トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Category: ★重い話題

皆様はどのくらいの頻度でクレームしてるものか分かりませんが、私は黙ってることができない方なので多いんじゃないかと思います。

今年の初めころから、うちの近くで住宅の新築工事が始まりました。一月の中頃、基礎工事をしているときに、工事業者がダンプを道路のど真ん中に止めて作業してました。まだ余り降雪もなく、幅寄せすれば他の車は通行できるにも関わらず、です。時間は朝の8時からですから、通勤通学で、1分を争うような車が多く通ると思われる時間帯。通りかかった車がクラクションを鳴らしても無視して作業を続行。たまらず、「車が通れないんですけど」と言いに行った人がいたのですが、そうしたら工事している敷地内にあっさり移動しました。止めるところがなくて路駐してたのではなかったのです。この時から、カチンときてました。

二月二日に大雪が降りました。連日、除雪に追われ疲労困憊の状態でしたが、五日(日曜日)は天気が良かったので死ぬ思いでご近所の皆さんが除雪を行い、道路を広くしたりもしたのでした。

ところが、翌6日の朝、何の前触れもなく、工事現場に人が集まっていて、皆で除雪して確保したスペースにちゃっかり乗ってきた車を無断で縦列駐車していたのでした。そして、一日、通行止め。断続的だったかもしれないけど、空の大型トラックが道路の真ん中に少なくとも午前中は止まっていました。

その日の夜に、これに関する苦情を、この工事を担当している大手住宅メーカーに対して、メールしました。●車を路上駐車するのなら、幅寄せをして欲しい●他人が除雪したところに駐車するなら声がけくらいすべきではないか●通行止めをするなら事前に周囲の住民にチラシなりで連絡してくれてもいいじゃないか…というようなこと。

2時間後くらいに現場の責任者から電話が来ました。「どうもすみませんでした」を連発したので謝っているのだと思い、上記の件をお願いできないかと話してみたのですが、道路の通行止めはほんの少しの間だったから大したこと無かったでしょう?みたいなことを言うのです。で、私が午前中2回通ったけど2回とも迂回させられたとか、近所の人がずっと通れなかったと言ってたとか申し上げましたら、「私は建設工事が間違いなく行われているかを管理する立場の人間だから道路のことはよくわかりません」とおっしゃいました。「現場の責任者というのは道路の方も責任があるんでしょう?道路の方は管理できないのなら道路の方の責任者が別に必要だということではないですか?」と申し上げたら、「そうですね…」と気のない返事。

そして、「私共のような仕事というのは誰にも迷惑をかけずに進めることはできませんので…」とおっしゃったのです。「だから、しょうがないでしょうということなのですか?」と尋ねましたら、「そんなことは言ってません!」とおっしゃる。「では、どういうことなのですか?」というと「私共のような仕事というのは…」とまた同じことを繰り返し同じ所で言葉を止めました。「だから、しょうがないというんでしょう?」と言いましたら、「こんな言葉尻つかまえられても水かけ論ですよ!」とおっしゃる。

この人には何もお願いできそうにないと思ったので、「とにかく私が迷惑したということを現場の責任者のあなたにお伝えできたので、もうこれでいいです。終わりにしましょう。」と言いましたら、「私共は営業の会社ですから、このような件を電話で済ませるようなわけにはいきません。直接お会いしたいので住所を教えてください。」とおっしゃる。会っても、あなたが水かけ論と呼ぶようなやりとりを面と向かってやるだけのことでしょうから御勘弁下さい、と言って電話をきりました。

でも、翌日、さがえ屋の菓子折を持って、我が家にいらっしゃいました。私が家にいる時で良かったです。また、「どうもすみませんでした」を連発して、菓子折を差し出します。私は誇り高きクレーマーであってユスリ・タカリではない(一般的にはユスリ・タカリ目的に苦情を言う人をクレーマーと言うみたいですね)ので、「こんなものはいただけません」と言いました。それよりも、周辺の住民に迷惑をかけない努力をお願いできないものかと私が話し始めますと、その現場責任者様の携帯電話が鳴りました。私が話し中だったにも関わらず、この方は何のためらいもなく電話に出ると、話ながらさっさと我が家から立ち去ってしまいました。私は追いかけて菓子折をその人の手に握らせ「電話が来たから『はい、さよなら』というのは失礼じゃないですか!」と叫んだのですが、電話を続けていらしたので、そのまま帰ってきました。

