トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Category: ★重い話題

「遊び」も「勉強」も「仕事」も、大別して二つの種類があるような気がずっとして、モヤモヤしていたのだが、やっと整理がついた。「人と同じ○○」か「人と違う○○」かということだ。

高度経済成長期は「人と同じ仕事」を文句も言わず疑問も持たずにやってくれる人がたくさんいれば良かった。でも、もうそういう時代ではないことは明らか。今ある仕事のほとんどがもうすぐ無くなるかもしれない、と言われて既に何年か経っている。

昨日まで安全だと思って乗っていた大船(おおぶね)が、いつの間にか泥船に変わっている。いち早く水に飛び込んで、それぞれが信じる方向に自分で泳ぎ出さなければいけない瞬間が既に来ているのだ。

全員に共通した成功法など存在しない。神すらそれを知らない。でも、結果的に大丈夫な場所にたまたま泳ぎついた者だけに、神は手を差し伸べる。ずっと前からそうだった。人類が生まれる前から神はそうしていた。それが、この世の掟。

水の中は冷たいので、草原に移ろう。誰かが落としたコンタクトレンズを探す時のように、私たちの祖先はそれぞれが思う方向を手分けして獲物を探した。同じ場所を探す仲間など、この段階では要らない。

自分が探している場所には無さそうだと判断したら、すかさず別な場所に移る。これまで探したことは無駄だったなどと悲嘆にくれる必要はない。今まで探した場所には居ないと分かったことは失敗ではない。探す範囲が狭まったことは、むしろ小さな成功だ。小さく喜んで、別な場所を探し始めよう。

自分が探している場所に有りそうだと思ったら、周りに合図を送ろう。その場所をより詳しく調べるために。獲物を見つけたら、みんなで取り囲めるように。

狩猟であれば、みんなで同じことをするフェーズと違うことをするフェーズの切替は数分単位で発生しただろう。それを月単位にしたのが農業の発明。しかも、多人数での定住が始まったから、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な集団心理と、判断を誤れば全滅する危険性をも獲得した。

でも、それ以来ずっと私たちはみんなで同じことをしてきたわけではない。同じ農業をするにしても、米にするか、麦にするか、果樹にするか…絶えず別な作物を探さなければいけない事態は次々と訪れた。その度に私たちは、バラバラに広がって探索し、コミュニケーションを取りながら可能性を絞り込み、存亡の危機を乗り越えてきたのだ。

今まさに、何度目かの探索のフェーズがやってきた。仕事が変わり、必要とされる人材も変わるのだから、教育が変わらねばならないのは当然の帰結だ。人と同じ知識を、よりたくさん覚えるという学習は、最早意味をなさないのだ。

これまで知り得た情報を基に、これまでとは違う方法を見つけ出していく人を育てなければならない。たった一人になっても、自分の好奇心を守り、自分の能力を信じて、孤高を保てる人を育てなければならない。かと言って、自分の方法がダメだと分かったら、頑なにならず、これまでを嘆くこともせず、むしろ小さく喜ぶ柔軟な人を育てなければならい。逆に、自分の方法が良さそうだと気づいたら、勝ち誇ることはせず周囲に呼びかけ、コミュニケーションを取りながら掘り下げて広げていける人を育てなければならない。

そのためには「遊び」も選ばなければならない。お行儀よく座って黙って没頭できるゲーム、おとなしく長時間並んでからシートベルトを締めて乗るアトラクション…それはタスクではないのか?

