トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Category: ★読書日記

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チャプタ?の「君はまだ「神」を殺していない」「貧者の一灯」を読みました。

《以下引用》…アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』で考察したのは、神によって罰を受け、岩を押して坂道を上ることを永遠にくり返す運命に落とされた男の物語である。男は、その宿命から逃れることができない。死ぬこともできない。永遠にそのような意識の流れの中に閉じ込められてしまっている。しかし、そのような定めから離れて彼の生命はなく、それこそがまさに自身の自己同一性の証しであるということに思い至ったとき、男は無限の自由を感じるとカミュは書く。…《引用終わり》

茂木さんも、これを引用して、「生の有限性」を経由せずして思考の自由はない、と説きます。人間は「自分はカスなんじゃないか?」という絶望感に直面しないようではダメなんじゃないか?と前に書きました。

自己嫌悪、自己否定に苦しみながらも、その嫌な「自分」から抜け出せないということは、逆に言うと「自分」という殻が強固なものである証です。殻とも見なせるし、鎧とも見なせるし。その確固たる「自分」の中では、ある種の自由を感じることができるのではないだろうか?

実際には、心身ともに刻一刻と変化しているのが「自分」です。自己同一性が保たれることの方が不思議なんですけどね…

《以下引用》…くり返し言おう。宇宙は不条理である。この世にはさまざまな物質のあり様があるだけであり、私たち人間の倫理規則にどんな根拠があるのか、そんなことはわかりようがない。私たちを感動させる芸術体験も、その表象的起源がどこにあるのか、わかりはしない。現代のすべての学芸は、そのような無根拠の砂の上につくられた楼閣である。…《引用終わり》

いまさらこんなことがこの本の結論だったのか…とちょっと驚いてしまいました。理工学から法学にいたるまでを日本の最高学府で学んだ茂木さんでさえ、こんなものなのかと。私が探しているのは、まさにその先であります。

《以下引用》…今の私たちにできることは、時代の制約をわがこととして引き受けて、ささやかな貧者の知の一灯を点すことであろう。…《引用終わり》

これが結語なのですが、「一灯照隅」(最澄の言葉)を思わせるこの一文には苦笑してしまいました。やはり仏教しかないのかな…

《最初から読む》

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チャプタ垢痢崛躪臈知性と専門的知性」「「収束性」という罠」を読みました。

《以下引用》…元来、脳の中の神経細胞のネットワークが、「専門的領域」へと塗り分けられているわけではない。脳の中には、どの神経細胞からどの神経細胞へもせいぜい数回の「シナプス結合」を通せば到達できる「スモール・ワールド・ネットワーク」が存在する。表面的に見れば遠く隔たり、関係のないように見える能力の発露も、脳の生理的特性の実際に即して考えれば、実はお互いに関連しあっている。…《引用終わり》

これは、とっても興味ある記述でした。薄々勘付いてはいましたが、「やっぱりそうなのか!」という感じ。おそらく、その人なりの思考回路がユニークな形で出来上がっていて、それがCPUのようにどんな分野の情報をも処理しているんでしょうね。

少なくとも、脳の外で便宜的に行われているカテゴリーの分類に即して、脳細胞の部分部分がきれいに機能分担しているとは考えられない。つまり脳から見たとき、専門性というのは幻想に過ぎない。

《以下引用》…宗教から芸術まで、そして科学においても。「立派なもの」としてある価値を立て、そこへの収束を目指す。人間精神がそのような傾向を持つに至った理由は明らかではないが、この点にこそ、人類が生命現象の本質をとらえ損なってきたことの根本的原因がある。…《引用終わり》

私もドーキンスの本を読んだ時に、そう思いました。さらに、全てのことをとらえるのは脳であり、脳もまた生命現象であることを想起した時に、人類が全てのことをとらえ損なってきたことの根本的原因なのではないか…と思ったりしています。

日常的な事柄についてでさえ、「立派なもの」を中心に据えて、物事を考えている人はとても多いような気がします。

《つづく》

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チャプタ犬痢峪羂賈腓諒源列に「真理」は宿るか」「批評性と創造」「怒りについて」を読みました。

いかに深遠な思想といえども、紙一枚に書かれた文字列の価値を理解するのは脳であるから、脳との出会いが無ければただの汚れた紙切れになってしまいます。茂木さんが脳の研究に傾いていったのはそこなのでしょうね。

批評性を放棄した創造は良くない、ということを書いています。日本人は批評性が乏しい(真摯な批評というものを許容する精神的雅量に乏しい)のだそうです。私は、これは分からない。

「感情における「正」も「負」も、結局は脳の中の神経細胞の相互結合にもとづくダイナミクスから生み出される状態の持つ性質にすぎない。」だから、「負」ばかりの人生の中から「正」を創造する「錬金術」も可能である。時として怒りが、大きな創造エネルギーを生み出すことがある。

「錬金術」のような人生…この表現は素敵だな。

《つづく》

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チャプタ靴痢峇蕎陲竜蚕僉廚肇船礇廛伸犬痢屐峅礎諭廚呂匹里茲Δ坊茲泙襪」を読みました。

《以下引用》…私たちは、インターネット上の有限の知のくり広げる世界に幻惑されることなく、また、全体を引き受けることが不可能となった事態に対して不真面目な態度をとることなく、中世のスコラ哲学のごとく、あるいは、はじめて夜空を見上げる青年のように、無限や不可能に対する真摯な感情をこそ抱くべきなのではないか。…《引用終わり》

