トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

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量子というミクロの世界から宇宙というマクロの世界まで取り上げ、ついに意識の問題に至りました。何事よりも、これが最も根本的なテーマかもしれません。宇宙とか原子とか考えるのも、物とか心とか区別するのも、意識ですから。意識というスクリーンに投影されたものだけを私たちは認識しています。

第三者的な方法を取る科学は、皆の意識の最大公約数しか扱えないものと言えます。最も身近で、最も根本的な部分には、科学は全くお手上げなんですね、少なくとも今のところは。

私も十年ほど前にこのことに気づいて、買った本が「ペンローズの量子脳理論」です。久しぶりに書庫から引っ張り出してみたら、訳&解説が茂木健一郎さんでした。相対論,量子論,ゲーデルの不完全性定理など私の好きな言葉が目白押しで、再び読んでみたくなりました。

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「近代生物学は競争だけを根本的な活動原理として認め、生きものの根本的な習性として攻撃性だけしか認めようとしない」というダライ・ラマの指摘は理解に苦しみます。ダーウィンはそうだったかもしれないけれど、今は違うと思います。近代と現代の違いなのでしょうか?

ダーウィニズムは、「競争」という要素を取り除くととても面白い考え方になると思っています。経験論的というか、結果重視というか…。現存する種が(現存しているという事実・結果を尊重して)適者だったのだと言い切ってしまうのは、私にはとても画期的に感じるのです。

例えば、「殺人はなぜ悪いか?」という問いに対する答えを私は知りません。「当り前じゃないか!」としか答えられない。「法律で禁じられているから」も根本的な答えにはなっていない。「神や仏が禁じているから」くらいが関の山です。

未だに私はダーウィン的手法でしか答えを見つけられません。つまり「殺人を禁じた文化だけが生き残ったのだ」ということです。

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生物と無生物の違いは何か?エントロピーがひとつのポイントだと思います。無生物はエントロピーが増える傾向があります。簡単に言うと、ほおっておけば部屋はどんどん乱雑になっていくということ。しかし、生物は逆の方向性を持っています。日々の代謝活動でも見られますが、私は進化の流れの中にも見られると思います。

単細胞生物から、個々の細胞がきちんと組織立って機能する多細胞生物に進化している。多細胞生物も更に進化を遂げて知能を身に付けると、社会を構築して大きな組織を作ろうとする。

無生物が生み出したエントロピーを、生物が消し去る役目を負っているようにも見えます。まるで、酸素を生み出す生き物と酸素を消費する生き物とがバランスを取らなければいけないように。

利他主義は、より大きな社会を構築する上で必要なものです。エントロピーを消し去るのに効果的なもの。生物進化の延長線上に位置づけられないものかとも思います。

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ともかく、この章の内容に関してはダライ・ラマと私の意見は正反対のようです。

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古代ギリシャのソフィストたちや中国の諸子百家など、いろいろな知恵が湧き出た時代・場所というのがあるものです。古代インドもそういう時代に恵まれていたようです。

ダルマキールティの指摘は非常に的を射たものです。宇宙の起源という最初のポイントを設けるということは因果関係に縛られないポイントを作ることになる。宇宙はビッグバンで始まるということになっているのですが、ビッグバンが起きる前は何だったの?という疑問がすぐに湧いてきてキリがありません。

因果律というと、カオス理論のバタフライ効果なんかも気になります。ダライ・ラマはどうとらえているのでしょうか。

華厳経の中に、宇宙をお互いに(無数の)網で結びつきあった(無数の)宝石に喩えている一節があるそうです。現代的な比喩としてデヴィッド・ボームはホログラムに喩えています。数式としては畳み込み積分を用いているので、物理学者のみならずエレクトロニクス関係の技術者にも、彼の説明は受け入れやすいものだと思います。

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恥ずかしながら十無記という言葉を初めて知りました。お釈迦様が答えなかった問題(わからなかったのか、敢えて答えなかったのか)です。ウェブ上から拾ってきました。