「遊び」は子どもにとって勿論とても大切なことだが、大人にとっても同じだ。冗談が通じる柔軟な空間で、常識に囚われない好奇心と根拠のない自信のままに突き進む冒険心を醸成する…そんな「タスク」ではない「遊び」が必要だ。

だいぶ長くなったが、最後にもう一つ。一人の人間の中にも、昨日と同じことをすべきフェーズと昨日と違うことをすべきフェーズがある。人間は、違うことをすると疲れるので、昨日と同じことを繰り返しがちである。でも、それは「老いる」ということだ。

人と同じこと、昨日と同じことに飽きて、今日は違うことをする…それを繰り返すことで、私たちは人類になったのだと思う。
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先日、仕事先でテレビを見ていて、「Tレグ細胞」と食物アレルギーの話がとても興味深かった。かねてから疑問に思っていた謎が解けたからである。

・アレルギーに気を付けているお母さんの子供ほど食物アレルギーになりやすい?
かねてから私は「アレルギーに気を付けているお母さんの子供ほど食物アレルギーになりやすいのではないか?」という疑問を持っていたのだ。

最初は、お子さんが食物アレルギーになったから、そのお母さんは食物アレルギーに気を付けているのだと思っていた。でも、よくよく聞いてみると、順序が逆なのだ。お子さんが食物アレルギーになる前から細心の注意を払っていたのに…というケースがほとんどだったのだ。

・Tレグ細胞は食物アレルギーのブレーキ
さて、Tレグ細胞とは、食べた物に対してアレルギー反応が起こらないようにブレーキをかける細胞。何度か食べることによって「これは食べ物だから、アレルギーを起こしちゃダメなんだね」と学習していく。

例えば、少しずつ何度か卵を食べているうちに、卵アレルギーのブレーキ(Tレグ細胞)が出来てくる。そうすると、卵アレルギーにならない…というメカニズムになっているらしい。

・食べさせないとTレグ細胞はできない
逆に言うと、食べさせないと食物アレルギーになってしまう、ということだ。

そう考えれば、食物アレルギーに神経質なお母さんの子どもほど食物アレルギーになりやすい、という現象は何ら不思議なことではなくなる。アレルギー予防と真逆のことをしていたわけだから。

・蕎麦屋の子どもの蕎麦アレルギー
ここ山形は蕎麦処なので蕎麦屋さんが多い。そして、蕎麦屋の子どもに蕎麦アレルギーが多いのも何となく気づいていた。蕎麦屋のお母さんが勉強熱心で、我が子が蕎麦アレルギーにならないように敢えて離乳食の段階で蕎麦を食べさせないで育てていたら、蕎麦アレルギーになりやすいはずだ。蕎麦粉に触れる機会は多いだろうから、Tレグ細胞なしの状態で皮膚から蕎麦の成分が頻繁に入ってきたら、免疫系は蕎麦粉に対して厳戒態勢を敷くはずだ。つまり、アレルギー反応が起こる。

・むやみに食べさせれば良いというわけではない
但し、ガンガン食べさせれば良いというものではない。命に係わることでもあるし、完全に解明されているわけでもないようだし。

Tレグ細胞については20年以上前から存在が知られていたようである。食物アレルギーガイドラインで「子どもの食物アレルギーについて、原因である食べ物を全て除去するのではなく、可能な範囲で摂取することを目指す」と大きく方針変更されたのは2016年。しかし、テレビで積極的に分かりやすく取り上げるようになったのは、ここ最近という印象である。

かなり、慎重であることがうかがえる。

・ハチミツは別
慎重にならざるを得ないのは、ハチミツのような例があるからだと思う。昨年3月に生後6カ月の男児が蜂蜜の過剰摂取で死亡といういたましい事件が起きた

1歳未満の乳児に蜂蜜を与えてはいけないことは、私も父親になった時に勉強した。亡くなった男児の親はこれを知らなかったようである。

で、ここで敢えて取り上げて注意喚起しようと思ったのは「乳児に蜂蜜が禁忌なのはアレルギーが理由ではない」からである。昨年のニュースを聞くまでは、私も蜂蜜はアレルギーを起こしやすいからだとばかり思っていた。

蜂蜜がいけないのは、「乳児ボツリヌス症」の危険があるからである。蜂蜜にはボツリヌス菌の芽胞が含まれている場合があり、腸内が未発達な乳児が食べると危険なのである。1歳を過ぎればこの危険は無い。