謝りに来て、この態度というのは考えられません。この人はただ菓子折を置きに来ただけなのですね。口では謝っていたけれど、済まないという気持ちは全くないのだなということが分かりました。

余りに頭にきたので、この様子をメールに書きまして、支店長宛に送りました。「御社の責任者様のビジネスマナーはとても私には真似できない」というようなことを書き添えて。数日後、支店長様より、丁重な、「どこに出しても大丈夫な」というよりは「どんな案件にでも流用できそうな」謝罪文がメールで送られてきました。一応、ここで諦めようと思います。続きがあれば、またご報告します。

「誰にも迷惑をかけずに進めることはできません」というのは何事もそうなのでありまして、「なるべく迷惑をかけないようにする努力をしているかどうか」が大事なのです。傍目から見て、そういう簡単な努力すら怠っているように見えるから苦情を言っているのであります。その努力をしたくてもできない事情が何かあるのなら教えて欲しくて、対話しようとしているのであります。

それなのに、何も言わせまいとしているかのように「どうもすみません」を連発する。すまないと思っていないのなら、言って欲しくないのです。

でも、そうやって封じ込めて、それでも黙らなければ赤子をあやすようにお菓子を預けるという方法。結局、これが他人の迷惑を顧みずに自分たちのやり方を押し通す、もっとも効率的なやり方なのかな…と思いました。

東電さんも、「すみません」と言いながら、値上げは自分たちの権利と主張しています。政界、官界でも広く行われている、慣習なのですね。やっと、分かりました。

今回のことに関して言えば、道路の方の責任者を内覧会とか担当している営業の人にやらせて、前日くらいまでに周辺にチラシを配って「通行止めの御協力」をお願いする。これは同時に「二階建ての家を一日で組み上げる工事をしますよ〜」という告知にもなり、「見物したい方はご自由にどうぞ!」とすれば立派な宣伝になるような気がするのです。

一日で家が建つというのは今では珍しくも何ともない技術ではありますが、見てみたいという気持ちは私の中にはあります。一日しかかからないから、見物できる機会も少ないはずです。出来上がった家の中を見るのも面白いことですが、組み上がっていく過程を見るのも楽しいと思うんですけどね…。

こんなふうにきちんと通行止めを教えてくれる工事業者と言うのは少ないと思うのです。だから、教えてくれたというだけで私なんかは好感度アップするはずです。ただ、内覧会で名前書かせるより、ずっと効果があるような気がするんですけどね…。

こういった前向きな提案を準備している時だけクレームをするように心がけております、誇り高きクレーマーなので。

うちの次女は御褒美を目の前に下げられると途端に頑張ります。ホウレン草を食べたポパイみたいに(分かりにくいか?)豹変します。歯医者に行っても痛くない!公文の宿題もいっぱいやる!お手伝いは何でもやる!

飴つぶ一個でそんなに頑張れるのか?と感心することも。でも、一般に、子どもにはそういう傾向があるようです。

犬の学校でも、指示通りの行動ができると、御褒美としてほんのちょっとだけおいしい餌を与えるのだそうで、やはり子どもは人間と動物の中間みたいなもんだな…と納得したりもします。そして、動物から人間に近づけていくのが教育だとしたら、勉強させるのに物で釣るのはどうなんだ?という疑問が湧いてきます。

物が全てではない、金が全てではない、お金では買えないものがこの世では一番大切なんだ!子どもには小さいうちからそういうことに気づかせておかなければならない…。

以前、東大の大学院に息子を入れたというお父さんにお話を伺いました。勉強をさせるために、ファミコンのソフトを御褒美にして、頑張らせていたとのこと。物で釣るのも方法としてはアリなのかな、とずっと悩んできました。

動物的な御褒美ではなくて、子ども的な御褒美じゃなくて、何かもっと大人な御褒美って無いんだろうか!?