(1)世有常(この世は永遠か)
(2)世無有常(この世は永遠でないか)
(3)世有底(この世は有限か)
(4)世無底(この世は無限か)
(5)命即是身(魂と身体は同じか)
(6)命異身異(魂と身体は別物か)
(7)如来終(如来は死後存在しないか)
(8)如来不終(如来は死後存在するか)
(9)如来終不終(如来は死後存在し、かつ存在しないのか)
(10)如来亦非終非不終(如来は死後存在せず、かつしないでもないか)

という内容らしいです。

私が宗教に求めるものは、人々が平和の中でストレスなく生きていく考え方を示すこと、です。宇宙の起源などという問題は、わからなければ「わからない」でいいと思います。「この教えを信じれば何もわからないことはありません!」というような人が、私がこれまで会った新興宗教に夢中になっている人に多いのですが、こういう宗教は無条件で×ですね。

宗教に求められるのは、答えの得られない問題に当てずっぽうの答えを用意して無理に信じさせることではなくて、答えが得られなくてもストレスにならない心(考え方)を養うことだと思います。

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相対論が時空間に対する我々の常識を覆し、量子力学が存在の独立性や因果関係に対する我々の常識を覆しました。その内容は仏教の「空」に確かに酷似しています。仏教の方では2世紀ごろにインドの哲学者龍樹によって体系化されたとのこと。その著作もいずれ読まなければいけないでしょう。

EPRパラドックスのような思考実験をしてしまうと、どんな存在も全てのものと関係があり「全く単独に存在するような固有の本性を持った現象はあり得ない」ということが当たり前に思えてきます。この現象を利用したものが量子暗号だと思います。実験室レベルではかなりのところまで行っているはずなので、仏教の「縁起」の考え方が実証されつつあると言ってもいいのかもしれません。

進化論→社会進化論→帝国主義という流れを考えると、科学の哲学や社会思想に対する影響力は大きいものです。量子力学が「空」と結びついて、新たな仏教的思想が起こっておかしくないと思うのですが。

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「仏陀が自分の言葉を鵜呑みにする弟子を戒めた。つまり、仏陀の教えさえも道理に基づいて考察し、各自実践し、検証すべきだ!と仏陀自身が説いた。」という逸話は知らなかったので、なるほどと思いました。仏教にふところの広さを感じるのですが、仏陀のそういう精神が反映しているのでしょう。そしてそれはダライ・ラマが指摘しているように科学にも共通しています。

デヴィッド・ボームの「全体性と内蔵秩序」は十数年前に買って一度読みました。難解で、わかったようなわからないような印象でした。ただ、量子力学と仏教の共通点に驚いたことは覚えています。でも、ダライ・ラマと交友関係があったということですから、その影響が大きかったということなのかもしれませんね…。

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科学に興味を持ち始めたダライ・ラマに、あるアメリカ人女性がした忠告は私も面白いと思いました。「科学が宗教を殺す」ということ。神は死んだそうですが、殺したのは科学なのかな…と私も思っています。

ただ、だからと言って科学に近づくのを恐れてはいけないと思います。科学をこれ以上野放し状態にしておくことは全人類にとっても危機です。「科学は人類をも殺す」だろうから。ダライ・ラマの勇気をたたえたいです。

私見ですが、科学とは客観性(あるいは再現性)のある事象から帰納的に真理を探究していくもの。宗教とは、人を幸せにする真理を示すもの(あるいは探究すべきもの)。そして真理とは絶対普遍のものなどあり得なくて、時代とともにあるいは人とともに相対的にあるものです。昔と現代で違うし、科学者と宗教者でも違う。だからこそ、歴史を振り返り、いろいろな分野の人と影響を及ぼしあいながら、永遠に追及し続けなければいけない。

さてさて、先が楽しみです。

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ダライ・ラマ科学への旅―原子の中の宇宙

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