これはアレルギーとは全く関係が無いので、Tレグ細胞も関係ない。食物アレルギーガイドラインが変更になったからといって、蜂蜜が乳児に禁忌であることは変わりがないのである。

・まとめ
●アレルギーに気を付けているお母さんの子供ほど食物アレルギーになりやすいのではないか?という筆者の疑問が、Tレグ細胞の説明を聞いて氷解した。
●Tレグ細胞はアレルギー反応にブレーキをかける役割。
●Tレグ細胞は食べたことのある食べ物にしかできない。
●食べさせないとブレーキができないので、食物アレルギーになってしまう。
●食物アレルギーガイドラインも「可能な限り食べさせよう」という方向に方針転換した。
●1歳未満児にハチミツを食べさせてはいけないのはアレルギーが理由ではないので、やはり食べさせてはいけない。
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11月25日に、関戸博樹さんの講演を聴いてきました。その中で、「生業(なりわい)と仕事」という言葉が出てきました。

生業(なりわい)とは収入を得るためにすること、仕事とは地域のためにすること、という定義です。最近は、生業の意味で「仕事」という言葉を使いますから、仕事をする人がいなくなってきているわけです。そういう人がいないとコミュニティは立ち行かなくなるわけですが、それを担おうとする使命感とか義務感を持つ人が激減しているというのが現状。

関戸さんがおっしゃるのだから、全国的な傾向なのですね。

さて、最近の私のバイブル「スタンフォードのストレスを力に変える教室」では、ストレスを受けた時、利己的な行動に出る人がいる反面、利他的な行動に出る人いる、と述べてあります。「ストレスを感じているときは、仲間を強く信頼し、寛大になり、自分のためを思うよりも仲間を守ろうとします。(p217)」

で、これは「思いやり・絆反応」と呼ばれ、ストレスホルモン(ストレスを感じた時に分泌されるホルモン)のひとつ、オキシトシンによることが分かっています。他にもドーパミン、セロトニンが分泌され、信頼、勇気、やる気、自信、知覚、直感、自制心などがアップし、恐怖は感じなくなります(p220)。

オキシトシンは、特に心臓細胞の再生や微小損傷の修復に役立ちます(p114)。そして、最後の章では以下のようにまとめてあります。

ストレスは健康問題のリスクを高めますが、周りの人の手助けをしたり、仲間やコミュニティのために定期的にボランティア活動を行ったりしている場合には、そのようなリスクは見られません。(p331)
Stress increases the risk of health problems, except when people regularly give back to their communities.

つまり、地域のための仕事をすると、健康になる(可能性がある)のです。まさに「情けは人の為ならず」と言ったところでしょうか。
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11月25日に、関戸博樹さんの講演を聴いてきました。その中で、自己肯定感という言葉が出てきました。国際比較した時に、日本の子どもたちは著しく低いという調査結果が紹介されました。

この調査、最近、何度か目にしています。自己有用感と共に、「自信」を持つために必要なものです。

講演では、遊びとは「自分で自分の物差しを決める」ことという定義を基に、遊びが「自己肯定感」を育むから遊びは大切であるという流れだったと思います。

日本人は、自信過剰の弊害ばかりに着目してしまう傾向がありますが、行き過ぎになってしまったようですね。

私が「自己肯定感」という言葉を初めて見たのは、心理学の本、確かレジリエンス(resilience)の本だったと思います。レジリエンスは、気持ちが凹んだ時に元に戻る回復力のことです。「自信」は、レジリエンスを構成する大きな柱のひとつです。

さて、最近の私のバイブル「スタンフォードのストレスを力に変える教室」では、ストレスを受けた時の反応には望ましくない「脅威反応」と望ましい「チャレンジ反応」があり、後者を起こりやすくするための「もっとも効果的な方法は、自分の個人的な強みを認識すること(p198)」とあります。

「チャレンジ反応」は、試合とか試験とか、絶対に外せないという大きなプレッシャーを感じる舞台で、緊張をむしろエネルギーに変えてしまう反応。そのスイッチになるのが「自信」なのですから、日本人はこれからどんどんプレッシャーに弱い国民になる可能性があるということです。