と心の中で叫んだ瞬間、じゃあ、大人は本当に目に見えない本当に大切なもののために働いているのか?という疑問が湧いてきました。

「国」という大切なもののために働いている政治家が何人いるのか?職を失いたくないために大切な情報を流さない学者が多いようだという現実も、この3月以降見えてきました。目に見える大切な物のために働いている人が、結局は全てを得てしまう現実があります。

地獄の沙汰も金しだい。金で買えない大切なものは確かにあるけど、大抵の物は金で買えるんじゃない?という現実。そして、「大人になる」とは「現実を見据えること」

ということで、おとなだって似たようなもんじゃないか?いや、もっとえげつないんじゃないか?という残念な結論に達しました。まあ、今も考え中です。

9月25日、ヨコミネ式の横峯吉文さんの講演を聞いてきました。「エチカの鏡」を見て衝撃を受けてから、早2年。改めてスゴイ!と思いました。私のメモを基に、まとめておきます。個人メモということで、若干不正確かもしれません。

動物は生まれた瞬間から、その動物としての活動をほぼ開始するが、人間はそうはいかない。人間は10歳までの間に、持っている遺伝子の中に埋もれている「自立するスイッチ」を入れてあげなければいけない。

運動神経は6歳でほぼ完成する。この後は絶対だめというわけではないが、能力の伸びは鈍化する。この段階まで運動能力を高めてあげれば、ちょっと要領を聞いただけですぐにいろんなスポーツがこなせる人になる。

絶対音感は5歳(とおっしゃった気がする)まで。これを身に付けておけば、生涯思い立ったときにいつでも作曲ぐらいはできるようになる。

学ぶ力として、理解力・思考力は国語(読み書き)で養われる。洞察力は算数(計算)。2歳までで絵本くらいは読めるようになるから読み聞かせは2歳までとし、3歳からは「この本、お母さんに読んで聞かせて!」と言って、子供に読ませる。

小学校入学の時期は生まれた瞬間に決まっている。その日に向かって、一日でも早く準備しておいた方が良い。小学生が本を読んで見せてもみんな当たり前だと思う。でも、幼児が本を読んで見せたら、誰でも「スゴイ!」とほめる。一日早く読み書きができるようになるということは、ほめられる機会が一日増えるということである。「読み書きは小学校に上がってからでいい」という育て方をしたら、その子は読み書きでほめられる機会を失うことになる。これは、算数・体育・音楽など全ての教科で言えることである。

昔の高度成長期と違い、これからの日本は何か必ず仕事があるという状況にはならないだろう。単純な労働は外国人労働者に奪われる可能性もある。そんな日本で仕事を持ち続けるためにはITに強くなければならない。計算力は絶対に必要である。

子どもは、命が危険になるようなことはしないようになっている。だから簡単なことからやらせる。慣れてくると飽きる。飽きたら、少しだけ難しいことをやらせる。やっているうちに慣れてくる。慣れてくると…の繰り返しで、子どもは全ての能力、何でもどんどんとステップアップしていく(これは公文用語で言うと「ちょうどの学習」ですね)。その結果、全園児が逆立ちや跳び箱ができたりする。

子育てで大切なことは、いい加減にすること、手を抜くこと。子どもに手をかけたら、自立できないまま大人になってしまう。なるべく用事を言いつけて、「ありがとう」と言ってあげると、みんなのために何でもやろうという人間に育つ。だから、保母さんも座ったまま用事を言いつけているとのこと。

保育園としては、将来に責任を持つということで、小学校に見に行くそうです。学校からうるさがられるくらい頻繁に。卒園児が元気でやっているか、どんなふうに育っているか。

オフィシャルサイトはこちらなので、正確な内容はこちらをご覧ください。

確かに、幼稚園児が絶対音感を持ったり、逆立ちで走り回ったりできなくても別にいいわけです。でも、ヨコミネ式をやると、みんな当たり前のようにそれができるとしたら…お子さんにそれをさせてあげるだけの余裕があるとしたら…させてあげたいと思いませんか?

