トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Category: ★仏教

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「空海とヨガ密教」(Gakken) 第4章「密教修法の効験」(p131〜151)を読みました。

ここは、「う〜む」という内容なので、本書を読んでいただければと思います。

司馬遼太郎の「空海の風景」の対応箇所は…
25. 大宰府残留
26. 両部不二の構想
27. やはり知の巨人
28. 玄ぼうと空海
29. 教相判釈
30. 宮廷スキャンダルの使い道
31. 奈良六宗と空海
32. 国内的な最澄と国際的な空海

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第四章 縁起―無明の業」(p237〜280)を読みました。

『般若心経』の「無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p238)》
これは十二因縁を空ずるなり。
十二因縁というは、一つには無明なり。これは本心・本性を明らめずして、道理に暗きを以て、迷いを起こすをいうなり。一切の煩悩の根元は、無明より始まるなり。
二つには行なり。これは無明の心が起こりしより、一切善悪の業を作るをいうなり。
三つには識なり。これは妄想・妄念を以て、父母に愛着の念を起して、初めて母の胎内に宿るをいうなり。
四つには名色なり。胎内に宿りて、目口鼻手足などのかたちが出来て、受想行識の四蘊の備わるをいうなり。名色の名とは、四蘊の心のわざなれば、目に見えぬものなる間、名をつけて呼ばざれば、あらわれがたし。かるが故に、名というなり。色は目に見るところの眼耳鼻舌身などをいうなり。心法と色法の二つをかねて、名色というなり。
五つには六入なり。これは心識が眼耳鼻舌身意の六根に行き入りて、六根となるなり。
六つには触なり。これは六根と六塵の相対するをいうなり。眼は色に対し、耳は声に対し、鼻は香に対し、舌は味に対し、身は寒熱・痛痒に対し、意は法に対して相触るる故に、触というなり。
七つには受なり。これは善悪の事を心に受け入れるをいうなり。楽を楽と受け、苦を苦と心に受け入れるをいうなり。
八つには愛なり。これは五蘊などの楽を心に受け入れて、さて、それに愛着の心を起こすをいうなり。
九つには執なり。これは愛着の心によって、深く執着するをいうなり。
十には有なり。これは執着の因縁によりて、未来の身を受くることあるを、有というなり。
十一に生なり。これは前の有の因縁を以て、終にまた生まれ来るをいうなり。
十二には老死なり。これは生まれてより、またやがて年寄りて、死するをいうなり。
これを十二因縁の流転というなり。

過去の無明の業縁によって、今現在に苦を受くる身と生まれ、また今この現在にて作る業縁によりて、未来世にまた生を受け、死しては生まれ、生まれては死し、三世の因果絶えず、三界に流転し、無量の苦を受けて、終に止むことなし。これ皆最初の無明の一念の迷いによって、種々の苦を受くるをいうなり。さるほどに、般若の真空の智を以て、無明は本より空にして、実性あることなし。夢幻の如くと観念をなせば、一切の煩悩妄想、畢竟、皆空にして、種々の夢、覚めたるが如くにて、過去の心も不可得、現在の心も不可得、未来の心も不可得。三世の因果、一念に空じ、六道の輪廻、一時に止むなり。
《引用終わり》

十二因縁については、このブログ内を検索しましたら、『龍樹』を読んでいる時にメモっている記事がありますので、ここにまとめておきます。
論敵の縁起説(龍樹8/20)
『中論』の縁起説(龍樹9/20)
ブッダとは(龍樹14/20)

さて、可藤さんによる解説ですが、まず、△痢峭圈廚里箸海蹐気に入りました。どれだけ意味がかぶるか分かりませんが、先日の「サンスカーラ」です。

《以下引用(p238)》
…不生不滅の道理に暗く、真空の実相に背きて、無時間から時間へ迷い出た輪廻の土台ないし基盤である阿頼耶識(無明の心)から自我意識(末那識)が芽生え、独立した個としての自己を行使するところが、△痢峭圈廚覆里澄6饌療には、無明の心が起こりしより、一切善悪の業を作るとあるように、無明(の心)は悪しき行為だけではなく、善き行為もまた無明から生じてくる。
《引用終わり》