また、p282には「逆境がレジリエンスを強化する」という言葉もあります。ここで言っている逆境は、PTSDに至るような絶望的な状況ですが、小さな逆境でもレジリエンスは強化できるはずです。

例えば、毎日遊んでいて「あ、やばいかも」と思うような瞬間。そこで、子どもなりの「認知→判断→行動」で、危険回避の実績を積むことで、たまには失敗をはさみながらも、自信を深めていけるでしょう。

そのため望ましい遊び場を考えると、「あ、やばいかも」と思う瞬間がほどほどに発生する場所ということになります。それは、ほどよい管理不行き届きな状態の場所に他ならないわけです。
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11月25日に、関戸博樹さんの講演を聴いてきました。フリーランスのプレイワーカーです。東根のあそびあランドには、プレイリーダー(プレイワーカーは同義らしい)という方々がいらっしゃるのですが、フリーということはどこにも属さない?ということになります。

ちょっとイメージが湧かない…。そこで、質問させていただきました。

以下、宴席で伺った記憶を私なりに補完しますので、正確でないところもあるかもしれませんが、御了承下さい。

あそびあランドのような場所は全国に400くらいあるそうです。そのほとんどは臨時のもので、あそびあランドのように常時運営しているものは一割の40くらい。しかも関東圏に集中しているのだそうです。

そこでプレイワーカーという人たちが働いているわけですが、昇給はないし、働く年数に5年とかの上限があったりで、とてもずっと続けていける仕事ではないのが現状。なので、専属になるよりは、むしろフリーの方が可能性があるとのこと。

さらに、あそびあランドのような施設の設置を自治体に働きかける活動も必要で、それも含めたものがプレイワーカーの仕事であると関戸さんは考えておられます。そのためのプレゼンなどのスキルを磨くためにも、フリーの方が良いとおっしゃっていました。

奥様も、「こういうことをやりたい」と言ったら、「そう言うと思っていた」と言ってくれたそうで、凄い方だと思いました。強い情熱、覚悟、信頼を感じました。

関戸さんとお会いするにあたり、これから自治体を説得しなければいけない市民としてではなく、既に理解してくれている自治体に住む市民としてお会いできたことは、何とも誇らしいものがありました。このadvantageを、今後どんなふうに発展させていくか問われていることにも気づくことになりましたが。
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11月25日に、関戸博樹さんの講演を聴いてきました。フリーランスのプレイワーカーです。

まず、面白いと思ったのは、遊びの定義。関戸さんの定義は「自分で自分の物差しを決める」ということ。昨年伺った天野先生のお話の中の3番目の条件と同じだと思われます。

自分で好きなようにやって、自分で良かったと思えればいい。

ですから、遊び方が決まった遊具(アトラクション)で、そのルールにのっとって遊ぶのは遊びではないと言えるかもしれません(子ども自身がその決まった遊び方以外では絶対に遊びたくないと望んでいれば別でしょうが)。

関戸さんがスライドで示された、すべり台の例が分かり易かったです。すべり台を両足を伸ばして座った状態で滑るのが第一の段階です。次にうつ伏せになって頭を下にしてスケルトンのように滑っていくのが第二の段階。さらにすべり台のスロープの方を下から登ろうとするのが第三の段階。それぞれに名前が付いていました。英語でも書いてあったので、外国で学術的に研究されているようです。

第一の滑り方が正しい滑り方で、それ以外は普通はNGです。もし私の娘がやっていたら「やめなさい」と言ってしまうでしょう。でも、自分が子どもの頃は、全部やっていました。第二、第三をやってみたくなるのが、子どもとしては自然だと思います。

で、おそらく第二、第三のような、ノーマルな方法から外れた滑り方こそが、「自分で好きなように」やる本当の遊びということなんだろうと思います。

遊具がきちんと整備されていて、スタッフがきちんと監視しているような場所では、本当の「遊び」はできないはずなんですね。子どもを遊ばせたいのであれば、放置にはならない程度の放任をする必要があります。