これは、わたしたちが公文式をやっている理由と全く同じなのですけど。

私の両親は共働きでしたので、保育園に入るまでの間、私を見て下さった方がいます。自分にも子どもができて、その方に対する感謝は深まりました。最近は御自分の友人を私の顧客として紹介して下さったりという御恩もあります。育ての親だと思っています。この方をOさんとしておきます。

Oさんは数年前から認知症がひどくなりました。老人ホームでベッドから落ちて、お年寄りによくある大腿骨頚部骨折で入院した時お見舞いに行きましたが、私のことはもう分からなくなっていました。嬉しそうに話しかけては下さるのですが、誰かと間違っているようでした。

昨年末に嚥下困難となり肺炎を何度も繰り返すことから、最近でもいろいろ議論されている胃瘻の処置が取られました。それでも私は、骨折で入院した時以来、Oさんには会いに行かずにいます。

さて話は変わりますが、Oさんに紹介していただいたSさんは十年来のお客様です。開業当初から、施術に関して、お客様の立場でアドヴァイスをいただきました。親身になっていろいろなことをお話し下さり、師匠のようでもあり母のようでもある、そんな大切な方です。

この方は先日亡くなられたのですが、一年前に、今となっては最後にお会いした時、「あなたにはもう会いたくないな」と言われたのです。私は大変驚きました。彼女は続けました。「私だって女だよ。こんな醜い姿を、もう人に晒したくはないよ。」とおっしゃったのです。

確かに寂しい言葉ではあったのですが、患者と治療師という事務的な関係では無くなったような気がして、嬉しいような複雑な気持ちでした。

また、Oさんに戻ります。Oさんが私のことが分からなくなってから、どうしても会いに行くのを躊躇っています。もう、Oさんの本質のようなものはそこには無くなっているような気がして、その本質はもう高い所にあって私たちを見ているような気がする…そんな気持ちです。

最近のOさんも元気だということですが、矍鑠(かくしゃく)とした昔の雰囲気は無くなっているはずです。胃瘻の処置を受けて、何も分からずに生きている姿を見るのは、私にはどうしても辛いのです。Sさんのこともあって、Oさんが今の自分の姿を見られたいだろうか…とも思うのです。

世話をする人がいない状況であればともかく、実の娘や孫たちも面会に行っているようです。特に、娘さんは毎日。車ですれ違うこともよくあるのですが、やはり私は躊躇い続けています。不義理と謗られるかもしれないという危惧もあるのですが、だから会いに行くのも本当では無いような気がします。

そんな、言い訳を、ここに書いてみました…。

私が住んでおりますところ周辺のゴミ焼却施設の灰から放射性セシウムが検出されたとのこと。国の基準は1キログラム当たり8000ベクレルであるのに対し、7800ベクレルも検出されているにもかかわらず、ことさら基準を下回っていることを強調する滑稽さにも慣れてきたところですが、先日、児玉龍彦先生が「総量」で議論しなければ意味が無いとおっしゃったことを改めて思い出しました。

屋外に放置されていた剪定枝に放射性セシウムが付着したとして、「剪定枝」のキログラム当たりのセシウムの量は問題が無かったのでしょう。でも、これを燃やしてしまうと問題になる。含まれるセシウムの量は焼却の前後で余り変わっていないはず。飛灰となって煙突から出て行った分を考えれば、「総量」としてはむしろ減っているはずなのです。ですが、燃焼という形でセシウム以外の成分が目減りしてしまうと、簡単にほぼ基準値くらいのヤバい代物になってしまう。

燃焼が放射性物質を濃縮したことになります。同じく、下水処理施設の汚泥からもセシウムが検出されたということで、基準値を下回るとは言っていましたが、これは汚泥をどれほど濃縮するかで決まることですから、基準値にこだわることが如何に無意味であるかがわかります。