無明により心が起動すると、私たちは一元性の世界から生死・善悪をはじめとする二元性の世界へと入る。

これと対をなしている感じなのがの「有」です。

《以下引用(p258)》
有には本有・死有・中有・生有(しょうう)の四有があるが、本有(今生)で終りかというとそうではなく、ただ死を厭い生に執着して(生を好み死を怖れて)、波羅蜜多の意味する、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到るという観念もなく、死から次の未来の身(順次生)を受くるまでの間、死有・中有・生有の三有をさ迷うところが「有」である。
《引用終わり》

死有とは正に死の瞬間で、そこを過ぎて中有へ入っていきます。中有(バルドもしくはバズラフ)については、「チベット死者の書」による詳しい説明がありました。

《以下引用(p259)》
生処とは次に生まれる処という意味で、具体的には、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄(六道)のいずれかをいう。そうして、中有が死有と生有の「中間」に位置し、本有で纏っていた色身(粗大身)ではなく、神通力を備えた微細な四大・五蘊(「死と生との二有の中の五蘊」)からなる「中有の身」(微細身)が、いまだ至るべき未来の身(順次生)を得ていないので生(生有)とはいわず中有という。…ともあれ、三有(死有・中有・生有)を経たあなた(中有の身)が錯乱の果てに辿り着く一つの可能性が子宮(母胎)であり、かくてあなたは再び地水火風の四大からなる色身(粗大身)を纏い、物質からなるこの世界(四次元時空)へと舞い戻ってくることになる。
《引用終わり》

《インデックス》

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「空海とヨガ密教」(Gakken) 第3章「インド神秘主義の系譜」(p86〜129)を読みました。

密教とは「言葉では表せない教え」という意味なわけですが、それは極めて神秘的な内容だからだと思っていました。ですが、この本の指摘のように単に「言葉では表せない教え」だとすれば、私のこれまでの捉え方がかなり違ったものになることに気づきました。

今日では、日本で密教と言えば大乗仏教と考えますが、そもそも何の縛りもなく、単に「言葉では表せない教え(タントラ)」だったというのです。小乗仏教にも、ヒンドゥー教にも、ヨガにも顕教と密教がある。

密教の定義が難しいことは以前読んだ本にも書いてありましたし、「密」もいろいろあることも書いてありました

以下は私が思ったことです↓↓↓

さらに拡大すれば(していいのか分からないが)、書道にも、絵にも、音楽にも、スポーツにも、言葉で表せる部分(顕教)と表せない部分(密教)がある。つまり、密教とはインストラクターから直接教わらなければ分からない内容、という解釈。

だから、空海は絶対に渡海しなければいけなかったということにもなります。いろんなインストラクターがいる長安に絶対に行かなければいけなかった。インド僧から直接教わることも特別重要なことだったわけです。

以前引用した司馬遼太郎の文章が、今までと少し違った意味に見えてきました。
《以下引用》
…インドにおいては、その後の人類が持ったほとんどの思想が、空海のこの当時までに出そろってしまっているが、それらの思想は、当然、言語に拠った。厳密に整理され、きびしく法則化されてきたサンスクリット語によって多くの思想群が維持され、発展してきたが、空海がすでに日本において学びつくした釈迦の教えやそれをささえているインド固有の論理学や認識学も、さらに蘊奥を知るには中国語訳だけでなくこの言語に拠らねばならない、ということは、インド僧だけがそういうのでなく、インド的体温のまだ冷めないこの時代の唐の仏教界では中国僧もそう思っていたにちがいない。
《引用終わり》

そう考えると、結果からみれば恵果に会うことが最初からの目的だったように思えるのですが、実は、恵果から習ったことが帰国後には一番役に立ったというだけのことなのではないか?そもそも、恵果に会うことは優先順位の低いことだったのではないか?