大人は、ほどよい管理不行き届きな状態を意図的に作り上げなければいけないのです。

リスクが必ず生じるし、毎日やっていれば必ず何か起こるでしょう。大人(プレイワーカー、プレイリーダー、一般の人)はその時を想定して、責任者探しをしなくても良いような状態、つまり信頼関係の構築が大切ということになります。今回も、私は、育成会(地域の親と子が参加する会)の人間として参加させていただきましたが、こういった信頼関係の下に活動をするという点では同じです。

これまで、地域の大人たちが誰から頼まれるでもなく当たり前のこととして、程々に不行き届きな管理をしてきていたのに、ここに来てそれが自然消滅しつつある。故に、プレイワーカー、プレイリーダー、そしてあそびあランドのような場所が必要なのだということ。しっかりと再認識することができました。
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10月21日に、天野秀昭さんの講演を聴いてきました。日本最初のプレイリーダーということで、東根のあそびあランドの最大のアドバイザーと言っていいかと思います。私としても、いろんなヒントを頂きました。講演内容をメモっていたわけではないので、私の記憶違いもあるかと思いますが、天野さんに興味のある方は御著書などをご覧頂けたらと思います。ここには、天野さんの講演を聴いて私が考えたことを書きます。

講演は「遊び」の定義から始まりました。記憶に残っているのは3つ。
1.自分から好んで行うものであること
2.効率は求めないこと
3.結果は自分で評価できること

この3条件はなるほどと思いました。子どもであれば学校、大人であれば職場で求められることのネガにあたると思います。昨日の話の「自由」の内容を細分化したものと言えるかもしれません。

1.では、自分からやりたいと思ってやる「おにごっこ」なら「遊び」だけれども、無理に誘われたり先生からやりなさいと言われてやる「おにごっこ」は「遊び」ではない、という説明がありました。

でも、仕事はどうでしょう。喜んで楽しくやっている場合もあるでしょうが、「やりたくなくてもやらなきゃいけないもの」という側面は必ずあります。「余り好きじゃない人たちと、嫌いな人の指示に従って行う」場合も往々にしてあります。

2.では、「材料を無駄に使わない」とか「できるだけ短時間で行う」といった制約がないということですが、逆に、こういう制約がない仕事なんて考えられません。最近の子どもの場合、何か作るにしても材料は買わないといけない場合が多い(リサイクル工作とか言っても材料全部揃えるためには多少の金がかかる)し、習い事のスケジュールが押していたりするので、効率性という制約が生じてしまうことが多いようです。

3.では、最初作ろうとしていたものと違うものができてしまっても、「これでもいいや」と自分が満足できればOKということ。最初の目標設定から自分自身によるものですから、成り行きでどんどん目標が変化していって構わないわけです。そして、最終的に自己満足の状態で終れればそれで良い。仕事では絶対にこれは有り得ないし、学校でも目標達成度に応じて評価されるのが普通です。

天野さんが脳について少しだけ話をしたので思ったのですが、この「遊び」は「哺乳類の脳」と呼ばれる旧皮質が活性化する活動のような気がします。そして、これとは真逆の、ネガに相当する「仕事」は、新皮質の前頭前野がコントロールすることで成り立っていくのでしょう。

胎児は生まれてくるまでに進化の過程を繰り返します。ですから、旧皮質の健全な発育のあとに新皮質の発育が来ると考えるのが自然でしょう。子どものうちに「遊び」の部分をきちんと構築しておかなければいけないのかもしれません。

小さいうちなら、サンタクロースや宇宙人に夢中になるのが許されるように、子どものうちなら「遊び」が許される。いつまでもそれをやっていると、「もういい加減オトナになろうよ」と言われたりするわけですが。

ただ、オトナは遊んじゃダメということではありません。「趣味」の部分でヤンチャなオトナはたくさんいます。さらに言えば、「仕事」に「遊び」を取り入れることも可能性としては有ります。

