トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Category: ★読書日記

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チャプタ気痢崟こΔ鬚修涼羶瓦播べるもの」「「曖昧さ」の芸術」を読みました。

《以下引用》…純粋培養の自然科学者にも、思想家にも、おそらくは世界全体を引き受けることなどできない。人が人として生きるということの困難さの核心、この世界を成り立たせている根本原理の神秘、ゲーテの『ファウスト』にいう「この世をその中心において統べているもの」を把握するためには、自然科学の卓越でも、思想の卓越でも足らない。両者の間に、思考の補助線を引かなければ、全体の構図は見えてこないのである。《引用終わり》

茂木さんも私も究極的に抱いている興味は同じところにあるようです。知らずに選んだこの本ですが、タイトルの補助線とはこういうことだったのですね。

《以下引用》…自然言語による思考は、曖昧だからこそ力を持つ、などと主張するつもりはない。ただ、曖昧さは確かに存在し、ときに疑いようもない力を言葉に与えることを確認するだけである。そのうえで、あえていえば、自然言語における思考とは、曖昧さの芸術なのである。恐ろしいことに、その曖昧であるはずの自然言語は、精密な自然法則に伴う脳内プロセスによって生み出されている。この点にこそ、安易な思考停止をすることなく、徹底的に考え抜くべき問題が潜んでいるのである。《引用終わり》

髄液の中にポッカリと浮かび、ホルモン等の化学物質の微妙な配合に影響を受けながらの脳の営みが、「精密な自然法則に伴う」ものと言えるのか?結局、曖昧なものではないのか?という疑問を私は抱いております。そして、探求を諦めている…すなわち思考停止。

思考停止を極力嫌う情熱家の冒険はどうなることやら…

《つづく》

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「序.内なる情熱」を読みました。自然科学をやる人は冷めた人が多いと思っていたので、なかなか情熱的な人なんだな〜と感心しました。経歴を見たら、東大の理学部と法学部を出ている。文系とか理系とかにこだわるな!と言うのも分かります。

「知る」ということは結局は脳に帰結する!という指摘は私も同感です。以前、そう思った時に手にした本が養老孟司であり、ペンローズ(茂木健一郎訳)だったのですから。

ちょっと首を傾げる比喩も多々あるのですが、それは私の文章とて同じでしょう。自称「自然哲学者」の文章を楽しんでいきたいと思います。

《つづく》

思考の補助線
思考の補助線

「他人のなかに存在している自己」という表現に興味を持ちました。これと対極的なのが「自分のなかにあって、本当の自分なんて自分にしかわからないはず」という西欧的で現代的な自己

前者の捉え方の場合、他人との関係において自己が出現してくる。自分というのは、他人の頭の中(心の中?)に散在しているもの。人間を「人の間」と表現するところに、昔はこの考え方が定着していたことがうかがえます。

後者は、自分は自分の頭の中だけに存在しているということ。だから、一人になりたがるんじゃないかと思いました。他人との境界を作りたがる。西洋では小さい時から個室を与えてしっかりとした個人主義を育ませるのだと、昔習いました。プライバシーという概念はこういう文化から生まれるのでしょう。プライバシーの無い日本家屋に住んでいたわたしは、最初はとても違和感を覚えました。(今もプライバシーという概念には疑問を持っていますけど・・・)

前者の場合、利他的精神は自然に生まれてくるように思います。が、後者の場合は利己的に向かうのが自然で、もうひとつ別な道徳(例えば宗教)でコントロール(束縛?)する必要があるのではないかと思います。

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もうひとつ、自己は日々変化していくというのが東洋風で、自己に周囲(自然界)を従わせていくというのが西洋風というのも面白かった。これには仏教が関わっているような気がしました。何度も生まれ変わる中で、徳を積んで、少しずつ仏様に近づいて行きましょう!という教えだから、自分が日々変化しないことには進歩が無いわけです。自己が日々変化するということは養老さんの持論でもあり、僕も気に入っている考え方です。

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やっと、面白くなってきたなと思ったら、対談が終了してしまいました。なんとも残念な本です。

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オートとマニュアルという話が一番面白かったように思います。大脳(マニュアル)で何度も稽古をつけると、小脳にその動作の回路が出来上がり、オートマチックに体が動くようになる。いわゆる「体が覚える」ということですが、大脳生理学的に言うと小脳が覚えているということになります。「身体感覚を組み直す」ということは、小脳の回路を変更するということにもなるでしょう。

わたしの仕事の場合も、最初は一動作一動作考えながらしなければいけませんでしたが、今では凝っている場所で自然と手が止まるようになりました。「痛いところがよく分かるね」と言われると嬉しいものです。

この感覚は経験的に身に付くもので、学校で習うことはできないし、師匠から教えてもらうこともできません。患者さんと自分との間には、師匠すら介在することはできないと思います。ましてマニュアル(手引書)などできるわけがない。

古武術の真髄を本になどできるわけがないという甲野さんの意見は、わたしの仕事の場合もうなづけることです。弟子は師匠の技を盗んでいくのであって、教えてもらえるのではありません。昔の教え方の正しさがここにあると思います。

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甲野さんの「身体感覚を組み直す」ということは、一時期かなり注目されました。陸上競技やバスケットボール,卓球などのスポーツや介護の技術への応用が試みられました。一部成果があったのかもしれませんが、現在はどうなのでしょうか。

バスケットボールは、こちらの動作を相手が読みにくくなるというので効果があったようです。ただ、相手も研究するでしょうから、いずれは見破られるかもしれません。陸上競技はナンバ走りの応用で手をあまり振らない走り方が開発されましたが、今回の世界陸上ではそれが使われたのかどうか、成績はパッとしませんでした。