この機械的な濃縮でさえ、こんなに簡単にセシウムが集まるのですから、生体内ではどうなのでしょう。生命活動とは体内に取り込んだ物質を分解し、成分ごとに選択的に処理していくことです。ヨウ素に対する甲状腺のように、セシウムを選択的に取り込む臓器はないのか、あるいは私たちの生態系の循環の中で、セシウムに限らず、放射性物質を選択的に取り込む生物はないのか、その生物は食物連鎖の中で最終的に私たちの体の中におさまる可能性はないのか…

と考えていきますと、濃縮するプロセスは私たちの身の回りに(焼却施設や下水処理施設を含めて)散在しているわけで、キログラム当たりの基準値をかざすことが如何に愚かであるかは、ちょっと考えればわかることなのです。

例えば、アルコールの摂取制限を度数で行うのに似ています。ウイスキーは一滴たりとも飲んでは駄目だが、ビールなら無制限に飲んでもいいというようなもの。全く意味がありません。

政府やマスコミの中にこれに気づく人がいないのか、特に児玉先生の説明を聞いて「あ、そうか」と気づく人がいないのか、不思議でなりません。

今回のように焼却施設で放射性セシウムが見つかったとして、濃度が基準値を超えていないからというので普通に廃棄されたら、いずれは漏出し、生態系の中に取り込まれて循環することでしょう。キログラム当たり7800ベクレルの灰が何トン発生したから、総量としては何ベクレルのセシウムが回収できたという考え方をして、その都度このセシウムを絶対に漏出しない方法で保管すべきではないのでしょうか?

福島の原発から放出された放射性物質が天文学的規模のベクレル数であれ、地道にコツコツ回収して行くのが責任というものではないかと思うのです。捕らえては放し捕らえては放しを繰り返したところで埒はあきません。

昨日、セシウムを含む牛肉を他の牛肉に混ぜて出荷した業者が摘発されたというニュースを聞いたような気がします。確かにこれは道義上許されることではないのですが、濃度だけで管理している愚かしい現状に対する皮肉と捉えれば、なかなかのものです。少なくとも、「国の基準値を下回っているから安全」と発表している御役所の方やマスコミの方に比べたら、この業者のほうがずっと科学的なセンスは有ると思います。

ウイスキーは度数が高いから駄目だというのなら、ビールと同じくらいの水割りにすればOKなはずです。これが科学というものです。

同様に、キロ当たり500ベクレルを下回る牛肉が「安全」だと言うのであれば、1000ベクレル含む牛肉なら0ベクレルの牛肉を同量以上混ぜれば「安全」になるはずです。これが科学というものです。牛が出荷できなくて自殺する人までいるのですから、この方法で希釈して、全部の牛肉を出荷しないのはなぜなのでしょうか?それはキロ当たり500ベクレルを下回る牛肉が「安全」だと言えないことを知っているからにほかなりません。

無意味な基準値を基準にして現状を看過しているのは、放射性物質が世界中に拡散して希釈されるのを待っているのでしょうか?だとしたら、上記の業者と同類であり、規模の上ではそれよりもずっとずっと大きな犯罪だと思うのですが、どうなんでしょうか?

私の考え、間違ってますでしょうか?

NHKの世界のドキュメンタリー「終わらない悪夢」を見まして、ショックとか怒りとかも失せて、大きな落胆とともに、何となく腑に落ちた気分になりました。

日本の原子力がダメだというのは3.11以降痛いほどよく分かったのですが、2009年に制作されたフランスのドキュメンタリーを見て、アメリカもフランスもロシアもドイツ(はマシな方)もコイツも、かなりヒドイということが分かりました。

相対論(E=mc2)に基づき核開発競争は始まりましたから、アメリカにもロシアにも放射能に汚染されて50年以上も経っている地域があるのです。しっかり蓄積されているから、放射性物質の放出がほんの一瞬しか無かったHiroshimaやNagasakiとは比較にならないほど酷い状況。