かく言う私、脱サラしたのはそこなんじゃないかと思います。自営ならば、気乗りしない仕事は敬遠することができます。効率という点でも自分のこだわりを押し通すことは可能です。さらには目標設定さえ、自分で修正が随時可能です。もちろん、これをやり過ぎれば食べていけなくなりますが…。それでも、「遊び」が少しでもあれば、「仕事」はかなり楽しいのです。売れっ子の芸術家とかなら、かなり「遊び」が許されるでしょう。「趣味が仕事」という羨ましい状態。

会社でも、そういう試みは見られますね。日常の業務にゲーミフィケーション(Gamification)を取り入れている会社がテレビで紹介されていました(一年半前にも同様のこと書いてました)。

そう考えると、必ずしも「仕事」と「遊び」は対極にあるものではなく、「仕事」に「遊び」の要素を取り入れることはアリで、運が良ければ「仕事」がそっくり「遊び」になることも有り得るわけなのです。「好きなことで、生きていく」という状態ですね。もちろん、それを夢見て痛い目に遭った人もたくさんいるのでしょうが。

だから、「勉強」に「遊び」を入れることも可能なはずです。頭書の3条件を加味できれば、「勉強が面白くてたまらない」という状態が実現できるかもしれません。

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小学6年生を対象に、ジュニアリーダー研修会というものが毎年行われておりまして、この度、そのお手伝いをさせていただくことになっておりました。その中に、子どもたちが小刀を持って竹を削り、マイ箸を作り、研修中の食事の際にはそれを使うという企画がありました。

リーダー研修で箸を作る…イメージしていたら、3つほど思ったことがありました。当日は、それについて考えながら子どもたちの作業を見守ってみようと思っていました。

あいにく、研修で使うことになっていた施設でトラブルが発生しまして、それはできないことになってしまったのですが、その思ったことはここに書きとめておこうと思います。

***

1つは、小刀など使い慣れていない今の子どもたちに、敢えて危険な挑戦をさせるということ。聞くところでは、従業員がカッターで作業中にちょっとだけ手を切ったのが労災扱いになったため、その会社ではカッター(特別な工具ではなく普通のカッターらしい)を使うのに許可が必要になったというケースもあるらしい。大人でさえこんな具合なわけですから、将来のリーダーたる者は、そんなことは鼻で笑えるようでなければならない。

危険な物を扱うには、自分が怪我をしない配慮、周りに危険が及ばないようにする配慮が必要です。たかが小刀であっても、持ち方、刃の向き、微妙な力加減、手が滑ったときの対策、周囲の動向への配慮…といろいろあって、されど小刀なわけであります。

「危険だからしない」ということでは何もできません。「危険だからこそ慣れておこう」というチャレンジの精神、(チャレンジが出たから言うわけではないが)公文式が養おうとしている冒険心がとても大切です。

***

2つ目に思ったことは、当然、売っているようなきれいな箸は一つもできないだろうということです。使いにくい箸が出来上がることでしょう。それを研修期間中、使わなければいけない。箸を見つめていろいろ考えることでしょう。
「ここをこんなふうにしてしまったのは失敗だった」
「こうならないように削るにはどうすればいいんだろう」
「箸として機能しなくなるような致命的な欠陥は何か、何とか使えるようにするにはどうしたらいいか」
「ここ、曲がってる方が使いやすくないか?」

真っ直ぐでない箸がお店に並んでいたら、誰も見向きもしないはずです。不良品だと言って、手に取ることはないでしょう。でも、研修では不良品の箸を何とか使わなければいけない。

さてさて、箸を人間に置き換えたらどうでしょう。みんな、お店に並ぶ箸のように真っ直ぐで同じ形をしているでしょうか。同じ顔、同じ性格、同じ能力の人なんて二人といませんね。

あいつは不良品だと言って、人間を捨てることはできないのです。自分が不良品だとしても、別の人間に入れ替わることはできないのです。この世でも、不良品を何とか使わなければいけないのです。

もし、あなたの隣に字がよく読めない人がいたとします。不良品だと思いますか?そんなヤツ、ろくな仕事ができないだろう。いても邪魔だ!意味がない!捨ててしまえ!と叫ぶでしょうか?