結局のところ、相手の意表を突く動作ということで格闘技には有効かもしれないのですが、日常動作において突拍子もない動作はむしろ危険なことのほうが多いような気がします。だから、残念ながら古武術の応用というのはかなり限定的なのかなと思っています。

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甲野さんが提唱したことで最も興味を引かれたのが「身体感覚を組み直す」ということです。

日常の何気ない動作も、たくさんの筋肉の協調作業なわけです。その協調のパターンは頭の中に小さい頃にできて、ほとんどそのまま何十年と使われ続けるのだと思います。そして、同じ動作でも人によってこのパターンは違います。

たとえば、頭を前に10センチ突き出すという場合でも、頚椎を主に曲げる人、胸椎を比較的使う人、腰椎を使う人といろいろなパターンがあるでしょう。さらに頚椎は7個、胸椎は12個、腰椎は5個あるから、その曲がり方の比率は無限通りあるはず。それによって、どの部分の骨や筋肉に負担が多くかかるかが変わります。体の凝り方に、人それぞれの癖があるのはこのためだと思います。

「身体感覚を組み直す」とは、このパターンを変えるということです。だからこれは治療にも絶対役立つなあと思ったのです。しかし、漠然としていて、ズバリとしたヒントはなかなか見つかりません。

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日本人は単線的な物差しになじめないという指摘があります。ただ速く走るとか、高く飛ぶとかいうことだけでは評価したがらない。入試もひとつの科目だけでするということはあまりしないで、複数の科目で行い平均を出したりする。

このあたりにも日本人批判ぽいニュアンスを感じて、わたしは違和感を感じます。これは悪いことなんじゃなくて、日本人のいいところなんじゃないかなと。養老さんは西洋医学の人だから仕方ないとしても、武術研究家の甲野さんが同調しているのは好きになれない。

武術には「競うこと自体よりも、つねに自分のなかと向き合う状況というのを重くみている」という甲野さんの発言がすごくいいですね。スポーツは、ただ速ければいい、高ければいい、点を多く入れればいいという単純さが良い点でもありますが、自分の人間的な成長とは必ずしも結びつかないと思います。

その傾向は最近顕著かもしれない。「スポーツをする人に悪い人はいない」と言われて納得する人は、今はいないんじゃないかな?

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言葉ですべてを表現できるはずがない。それと同じように、人の心を磨いていく「道」というものも人それぞれで、自分と同じ道を他人が歩むわけがない。

漠然とそんなことを今まで思ってきました。それが、心中心の日本文化に見られる考え方だと指摘されているようです。積み上げがきかないから「道」になる。

西洋では(とひとまとめにしていいかどうか分からないけれど)、科学がそうであるように、再現性が重視されているようです。つまり、だれがやっても、同じ条件で行えば必ず同じことが起きる。再現性は、科学の必要条件のひとつです。

マニュアル化も、この延長線上にあると思います。だれがやっても同じようにできるように、紙に書いてまとめておく。そこには「仕事はだれでも同じようにできるのだ」という前提があります。そしてもうひとつ。「そういうコツは言葉にまとめることができるのだ」という前提。わたしはとても強引な前提のように思うのだけれども。

昔の職人は「師匠の仕事をずっと見続けて、技術を盗め」と言われました。マニュアルとかテキストは存在しない。ただ、ひたすら自問自答と暗中模索を繰り返して、自分の技術を創り上げていく。

わたしも、接骨院で見習いをしていたときに思いました。先生と同じように弟子が施術できるようになる、なんてことがあるのだろうか?あくまでも、先生の技術を参考にしながら自分の技術を高めていくことしかできないのではないだろうか?だから、先生の技術の真髄をテキストにまとめるなんてこともできないのではないだろうか?

日本文化にはそういう前提があると、わたしは思います。だから、日本文化に批判的な感じのお二人の対談には違和感を感じます。

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日常の当たり前のことは文章に残さない。つまりに記録に残らないから、史料として残らない。というのは、面白いことです。だから、小学生の作文のような文章が貴重な史料となるかもしれない。「なんでこんな当たり前なこと書くんだよ!」と思うようなくだらないわたしのブログなんかが…

西洋には「言葉にならないものは存在しない」という考え方が強いが、日本は逆だという養老さんの発言がありました。これが本当なら、西洋の文化は浅薄なのかもしれないと思いました。言葉にできないことは、とても多い。言葉にした瞬間、どうしても違和感を感じるということは多々あります。

表現したいもの(情感)をズバリ言うのを諦めて、いくつかの言葉からにじみ出てくるイメージを重ね合わせることでそれを表現しようというのが、和歌なのかもしれません。

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道を究めるということはどうしても脳で行われる作業なので、心へ傾倒していき、精神論に向かっていくのはやむをえないことなのかもしれません。それは、東洋医学の場合もあてはまると思います。ツボという解剖学的に存在しない器官を治療対象とし、経絡とか気の流れというこれまた科学では把握できないもので理論付けを行っていますから、奔放なまでに精神の世界に入り込むことができます。

だからこそ、気をつけなければいけないと僕は思っています。西洋医学的に明確な病気、つまり解剖学的にきちんと説明できる病気や、ウイルスや細菌など病因がはっきりわかる病気に関して、ツボとか経絡とか気とかを持ち出すべきではないと。

「東洋医学で治らないものはない」と豪語する人にお会いして、あぜんとしたことがあります。東洋医学は科学的解析が難しいので、正当な評価も難しいのです。過小評価もありますが、このような過大評価もあります。

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