トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Category: ★読書日記

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チャプタ靴痢屐崔里離汽屮ル化」を超えて」「この世界のすべてを引き受けて」「無限と空白」を読みました。

《以下引用》…本書の問題設定である「思考の補助線」というタイトルには、その構想時において、ある危機意識が込められていた。現代の知がはからずも断片化してしまっており、そのばらばらの破片をかき集めてみても、世界の像が一つに結ばない。そのような現状に対する個人的なあせりと悲しみのようなものを引き受けたうえで、じっくりと考えてみたいと思っていたのである。…《引用終わり》

そういうことは私も感じていましたが、西洋の研究の流儀では仕方がないのかな…と思っていました。個々に専門の分野を決めて、横の連携もなく掘り下げていけば、隣の穴でどこまで掘り進んでいるのか?隣の穴を掘っている人と自分の位置関係はどうなのか?わかるわけがない。

《以下引用》…「世界全体を引き受ける」ということが、若いときからの私の密かな野望であった。…《引用終わり》

それは野望というよりも無謀ですね。様々な研究を重ねれば、世界の像が一つに結ばれるんでしょうかね?シンプルな一つの像に収束するのであれば、全体を引き受けるという発想も出てくるでしょうが、収束する気配が全く無い現段階でそれを目指すのは、どうかな…

ただ、それができた後に目指すもの、つまりその延長線上にある目的は「皆の幸せ」だと思います。私は茂木さんほど勇敢ではないので、世界の像が収束しない前提で「皆の幸せ」を目指す方法はないかと模索しております。それが「哲学としての仏教」であり、「私の野望」です。

《つづく》

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《以下引用》…いわれなき差別に苦しむ人を救うのは当然のことである。みずからの内なる偏見と闘うのは人間の義務だ。そのうえで、「みんなちがって、みんないい」というラジカルなスタンスをどれくらい本気で貫けるか。…《引用終わり》

身の回りのいろいろな物事を区別し、分類し、順番を付けて垂直に並べていく能力は、日常生活で必要なことです。生きるために、毎日この能力はトレーニングされます。だからその弊害としての差別とか偏見は、まともな人なら必ずみんな持っているはず。これを克服するのは、壮絶な覚悟が必要だと思います。

《以下引用》…いまだ人類が到達したことのない頂を目指し、薄い酸素の中で苦闘してこそ、はじめて得られる快楽がある。…《引用終わり》

「わかりやすさ」だけが受ける昨今の風潮を、山の広い裾野(底辺)を目指すこととして、嘆いています。そういう動きもあっていいけど、山の天辺(頂点)を目指すのも必要でしょう、という主張。高地トレーニングのように、高い所で苦闘したあとに達成できた喜びは格別なはず。

垂直線を引くことをある時は抑え、ある時は没頭する。そのメリハリが知的生活においても重要なことですね。

《つづく》

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チャプタ兇痢屐峺沈」を支えるパラドックス」「現実と仮想の際にて」を読みました。

《以下引用》…人間の「個性」とは、他人とのやりとりを通して獲得される共通の基盤の上に構成されるものだ…《引用終わり》

常識というか、基礎知識的な部分で、他人との共通項をきちんと共有していないで、ただ人と違うことをしても「個性」とはいえませんよ、ということです。モーツァルトを例に説明していますが、ピカソの方が分かりやすいんじゃないかな。

ピカソはとっても変わった絵を描きましたが、変わった絵しか描けなかったのではない。写実的な分かりやすい絵も奇麗に描いています。基礎的な技術をしっかり身に付けていたからこそ、「個性」として認められたのでしょうね。

《以下引用》…仮想と現実の相互作用のぎりぎりの際において、邪悪な犯罪者と偉大な表現者を分けるものは、結局そこに「愛」があるかどうかである。陳腐なようだが、私はそのように信じている。《引用終わり》

直江兼続のような意見です…

ゲームをやり過ぎて仮想と現実の区別がつかなくなって犯罪に走る若者が多いのだという説明は、私も間違いだと思います。ゲームとは無縁と思える高齢者の犯罪も増えているように思いますから…犯罪を犯したことがある人とない人とで、ゲーム等の仮想現実に触れる機会にどの程度の差があるのか、調査すべきだと思います。

この議論は、「自然の物なら何でも体にいい、人工の物は何でも体に悪い」的な意見と同根のような気がします。「天然のトリカブトや天然のフグの卵巣なら、口にできるのですか?」とお尋ねしたい。