密教の空海に比べれば、顕教をやっていた最澄は渡海する必要は必ずしも無かった。顕教だから「直接の教授は弟子が受けるから免除だけ私にも頂戴!」という発想も出てくるわけだし、これに、空海が激怒したのは当たり前

私は今、ヨーガを動画サイトでやっているわけで、本だけを見てやっていたのとはだいぶ違うことに気づく毎日です。それでも直接インストラクターからは習っているわけではないので、ヨーガの密教部分には殆ど触れていないのかもしれません。

私も、御大師様からバカヤロウと言われますね(笑)。

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「空海とヨガ密教」(Gakken) 第2章「入唐求法の真相」(p45〜83)を読みました。

まず、空海が持っていたと思われる超人的な記憶力。これを説明するために使われてきたと思われる「虚空蔵求聞持法」。本当に効くかもしれないので、真言をメモっておきます。

《以下引用(p48)》
ナウボウ・アカシャガラバヤ・オン・アリカマリ・ボリソワカ

これを一日10000回×100日で計「百万遍」唱える修行です。

この「虚空蔵求聞持法」と「大日経」を翻訳したのが善無畏三蔵です。虚空蔵菩薩は「自然の本質そのもの」なのだそうです。

若き空海に影響を与えたと言われるのが勤操です。

《以下引用(p53)》
勤操の弟子に混じって、空海こと佐伯真魚はこの雑密を学んだと思われる。では、具体的に雑密、つまり勤操の密教とはどのようなものであったのか。じつは「ヨガ」であった。現在、ヨガ教室に通っている人たちが学んでいる内容が、いわゆる雑密に近く、真言宗の寺院で行われている行法が真密に近い。これはまた後で論じることにする。
《引用終り》

にわかには信じがたいのですが、イメージしやすい仮説ではあります。雑密については司馬遼太郎の文章もご覧ください

さらに、空海がヨガをやっていたであろう根拠として、「五筆和尚(ごひつおしょう)」の伝説を挙げています。

《以下引用(p57)》
…両手、両足そして口にそれぞれ筆を持ち、五本の筆で壁に同じ字を書いたという伝説だが、これは空海が心の命じるままに体を動かしたことを意味する。いわば「心身の一致」を表現する伝説である。心身の一致は、インドでは「ヨーガ」といい、漢語に音写して「瑜伽(ゆが)」という。
《引用終り》

入唐して、空海は二人のインド人の高僧に学んだことが分かっているようです。

《以下引用(p69)》
…牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう:?〜806年/梵名「ムリチニー」、漢訳法名「寂黙(じゃくもく)」)と般若三蔵(734〜806年ころ/梵名「ブラジュニャー」、漢訳法名「智慧」)である。
《引用終り》

《以下引用(p71)》
「私は大唐の貞元二十年(804)に長安の禮泉寺(れいせんじ)において、般若三蔵および牟尼室利三蔵に南天のバラモン等の法を聞いた」と空海は書き残している。これはきわめて重要な言葉である。
《引用終り》

きわめて重要なのですが、出典が書いていないのが残念です。

アマゾンのレビューなどでも指摘されているように、強引な論理展開が随所に見られる本だと私も感じています。ただ、空海もヨガは多少たしなんだだろうなとは思います。

例えば、「輪廻の観念は仏教の発明ではなく、仏教成立当時のインド社会の周知の世界観・人生観」と言われるように、私たちが仏教として捉えているものの中には単に当時のインド社会の常識も含まれているわけです(逆に、昔の日本文化からお寺に流入したものも、インド伝来の仏教として捉えているものが多々あるのでしょうけど)。

真言宗は真言を最も大切にしている宗派だと思いますから、空海は最もインドに傾倒した宗祖だと思います。ですから、瞑想法のひとつとして、今日のヨガ的なものは、サンスクリット語を習う傍ら、インド僧から一緒に習っていたことでしょう。

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第三章 仏教の意識論」(p154〜236)の「1.六塵の境界」(p155〜185)を読みました。

『般若心経』の「無眼界乃至無意識界」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p155)》
これは十八界を空ずるなり。前の六根・六塵を合せて十二処という。この十二処に六識を加えて十八界というなり。六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識なり。眼に青黄赤白黒の色、大小長短のかたちを分別するを、眼識というなり。耳に種々の音声を聞き分くるを、耳識というなり。鼻によき匂い、悪しき匂いを嗅ぎ分くるを、鼻識という。舌に五味を甞め知るを、舌識というなり。身に暑さ寒さを触れて覚え、痛さ痒さを分かち知るを、身識という。意に一切の是非・善悪を種々に分別するを、意識というなり。十八界というこころは、物の境かぎりあるを、界というなり。眼は声を聞かず、耳は色を見ず、その司るところの格別なる故に、眼界・耳界というなり。
《引用終わり》

