても容易に頷けないであろう。同じことは「識の所縁は唯だ識の所現なり」(解深密経)にも言える。これは瞑想の状態の中で現れてくる幻影について言われたものであるから同じ難点がある。ただ、夢がもつ普遍的な事実はどんな夢も覚めれば消えてないということである。
《引用終わり》

これは唯識と関係がありそうなので、リンクを張っておきます。

《以下引用(p274)》
この事実をふまえ、何故、夢が比喩として用いられてきたかをもう少し考えてみよう。それには『十住心論』から「無明の法性に法(のっと)りて一切の法を生ずというべし。眠法の心に法りてすなわち一切の夢事あるが如し」を取り上げるのがいいだろう。眠りにつくと、脈絡のない夢が妄りに現れるように、眠りこけた不覚の心(無明の心)からあらゆる幻想(一切の法)がまるで鏡に映し出されるように次々と現れてくる。それを実在するものと考えている限り、真実は決して見えてこない。むしろ幻想はいつか消えなければならないのだが、それは心の鏡が消え、もう心ではなくなる、心の本源に辿り着いたときなのだ。「一切の万法はみな心より生ず、心もし生ぜずんばなんぞ万法あらん」(空海『一切経開題』)。不覚の心から夢の如き事象が連綿と現れてくるが、その心が消えるとあなたは目覚め、これまで現実と思われたものが非現実となって、今や全く新しい現実を目の当りにしている。月影ではなく月そのものを見ているのだ。

夢から覚めれば夢が消えるように、いわゆる現実(大夢)から目覚めるとき(大覚)、現実は消え、たちどころに真実は瞭々と顕れるというのが宗教的覚醒(悟り)の体験なのだ。しかも、それは人間が本来有している美(徳)が顕れたに過ぎない。「法爾の荘厳、豁然として円かに現はれ、本有の万徳、森羅として頓に証せん」(空海『性霊集』巻第七)。

「目覚の状態は夢の延長である」シャンカラが言ったように、目覚めの状態から更に目覚めることができたならば、共同幻想は続いていくだろうが、あなたにおいてその夢は消える。「有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す」(『十牛図』)。以上のような理由から「この世は夢の如し」と言われてきたのだ。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p272)》
われわれは歴史上、覚者はひとりであり、後世の人間が悟ることなどあり得ないと言ってきた。本当にそうであろうか。彼以外にも覚者は存在したのではないか。しかし、彼らの多くが、かつて悟りの内実と善良な人々が求める幸福の間にある余りにも大きな隔たり故に、一瞬、沈黙に入ろうとしたように、実際黙してしまったというのが本当のところではなかろうか。…
《引用終わり》

中村元氏の「龍樹」の一節を読んで、目からウロコというか、スッキリしたというか、批判・怒号・嘲笑を承知で言えば、悟りとはどんなものかが分かった気がしました。複雑怪奇な内容ではないので、覚者はひとりしか登場しえないというのは何とも不可解でした。ですから、可藤さんのこの指摘も、私としてはなるほどです。

そうであれば、覚者とは常識人からは嘲られるような人物になってしまい、「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る」ということになるわけです。いたとしても落語には登場するかもしれませんが、歴史に名を残すようなことは無いでしょう。

「善良な人々」が求める幸福とは世俗の世界のことであり、家族の幸せを祈るとか、夢が叶うことを祈るとか言えばきれいに聞こえるけれども、広い視点から考えた時、それは決して特別なことでも何でもない。覚者とは、そういった祈りとは全く無関係の存在であり、覚者やその像に手を合わせて祈るなどこれほど滑稽な光景はない。

この光景に絶句できるかどうかで、悟りの何たるかに気づいているかどうかが分かると言えます。

ただ、頭で分かるということと、実際にそう信じ込むということの間には険しい道のりがあると思います。

そこは弁えないと、世の中、教祖様だらけになってしまいます(笑)。

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