チェリヤビンスクのマヤーク核施設付近では、家族をガンで亡くしながらも、他に行くところもなく、内部被曝と外部被曝に満ちた生活をしている人がいまだにいる。測定値は50年経った今でも明らかに高い数値なので、当局は正確な値を公表しない。そんな、明日のFukushimaみたいな地域が世界にはたくさんあるようなのです。

核燃料はリサイクルが可能と言われますが、それはほんの一部で、約9割は劣化ウランとなり、今でもただ棄てるしか方法は無いようです。以前はドラム缶に詰めて船から海洋投棄されましたが、これは現在禁止されているとのこと。でも、このドラム缶は海底で腐食し、放射性廃棄物は海にほとんど流失しているようです。

海洋投棄は禁止されていても陸上から海に投棄するのはこの限りではないため、フランスのアレバ社の核再処理施設からは、放射性物質が海や空に毎日放出され続けています。番組の取材に対し、アレバ社の広報の人は「(排気や排水に)放射性物質が存在はしているが、これを汚染と呼ぶかどうかは分からない」という明らかにクロの言い訳をしました。

ですから、Fukushimaでも、大量の汚染水を海にあっさり捨てましたが、業界の方々からしてみたら別にどってことなかったわけです。

処理方法の見つからない核廃棄物は世界中のいろんなところに、いろんな方法で貯蔵(もてあま)されており、ここからも今現在漏出していない保証はないのです。アレバ社が生み出す劣化ウランはロシアに引き取ってもらっていて、それはシベリアに運ばれ、そのコンテナが山積みされている様子は衛星写真から確認できます。ここから漏れている可能性はかなり高いようなのですが、この影響が顕在化したとしてもFukushimaのせいになることでしょう。

結局、Fukushimaの今日は、業界の方々からしてみればバッチリ想定内であり、Tsunamiはむしろもっけの幸いだったかもしれません。ヨーロッパの放射能汚染はチェルノブイリ、アジアの放射能汚染はFukushimaのせいにすればいいことになったのですから。

数十年前は有毒な化学物質が工場からどんどんと排出されましたが、放射性物質は今もなお盛んだというわけです。化学物質は最近やっと、慎まれるようになってきました。でも、放射性物質に関してはその気配すら未だ無いようです。

考えてみれば、私たちは、二酸化炭素が問題だと言いながらその増加を止めることすら未だに成功してはいません。今まで同様、自動車にも乗り続けています。その解決策としてクリーンな電気自動車が有望視されていましたが、これは原子力発電が前提です。ですから、風力発電のような本当にクリーンな発電方法に全面的に移行しない限り、電気自動車は劣化ウランを撒き散らして走っているのと同じなのです。これでは、ガソリン車の方がずっとずっとクリーンです。

人類とは、何と愚かな存在なのでしょうか。地球に生存するに値しない生き物なのかもしれません。何も知らずに生れて来た子どもたちが不憫でなりません。

勉強は何のためにするのか?という疑問。その回答が、ドガ〜ンと津波とともに押し寄せたような気がします。例えば「原発に勤めるわけじゃないんだから、放射能のことを学校で習って何の意味があるの?」というような疑問に対して…。

お陰さまで私の場合は、今日のような状況を可能性のひとつとして予想できていましたから、現実になったと分かってもそれほどのショックはありませんでした。自分が高校や大学で学んだ知識は正しかったのだなと思いました。

残念なのは、こうしたワーストケースを含めた可能性の説明を、なぜ3月のうちに政府やマスコミはしなかったのかということ。こういった場合に、専門的な情報をも国民が正しく理解できるための教育なのですから、情報はかいじされるべきだったのではないでしょうか。もちろん混乱はあるでしょうが、その上で「国民団結して頑張っていきましょう!」という呼びかけなら意味があります。全く教養の無いバカ扱いをした上で、「日本の力を信じてる!」も何も有ったものではない。

ある物質が生体に及ぼす影響がアプリオリに分かるということは有り得ません。放射能の場合でしたら、チェルノブイリ周辺の調査とか、動物実験とかに頼るしかないのではないかと思います。結局「何シーベルトでガンの発生率が何倍になるか」というような形に集約されるでしょう。「安全だ」「安全でない」の判断は、ガンの発生率が何倍までをOKとするかということで、それは主観的な問題です。