十八界については前にまとめたのがありました

ところで…

《以下引用(p172)》
…身識について言っておきたいことがある。

一休は最晩年に盲目の森女と出遇い、78歳からほぼ十年間、逢瀬を楽しみ、この間「吸美人婬水」(美人の婬水を吸う)、「美人陰有水仙花香」(美人の陰に水仙花の香り有り)など、彼女との親密な関係を窺わせる漢詩をいくつか残したとされ、彼の人となりを俎上に載せる場合、格好の資料となっているようであるが、確かに読み物としては面白いかもしれないが、それで終わらせては詮も無い。…

一休が坐禅(〈定慧一体〉の瞑想)に専心するあまり顔色は憔悴し、それを見かねた弟子たちがお伺いをたてたところ、彼は次のように認めたという。

「本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ」
「我のみか釈迦も達磨も阿羅漢も この君ゆえに身をやつしけれ」

世の人恋という事は性肉的愛恋のみと知るも、霊の愛恋こそ霊界の偉人を産出する原因となる事を知らず。
   山崎弁栄『光明の生活』

愛(恋)にも二つがあり、いわゆる男女のそれ、もう一つは「霊界の偉人」たちが身を焦がした「君」、即ち本来の面目(真実の我)である。一休は自らも含め、かつて世に現れた釈迦、達磨、阿羅漢など、多くの聖賢たちは、この「本来の天真仏」(衆生は本来、先天的に仏であるが、今は客塵煩悩ゆえに生死に迷う迷道の衆生になっている)を知って身をやつしたのではないか。否、彼はその美の映しを盲目の森女の中にも見ていたのではないか。ところが世の人は「人恋」のみに終始し、そうであってはならないことを、弁栄は一休を例に挙げているのだ(私は性肉的愛恋を無下に貶めているのではない、むしろ私たちは「人恋」を通して「霊の愛恋」へと進むと言っておきたい)。「この君」を親鸞は阿弥陀仏(阿弥陀仏は我が心の異名であり、その心は「明々たる本心」を指していた)、空海は本より私たちの心の中央(心王)に坐す大日如来(遮那)とした。

遮那(しゃな)は中央に坐(いま)す
遮那は阿誰(たれ)の号(な)ぞ
本是(もとこれ)我が心王なり
《引用終わり》

一休さんにもスキャンダルがあったのですね。ただ、あこがれの「君」は、釈尊と呼ぶも良し、阿弥陀と呼ぶも良し、大日如来と呼ぶも良し…我が心王であるわけです。

最後に『ルーミー語録』からの引用をメモっておきます。

《以下引用(p174)》
神の御書(みふみ)の写しなる汝よ
王者の美を映す鏡なる汝よ
この世なるすべてを内に蔵した汝よ
自らの内面にこそ探し求めよ
これぞ我がものといいたいものがあるならば。
《引用終わり》

《インデックス》

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「空海とヨガ密教」(Gakken)「まえがき」(p3〜11)、第1章「母系空海論」(p15〜44)を読みました。

最近、ヨガに目覚めまして、動画サイトを見ながら、ほぼ毎日レッスンをしています。

そうしますと、仏教との関連を思わずにはいられません。ヨガのレッスンは大抵、あぐらをかいて胸に合掌して始まります。終りも大抵同じです。髪型やコスチュームに目を配らなければ、ヨガをしているのか、座禅を組んでいるのか、即座には分からない。

単に発祥の地が同じだからなのかもしれません。しかし、いずれも身心の別なく己を見つめ、苦しみからの解放を目指すものであるならば、全く別物と考える方がむしろ不自然に思いました。

そんな中、大好きな空海とヨガを結び付けようとしている本を思い出しました。数年前に、この本の存在は知っておりましたが、当時はヨガに興味を持っていませんでしたし、この本の内容には事実と反すると思われる箇所があるという指摘もありましたので、手に取るほどの気持ちは起こりませんでした。

今回、仏教とヨガの関係を知りたいと思った時に、まずはこの本を歴史ロマンとして読んでみようと思いました。読む方としても仏教とヨガの間に何らかの強いつながりがあってくれないだろうか…という気持ちがあるわけですから、読み物として楽しむ分にはいいでしょう。