「愛」という概念も、情念としては自然のものかもしれませんが、ここで言っているのはキリスト教的な理性的な概念だと思います。だから、それは人工的なものであるし、仮想だと思います。

例えば、篤い信仰の下、常に善行を施す人というのは、信仰しているその宗教の世界観・宇宙観にドップリ浸かっているんだと思いますが、これも列記としたバーチャルリアリティですよね。

仮想や人工が悪いとは限らない…

《つづく》

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チャプタ気痢崟こΔ蓮岼媼院廚鯢要としない?」「言語の恐ろしさ」「ニーチェとカツ丼」を読みました。

《以下引用》…世界の本質が、絶えざるダイナミクスによる世界の発展にだけあるのであれば、世界は意識を必要としない。すべては、無意識に進行していればよかったはずだからだ。《引用終わり》

うーん、世界が必要とするとかしないとか、世界自体が意識を持っているんだったら、お友達(となる意識)が必要なのでは?というか、比喩がかえって分かりにくいな。読みにくいな。

《以下引用》…ある概念の普遍性は、その概念の翻訳可能性と一致するとは限らない。たとえば、世界の中のある言語圏だけが到達し、把握している普遍性が存在するということはありうる。それでも、私たちは往々にして翻訳可能なものだけを普遍項として立てることを当然だとみなす。流通性と普遍性を安易に等式で結んでしまいがちなのである。《引用終わり》

漢文のまま取り込んで読み下してしまう日本人。英語をカタカナに置き換えて、そのまま使ってしまう日本人。おそらく他の言語でも同様のことは行われていると思うので、そんなに深刻でもないような気はしますけど。私は国際人じゃないから、分かんないのかな。

《以下引用》…意識とは、個別が普遍に接続する形式のことである。…人間は、個々の生という個別を生きていると同時に、時空間的な限定を受けない普遍をも生きている。「心ここにあらず」とは上の空の空想屋を揶揄する言葉であるが、まさに私たちは一人残らず、意識などというものを持ってしまったがために、世界という土壌をのたうち回るミミズには徹することができなくなっている。《引用終わり》

意識の超個的性格という話のようでもあるし、人間の宿命的な苦悩でもありますね。

《つづく》

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チャプタ気痢崟こΔ鬚修涼羶瓦播べるもの」「「曖昧さ」の芸術」を読みました。

《以下引用》…純粋培養の自然科学者にも、思想家にも、おそらくは世界全体を引き受けることなどできない。人が人として生きるということの困難さの核心、この世界を成り立たせている根本原理の神秘、ゲーテの『ファウスト』にいう「この世をその中心において統べているもの」を把握するためには、自然科学の卓越でも、思想の卓越でも足らない。両者の間に、思考の補助線を引かなければ、全体の構図は見えてこないのである。《引用終わり》

茂木さんも私も究極的に抱いている興味は同じところにあるようです。知らずに選んだこの本ですが、タイトルの補助線とはこういうことだったのですね。

《以下引用》…自然言語による思考は、曖昧だからこそ力を持つ、などと主張するつもりはない。ただ、曖昧さは確かに存在し、ときに疑いようもない力を言葉に与えることを確認するだけである。そのうえで、あえていえば、自然言語における思考とは、曖昧さの芸術なのである。恐ろしいことに、その曖昧であるはずの自然言語は、精密な自然法則に伴う脳内プロセスによって生み出されている。この点にこそ、安易な思考停止をすることなく、徹底的に考え抜くべき問題が潜んでいるのである。《引用終わり》

髄液の中にポッカリと浮かび、ホルモン等の化学物質の微妙な配合に影響を受けながらの脳の営みが、「精密な自然法則に伴う」ものと言えるのか?結局、曖昧なものではないのか?という疑問を私は抱いております。そして、探求を諦めている…すなわち思考停止。

思考停止を極力嫌う情熱家の冒険はどうなることやら…

《つづく》

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「序.内なる情熱」を読みました。自然科学をやる人は冷めた人が多いと思っていたので、なかなか情熱的な人なんだな〜と感心しました。経歴を見たら、東大の理学部と法学部を出ている。文系とか理系とかにこだわるな!と言うのも分かります。

「知る」ということは結局は脳に帰結する!という指摘は私も同感です。以前、そう思った時に手にした本が養老孟司であり、ペンローズ(茂木健一郎訳)だったのですから。

ちょっと首を傾げる比喩も多々あるのですが、それは私の文章とて同じでしょう。自称「自然哲学者」の文章を楽しんでいきたいと思います。

《つづく》

思考の補助線
思考の補助線

「他人のなかに存在している自己」という表現に興味を持ちました。これと対極的なのが「自分のなかにあって、本当の自分なんて自分にしかわからないはず」という西欧的で現代的な自己