政府は、誰が行ったどんな調査を判断材料として採用し、基準として「何倍までをOK」としたかを公表すべきだったと思います(公表されてたらゴメンナサイ)。それが高卒以上の学歴を持つ人に対する失礼のない対応ではないでしょうか?それを一切語らず、「安全」という主観的な意見(基準を明確にしなければ科学的客観的な判断とは言えません)を国民に押し付けました。子ども扱い、あるいはバカ扱いと言えます。大変な侮辱です。

例えばガン病棟に入院することになってしまったドクターに対して、検査結果の数値を一切語らず、「大丈夫だ」と言っているようなもの。「もう、自分はダメなんだ」と思うに違いありません。

この情報開示によって、ガンの発生率が何倍までをOKとするかの最終的な判断は国民一人一人に委ねられ、それぞれが対策を講じることもできたわけですが…。

ともかく、こういう時のために、勉強は必要なのですね。痛感しました。

《最初から読む》

「もう手遅れのガンだから、本当のことは本人には告知しないことにしましょう」今の日本はそういう段階ではないのだろうか。

私はいろいろなニュースをくまなくチェックする暇がないので、無知からくる誤解であれば是非ご指摘いただきたい。そう前置きして、放射能汚染について最近思っていることを書きます。

まず、神奈川だったか静岡だったか、基準値を超えるほど汚染された御茶が出荷されていたはず。福島から随分遠い。原発から真っ直ぐセシウムが上昇し、そのお茶畑にだけピンポイントで降り注いだという可能性も全く無いとは言えませんが、常識的には有り得ないです。とすれば、そのくらいの範囲には放射性物質は拡散していると考えていい。

ガイガーカウンターでこの範囲にいる人たちが測定していなかったのか?いたと思われるのですが、測定値はどうだったのか?私は、ここで大きな数値が出ていたのに隠蔽されたのであれば、むしろ良い状況だと思うのです。でも、数値は大したこと無かったんじゃないかと懸念しています。ガイガーカウンターで測ってもOKな量の放射性物質が拡散していたのではないか?と思うのです。

それほど微量な放射性セシウムでも、お茶が吸収し茶葉に濃縮されればNGな高濃度になり得る。

そうだとすると、ガイガーカウンターでの測定は、この放射性物質の最も深刻な拡散ルートに関して殆ど無意味ということになるのです。

Wikiで調べたところでは、「米では胚と糠層のセシウム濃度が高く、キャベツでは外縁部」とあります。菌類は「屋外で人工栽培されるシイタケやマイタケでも濃度が高くなる傾向がある」。魚類では「生物濃縮により魚食性の高い魚種(カツオ、マグロ、タラ、スズキなど)での高い濃縮度を示すデータが得られている」。いずれにしても、放射性セシウムの生物濃縮の研究は余り多くはないようです。

今回、岩手県を皮切りに「東北」で、「稲わら」から「牛」への汚染が見つかりました。基準値に達していない物もあるようですが、問題は生物濃縮ですから、今後基準値を越えていくことは十分有り得ます。

「神奈川」「静岡」方面だけでなく、「東北」方面にも拡散していることが確認できたことになります。「お茶」だけではなく「稲わら」でも蓄積されることが確認できたことになります。米の「胚と糠層」だけではないということです。「カツオ、マグロ、タラ、スズキ」だけではなく「牛」でも生物濃縮が確認されたことになります。

拡散範囲が「神奈川」「静岡」「東北」だけだと考えるのは不自然だと思います。植物での生物濃縮が「お茶」と「稲わら」だけだと考えるのは不自然だと思います。動物での生物濃縮が「カツオ、マグロ、タラ、スズキ」と「牛」だけだと考えるのは不自然だと思います。

高校理科程度の知識があれば、このくらいのことは遅くとも4月頃には予想できたと思います。「安心だ」とおっしゃる方、上記の疑問を悉く払拭する説明を、お聞かせ願えないでしょうか。