「まえがき」で、この本の特色を筆者自身が挙げています。

《以下引用(p3)》
第一は「空海の生誕地が父方ではなくて、母方の屋敷の跡にある」という主張である。

《以下引用(p4)》
第二は「その実家とは何者か」という問題を扱っている点である。

《以下引用(p5)》
第三は「空海が唐からもたらした密教をヨガの視点から解明しよう」とする点である。

はっきり言って、第三のところしか興味はないのですが、空海の生涯を見渡した時に大きな謎がいくつかありますが、第一・第二の内容で説明できる部分もあるようです。だから、これが真実だというわけでもありませんが、ロマンとしては面白いと思います。

満濃池の治水工事をどうして成し得たか久米寺でなぜ『大日経』を借りることができたか私渡僧として遣唐使に加わるために必要な莫大な資金をどうやって集めたか唐の人も及ばないような文才を身につけていたこと。また長安でこれほど注目を集めたにもかかわらず、なぜ日本に戻ってきたのか?

これらの疑問は、第1章にあるように、母方の阿刀氏が大きな力を持っていたとすれば説明は付きます。

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第三章 仏教の意識論」(p154〜236)の「1.六塵の境界」(p155〜185)を読みました。

『般若心経』の「無色声香味触法」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p154)》
これを六塵という義は、この六塵も皆空なりと説きたまうなり。六塵という時は、皆塵の字をつけていうぞ。色塵・声塵・香塵・味塵・触塵・法塵、これなり。塵は、ちりと読めるは、物を汚すものなり。目も耳も、いまだ物の色を見ず、声を聞かざる以前は、元来清浄にして、無念無想なるものなれども、色を見、声を聞くことによりて、うつくしきものを見ては、欲しく思い、おもしろき声を聞いては、心をとられ、見ること、聞くことに迷い、貧着の思いを起こす故に、煩悩の汚れに染むを以て、塵というなり。しかるに、般若の智を以て、皆空なりと観ずる時は、六根・六塵ともになきものなり。なしというとも、今までありつる物を払い捨てて、今よりはじめてなしというにあらず。この六根・六塵の自体、元より空なるが故に、なしというなり。
《引用終わり》

解説です。

《以下引用(p164)》
まず、六根が身心(私)に備わる感覚ないし知覚器官であったのに対して、六塵は六根・六識の対象(対境)として、それぞれ対応している(この点では塵と言うよりも、境の方がその意味をよく表している。以後、適宜使い分ける)。また六根・六識を認識の主体とするならば、六境(六塵)は認識の客体ということになり、六根・六識と六境(六塵)は主客の関係にある。…

…色声香味触法の六塵などと聞くと、六境それ自身が汚れた塵のような印象を受けるが、一休の理解はそうではない。眼(眼根・眼識)と色(色境=色塵)の関係で示せば、ただ見るだけならば何の問題もないが、私たちは見た物(対象)が実際に存在すると思い、なおかつ自分かってに意味や好悪・美醜・価値(主観)を押し付け、実際の行動に移る。…

それを一休は見ることに迷うと言ったが、それは見ることにかぎったことではなく、色声香味触法のすべてが本来清浄な心(大心・本心・仏心)の鏡に積もる塵(客塵煩悩)となって、私たちは真実が観えていないだけではなく、三界・生死の世界を巡る「迷道の衆生」となっているのだ。ここに『般若心経』の底流にある「行」の必要性が生じてくる。提唱に沿って言えば、小心(人心)を尽くして、大心(仏心)を明らかにし、元より後者に備わる般若の智慧(般若の空智)で以て観る時、六根・六識が捉えていた「六塵の境界」(妄境界)はそこにはなく(般若の智を以て、皆空なりと観ずる時は、六根・六塵ともになきものなり)、その後から一真実(真実空相)の世界が了々と立ち現われてくるということだ。
《引用終わり》

「六塵は六根・六識の対象(対境)」という説明は分かりやすいですね。空海の言に「六塵ことごとく文字なり」というのがありましたが、またひとつシックリきました。

《インデックス》

空海コレクション 1 (秘蔵宝鑰・弁顕密二教論)

1.序論(1)「序詩」
2.序論(2)「序詩を基点とする十住心体系の概要」
3.序論(3)「序詩を基点とする十住心体系の概要」
4.序論(4)「曼荼羅世界を詠んだ詩句」
5.序論(5)「十住心体系の詩句」