前者の捉え方の場合、他人との関係において自己が出現してくる。自分というのは、他人の頭の中(心の中?)に散在しているもの。人間を「人の間」と表現するところに、昔はこの考え方が定着していたことがうかがえます。

後者は、自分は自分の頭の中だけに存在しているということ。だから、一人になりたがるんじゃないかと思いました。他人との境界を作りたがる。西洋では小さい時から個室を与えてしっかりとした個人主義を育ませるのだと、昔習いました。プライバシーという概念はこういう文化から生まれるのでしょう。プライバシーの無い日本家屋に住んでいたわたしは、最初はとても違和感を覚えました。(今もプライバシーという概念には疑問を持っていますけど・・・)

前者の場合、利他的精神は自然に生まれてくるように思います。が、後者の場合は利己的に向かうのが自然で、もうひとつ別な道徳(例えば宗教)でコントロール(束縛?)する必要があるのではないかと思います。

***

もうひとつ、自己は日々変化していくというのが東洋風で、自己に周囲(自然界)を従わせていくというのが西洋風というのも面白かった。これには仏教が関わっているような気がしました。何度も生まれ変わる中で、徳を積んで、少しずつ仏様に近づいて行きましょう!という教えだから、自分が日々変化しないことには進歩が無いわけです。自己が日々変化するということは養老さんの持論でもあり、僕も気に入っている考え方です。

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やっと、面白くなってきたなと思ったら、対談が終了してしまいました。なんとも残念な本です。

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オートとマニュアルという話が一番面白かったように思います。大脳(マニュアル)で何度も稽古をつけると、小脳にその動作の回路が出来上がり、オートマチックに体が動くようになる。いわゆる「体が覚える」ということですが、大脳生理学的に言うと小脳が覚えているということになります。「身体感覚を組み直す」ということは、小脳の回路を変更するということにもなるでしょう。

わたしの仕事の場合も、最初は一動作一動作考えながらしなければいけませんでしたが、今では凝っている場所で自然と手が止まるようになりました。「痛いところがよく分かるね」と言われると嬉しいものです。

この感覚は経験的に身に付くもので、学校で習うことはできないし、師匠から教えてもらうこともできません。患者さんと自分との間には、師匠すら介在することはできないと思います。ましてマニュアル(手引書)などできるわけがない。

古武術の真髄を本になどできるわけがないという甲野さんの意見は、わたしの仕事の場合もうなづけることです。弟子は師匠の技を盗んでいくのであって、教えてもらえるのではありません。昔の教え方の正しさがここにあると思います。

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甲野さんの「身体感覚を組み直す」ということは、一時期かなり注目されました。陸上競技やバスケットボール,卓球などのスポーツや介護の技術への応用が試みられました。一部成果があったのかもしれませんが、現在はどうなのでしょうか。

バスケットボールは、こちらの動作を相手が読みにくくなるというので効果があったようです。ただ、相手も研究するでしょうから、いずれは見破られるかもしれません。陸上競技はナンバ走りの応用で手をあまり振らない走り方が開発されましたが、今回の世界陸上ではそれが使われたのかどうか、成績はパッとしませんでした。

結局のところ、相手の意表を突く動作ということで格闘技には有効かもしれないのですが、日常動作において突拍子もない動作はむしろ危険なことのほうが多いような気がします。だから、残念ながら古武術の応用というのはかなり限定的なのかなと思っています。

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甲野さんが提唱したことで最も興味を引かれたのが「身体感覚を組み直す」ということです。

日常の何気ない動作も、たくさんの筋肉の協調作業なわけです。その協調のパターンは頭の中に小さい頃にできて、ほとんどそのまま何十年と使われ続けるのだと思います。そして、同じ動作でも人によってこのパターンは違います。

たとえば、頭を前に10センチ突き出すという場合でも、頚椎を主に曲げる人、胸椎を比較的使う人、腰椎を使う人といろいろなパターンがあるでしょう。さらに頚椎は7個、胸椎は12個、腰椎は5個あるから、その曲がり方の比率は無限通りあるはず。それによって、どの部分の骨や筋肉に負担が多くかかるかが変わります。体の凝り方に、人それぞれの癖があるのはこのためだと思います。

「身体感覚を組み直す」とは、このパターンを変えるということです。だからこれは治療にも絶対役立つなあと思ったのです。しかし、漠然としていて、ズバリとしたヒントはなかなか見つかりません。

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