だとしたら、あなたはヘンリー・フォード(自動車王)を、グラハム・ベル(電話を普及させた人)を、ウォルト・ディズニー(映画制作者)を捨てたことになります。自動車に乗らないでください!電話を使わないでください!ディズニーランドで遊ばないでください!

一見、不良品と思える欠陥は、大きな長所となる可能性を秘めているのです。「みんな違って、みんないい」のです。あなたが作った箸、うまくできなかったところがいっぱいあるでしょう。でも、うまくできなかったことで、逆に便利なことはないでしょうか?

そういう気持ちで、グループのメンバーを見つめることができたら、きっと素敵なリーダーになることでしょう。

***

3つ目に思ったことは、例えば曲がった箸を組み合わせることによって、堅くて重いものでもはさめるようになるかもしれないということです。癖と癖を組み合わせることで、お互いの癖が相補的に作用し、癖のない木では作れないような強い建物を立てる…これが、五重塔などを建てた宮大工の極意です。ですから、古来、日本文化の底流に流れている考え方のはずなのですが、今では外国の方でよく見られるような気がします。

オランダの教育では、学生同士がディスカッションをする中で、互いの得手不得手を見つけ出し、補い合ってグループ活動を高めていこうとする学習方法が実践されているようです。

宮大工の棟梁のような工夫が、変な具合に出来上がってしまった箸から始まるとしたら…。

***

考え過ぎました…。
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昨日の小保方さんの会見、ドクター・ストップにも関わらず長時間闘い続けた姿は、可憐ながらも勇敢であり、事の真偽はどうあれ、素敵だと思いました。

私も、一時、科学を志した者としては、真理の探究が最も大きな関心事であり、論文作成の作法は二の次であります。だから、こんな俗世の手続きが不備であったということをとやかく言っている暇があったら、彼女に再現実験を行う場を提供して、さらなるデータを提示する機会を与えるべきではないかと思います。そうしない理研という所は、本当に研究機関なのかと疑ってしまいます。科学的真理の探求よりも、体面とか賠償責任の所在の方が大切なのだろうと思います。

実際問題、自分の職場の人間がこのような大きな発見をしたと言い出したら、「嘘だろ?」とか疑わなくても、「えー!スゴイね!どれどれ」と、実験データを見たくなるのが人情だと思います。生物学の研究に携わっていながら、そうしなかった周りの研究者たちの気持ちがわからない。ていうか、共著者とか指導者は昨日、何してたんだ?

小保方さんの論文は不備があったのでしょうけど、そういう可能性が予想されるがゆえの共著者とか指導者なわけでしょう?借用書だったら連帯保証人でしょう?なんで、小保方さんだけ矢面に立たされるのか?この人たちが理研の中で手伝っていたのなら、理研も連帯責任があるということにならないのか?マスコミ等が理研を批判しないのは何か理由があるんでしょうけど、道義的責任が全くないように振る舞っていることが今回一番頭に来ています。

突然周囲から離反され、最終的な責任を取らされた石田三成。作法を教える立場であった吉良上野介から指導を受けることができずに恥をかかされた浅野内匠頭。自分が発見した研究成果を真理探求とは別の事情で撤回するように迫られたガリレオ・カリレイ。可憐に勇敢に国のために闘いながらも魔女として処刑されたジャンヌ・ダルク。

いろんな不遇な人物たちが頭に浮かんでくるのですが、彼女に再び割烹着を着させて再現実験の機会を与えることができないのであれば、中世のヨーロッパと何ら変わらないのではないかと思います。
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数か月前のことだったと思うが、「プリウスは元が取れないから買うもんか!」とアメリカ人が言っているという記事を見かけたような気がする。その時は、アメリカ国民の総意ではないだろうし、だから何なのだろう?と思った。そんなトンチンカンな人がアメリカにもいるんだな、とも思ったが、こんなくだらないことを太平洋のこちら側まで知らせてくれる人がいるというのも、これまたくだらない話だなと思った。