6.本論−第一異生羝羊心「(1)第一異生羝羊心とは何か」
7.本論−第一異生羝羊心「(2)異生羝羊心の人間存在と、まとめの詩句」
8.本論−第一異生羝羊心「(3)問答による異生羝羊心の論拠」

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「空海コレクション 1 (秘蔵宝鑰・弁顕密二教論)」(ちくま学芸文庫)「秘蔵宝鑰」(p16〜257)の本論−第一異生羝羊心「(3)問答による異生羝羊心の論拠」を読みました。

《以下引用(p61)》
問。何(いず)れの経に依(よ)ってかこの義を建立(こんりゅう)する。

答。『大日経』なり。彼の経に何(いかん)が説く。「秘密主(ひみつしゅ)。無始生死の愚童凡夫は我名・我有に執著(しゅうじゃく)して無量の我分を分別す。秘密主。もし彼、我の自性を観ぜざれば、すなわち我・我所、生ず。余はまた、時と地等の変化(へんげ)と瑜伽(ゆが)の我と建立の浄と不建立の無浄とないし声(しょう)と非声(ひしょう)とありを計(けい)す。秘密主。かくの如く等の我分は昔より以来(このかた)、分別と相応して順理の解脱(げだつ)を希求(きぐ)す。秘密主。愚童凡夫の類は猶(なお)し羝羊の如し、と」。

龍猛(りゅうみょう)の『菩提心論』にいわく、「いわく、凡夫は名聞利養資生(みょうもんりようししょう)の具に執著して、務(つと)むに安身(あんじん)をもってし、恣(ほしいまま)に三毒五欲を行ず。真言行人、誠に厭患(えんげん)すべし」。
《引用終わり》

Q&Aという形式であり、出典をきちんと提示してあり…意外と現代的。

《インデックス》

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第三章 仏教の意識論」(p154〜236)の「1.六塵の境界」(p155〜185)を読みました。

『般若心経』の「無眼耳鼻舌身意」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p154)》
これは六根をあげて、皆空なりと説きたまうなり。六根というは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根、これなり。皆根の字をつけていうことは、草木の根あるが如し。根あれば、よく生ずるなり。その如く、眼根は、よく識を生ずるものなり。識とは、眼に見る時に、青黄赤白黒をよく見分くるものをいうなり。この識というものがなければ、見分くることならぬぞ。さてまた、識というものがありても、眼根というものがなければ、この識を生ずることがならぬぞ。たとえば、目をふさぎ、耳をふさげば、色ありといえども見えず、声ありといえども聞こえず。さるほどに、色を見る時は、識が眼根によって生ずるなり。声を聞く時は、識が耳根によって生ずるなり。残りの鼻根・舌根・身根・意根もかくの如し。
《引用終わり》

さて、般若心経全般に多用されている「無」ですが…。

《以下引用(p155)》
私は神道(山岳信仰)を信奉する友人から、山に入り、早朝、装束を身に纏って、皆と一緒に「六根清浄」と唱えながら、山頂を目指す「行」の話を聞いたことがある。六根とは眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根であり、私たち(の身心)に備わる六つの器官のことであるが、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五つは身体(色身)に備わる感覚器官、意根は心に備わる知覚(分別)器官と分けることができる。ところが『般若心経』は「眼耳鼻舌身意も無く」(無眼耳鼻舌身意)という。しかしここでいう「無」とは、空ということであり、一休は六根をあげて、皆空なりと説きたまうと言い換えていることに注意しなければならない。早まって「眼耳鼻舌身意も無く」を、字義通り六根のすべてが無いとしてはならない。それはこの箇所にかぎったことではなく、実は先の「空の中には色も無く、受想行識も無し」(空中無色無受想行識)から「智も無く、亦た得も無し。所得無きを以ての故に」(無智亦無得。以無所得故)までを含み、かつ無というは、空というこころなり。空とは、有無を離れたるをいうなりを厳密に踏まえた「無」なのだ。
《引用終わり》

「六根清浄」は「どっこいしょ」の語源だとか…。

「無」と「空」の違いについては『龍樹』にも書いてありました。一休さんも、さすがにしっかり勉強していますね。

《インデックス》

《こちらのブログもご覧下さい》

↑このページのトップヘ