《つづく》

山本五十六とビンラディンが同じだというのは、複雑な気持ちです。

国際社会とか国際法とかの常識、学術的かつ専門的な解釈とか、そういうのを積み上げるとそういうことになるのかわかりませんが、多くの日本人にとって、こんな形で蒸し返されては不愉快な気持ちにしかならないのではないでしょうか。

それが「アメリカの正義」であるというなら、正義とは何ぞやと思う。そんなドメスティックな正義を他国に押し付けないで欲しいと思う。日本には日本の正義がある!と言いたくなる。そして、日本には「日本の正義」がかつて有ったからこそ、真珠湾につながったのだろうと思う。

そもそも山本五十六は日米開戦には反対だったのだ。それなのに、ビンラディンと同じ扱いというのは、どうなんだ?

でも、ひょっとしたら同じなのかもしれません。ビンラディンも同時多発テロにそもそも反対だったかもしれない。やむにやまれぬ事情があったんじゃないのか?

その辺が、何も分からずに「…に口無し」の状態になってしまったのは残念です。金賢姫のような第二の人生もあったかもしれない。

単なる正義では、世界平和は訪れません。正義の名の下に、どのように振る舞うかが大事です。どのような正義か?よりもひょっとしたら大事なことかもしれない。

無神経で、強引で、無遠慮な正義は、それと対立するもうひとつの正義を生みます。それでは、戦争は無くならないし、テロも無くなりません。

こんな無神経なことでは、夫婦喧嘩ひとつ、兄弟喧嘩ひとつ治まらないと思うんですが。

人間はそれほど単純ではない。自分の気持ちをひとつに表せるものではない。常にアンビバレントなものだと思う。その心の多様性は、種族の保存に遺伝的多様性が寄与したのと同じ機序で、個体の保存にも寄与するんだと思う。

「日本の力を信じてる」という宣伝。ウンザリするほどよく見かけるのだが、大戦の後に復興したように何とかなるだろう(もちろん、望ましい国の形で復興するとまでは期待してないが)と思ってる擬似楽観主義者の私にとって、この宣伝はむしろ不安を煽ってるように見える。「信じてる」ってこんなに執拗に呼びかけるのは、広告主がとっても不安なのだろうなと思う。つまり心の中には悲観論が渦巻いているんだろうなと思う。

心の中に楽観がある私にしてみたら、グラついてる今が良い機会だから、もう少しグラつかせて、こんな政治でいいのか?こんな管理能力のない国民が原発なんか持っていいのか?こんなに世界に迷惑をかけて恥ずかしくないのか?ということを問いかけて、日本が更生して真っ当な国になる方向に持っていきたい。

でもそれが逆に不安を煽っているように見えるらしい。この私が、不安でアタフタしてわめき散らしているとでも言うのか?

「お前はどうしようもないバカ野郎だ!」と言われて、「この俺がどうしようもないなんてことがあるか!」と悔し涙で踏ん張って成長し、苦言を呈してくれた恩師に感謝するというような人生を送ってきた我々と、「大丈夫!大丈夫!」と褒められて育ってきた世代との違いなのかとも思う。

私のやり方はこうだ。

大丈夫な人に「大丈夫だ」なんて言わない。「お前はもっとこうしなさい!真面目にやれよ、バカ野郎!」と言う。それが、そいつを信じるということだと思う。

ダメな人に「ダメだ」なんて言わない。「大丈夫だよ。君は強い人だ。何とかなるさ。」と言う。それは、そいつを諦めるということだと思う。

それが、私なりのアンビバレントだ。

でも世の中にはいろんな人がいて、いろんな考えがなければならない。多様性の無い社会は脆弱である。アンビバレントを持たない個人も脆弱である。要は、異論を持つ人同士が敵対せずに話し合うことだと思う。それぞれの持論は主張すべきである。それが愛国というものである。

しかしながら、そろそろ私も、「大丈夫だよ。日本は強い国だ。何とかなるさ。」と言うべき段階にきたのかな、と思い始めている。

《つづく》

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