プリウスは燃料を節約するためのあらゆる工夫を装備した、重装備のエコカーである。だから、コストはかかる。それでも普及させたいから採算には目をつぶった値付けをしている、と発売当初からトヨタが言っていた。それでも割高である、という説明は当時から有った。燃料費で元を取るのはかなり乗らないと難しいだろう、という説明も。

それでも世に出したところにプリウスの意味がある。トヨタの先見性と格好良さがあったのである。プリウスに乗るということは「元を取れないけど、環境に貢献したいからプリウスに乗るんだ!環境のために少しは負担したいんだ!」という意思表示でもあったはずなのだ。

それは前世紀から分かっていたこと、それを今さらプリウスで元を取ろうだなんて…と笑った。でも、この不見識は、対岸の遠い国の一部の人だけではないことに気が付いた。

原発再稼働を議論する場で、日本の国際競争力の低下を懸念するなどの理由から、必要なものは必要なんだから原発で発電すればいいでしょう?という意見が、産業界から強く出たことである。

何とかしてエネルギー消費を縮小して、地球環境の悪化を食い止め、人類の滅亡を回避しましょう!というのが、20世紀の終り頃から始まった歴史の文脈なのだ。全人類の命がかかっているのだから、これよりも大きな課題は無いはずなのである。大震災が起こったくらいで、優先順位が入れ替わるようなちっぽけな課題でも無いのである。原発から放射性物質が大量に放出され続けている状況であるならば、なおさら喫緊の課題になったはずなのである。

まず唯一の被爆国である我が国から脱原発の社会的・技術的課題を解決していこう、という方向性を持てないのか?まず「もったいないの心」を持つ我が国からエネルギー消費を縮小していく行動を起こしていこう、とならないのか?一部のアメリカ人の不見識を一笑に付して、プリウスを生んだ我が国がまず…というリーダーシップを取れないのか?

日本の国際競争力の低下を懸念…という論拠から、私は二つの世界大戦の戦間期における軍縮の動きを思い出した。第一次大戦の戦勝国間で、軍艦の保有比率の取り決めをしようとしたことである。これは温室効果ガスの排出枠と似ている。

「自国の国際競争力の低下を懸念」という論拠が何のためらいもなくまかり通ったら、それこそ軍縮条約の破綻が制限なき軍艦建造競争につながったように、地球環境保護は木っ端微塵に吹き飛んでもおかしくない。

電気自動車が「究極のエコカー」と呼ばれても、怪訝な顔をしない人は意外に多い。原発で発電した電気を使っているとしたら、電気自動車は放射性廃棄物を生み出しながら走っているのに等しい。火力発電で発電した電気を使っているとしたら、二酸化炭素を吐き出しながら走っている他の車と大した違いは無い。電気自動車とプリウスとでどっちがエコかというのは、実際のところ決しがたいはずなのである。

プラグインハイブリッドのプリウスであれば、ますます電気自動車とプリウスは近い存在になる。何で発電するか?によって、電気自動車やプリウスがどれだけエコであるかが決まるのである。車だけではない。震災の停電で、あれだけ痛い目をみたはずなのに、いまだにオール電化の家を建てている人が東北にもたくさんいる。これら電気製品すべてが、何で発電するかによってエコかどうかが一斉に決まるのである。

米ゼネラル・エレクトリック(GE)最高経営責任者(CEO)が、原子力発電は採算性が悪いと発言したらしい。

プリウスの採算性は、この発電の採算性から考慮されなければならない。環境負荷や万が一の賠償額も加味した上で。家計とか国家財政とか、そういう小さな枠組みではなく、全人類という枠組みで採算性を考慮していただきたい…

なぜ、脱原発を即刻行わないのか、私には分からない。

(8月7日記)
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