そうですね。「だから何だ!?」って感じですけどね。

《以下引用》…脳が文脈依存的なかたちで色を認識するという戦略を選択したのは、そうすることが複雑に変化する環境を把握するうえで有効だったからである。そこにあるのはまさに偶有性に満ちたダイナミクスであるが、私たちの意識の中で感じられるクオリアに寄り添っている限り、私たちはそのプラトン性に目を奪われてその背後にある偶有性をついつい忘れてしまう。…《引用終わり》

昼間の太陽と日没前の太陽では光の波長構成が異なるのに、家の屋根の色はほとんど同じに見える(色の恒常性)という話は興味深かった。やはり脳科学者。専門分野の著作を読むべきかな…

きれいなイデアの世界がまず有るのではなくて、五感から伝えられるバラバラな情報を脳が組み立てたものが、物の概念だということでしょうか。

《つづく》

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チャプタ靴痢屐崔里離汽屮ル化」を超えて」「この世界のすべてを引き受けて」「無限と空白」を読みました。

《以下引用》…本書の問題設定である「思考の補助線」というタイトルには、その構想時において、ある危機意識が込められていた。現代の知がはからずも断片化してしまっており、そのばらばらの破片をかき集めてみても、世界の像が一つに結ばない。そのような現状に対する個人的なあせりと悲しみのようなものを引き受けたうえで、じっくりと考えてみたいと思っていたのである。…《引用終わり》

そういうことは私も感じていましたが、西洋の研究の流儀では仕方がないのかな…と思っていました。個々に専門の分野を決めて、横の連携もなく掘り下げていけば、隣の穴でどこまで掘り進んでいるのか?隣の穴を掘っている人と自分の位置関係はどうなのか?わかるわけがない。

《以下引用》…「世界全体を引き受ける」ということが、若いときからの私の密かな野望であった。…《引用終わり》

それは野望というよりも無謀ですね。様々な研究を重ねれば、世界の像が一つに結ばれるんでしょうかね?シンプルな一つの像に収束するのであれば、全体を引き受けるという発想も出てくるでしょうが、収束する気配が全く無い現段階でそれを目指すのは、どうかな…

ただ、それができた後に目指すもの、つまりその延長線上にある目的は「皆の幸せ」だと思います。私は茂木さんほど勇敢ではないので、世界の像が収束しない前提で「皆の幸せ」を目指す方法はないかと模索しております。それが「哲学としての仏教」であり、「私の野望」です。

《つづく》

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《以下引用》…いわれなき差別に苦しむ人を救うのは当然のことである。みずからの内なる偏見と闘うのは人間の義務だ。そのうえで、「みんなちがって、みんないい」というラジカルなスタンスをどれくらい本気で貫けるか。…《引用終わり》

身の回りのいろいろな物事を区別し、分類し、順番を付けて垂直に並べていく能力は、日常生活で必要なことです。生きるために、毎日この能力はトレーニングされます。だからその弊害としての差別とか偏見は、まともな人なら必ずみんな持っているはず。これを克服するのは、壮絶な覚悟が必要だと思います。

《以下引用》…いまだ人類が到達したことのない頂を目指し、薄い酸素の中で苦闘してこそ、はじめて得られる快楽がある。…《引用終わり》

「わかりやすさ」だけが受ける昨今の風潮を、山の広い裾野(底辺)を目指すこととして、嘆いています。そういう動きもあっていいけど、山の天辺(頂点)を目指すのも必要でしょう、という主張。高地トレーニングのように、高い所で苦闘したあとに達成できた喜びは格別なはず。

垂直線を引くことをある時は抑え、ある時は没頭する。そのメリハリが知的生活においても重要なことですね。

《つづく》

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チャプタ兇痢屐峺沈」を支えるパラドックス」「現実と仮想の際にて」を読みました。

《以下引用》…人間の「個性」とは、他人とのやりとりを通して獲得される共通の基盤の上に構成されるものだ…《引用終わり》

常識というか、基礎知識的な部分で、他人との共通項をきちんと共有していないで、ただ人と違うことをしても「個性」とはいえませんよ、ということです。モーツァルトを例に説明していますが、ピカソの方が分かりやすいんじゃないかな。

ピカソはとっても変わった絵を描きましたが、変わった絵しか描けなかったのではない。写実的な分かりやすい絵も奇麗に描いています。基礎的な技術をしっかり身に付けていたからこそ、「個性」として認められたのでしょうね。

《以下引用》…仮想と現実の相互作用のぎりぎりの際において、邪悪な犯罪者と偉大な表現者を分けるものは、結局そこに「愛」があるかどうかである。陳腐なようだが、私はそのように信じている。《引用終わり》

直江兼続のような意見です…

ゲームをやり過ぎて仮想と現実の区別がつかなくなって犯罪に走る若者が多いのだという説明は、私も間違いだと思います。ゲームとは無縁と思える高齢者の犯罪も増えているように思いますから…犯罪を犯したことがある人とない人とで、ゲーム等の仮想現実に触れる機会にどの程度の差があるのか、調査すべきだと思います。

この議論は、「自然の物なら何でも体にいい、人工の物は何でも体に悪い」的な意見と同根のような気がします。「天然のトリカブトや天然のフグの卵巣なら、口にできるのですか?」とお尋ねしたい。

「愛」という概念も、情念としては自然のものかもしれませんが、ここで言っているのはキリスト教的な理性的な概念だと思います。だから、それは人工的なものであるし、仮想だと思います。

例えば、篤い信仰の下、常に善行を施す人というのは、信仰しているその宗教の世界観・宇宙観にドップリ浸かっているんだと思いますが、これも列記としたバーチャルリアリティですよね。

仮想や人工が悪いとは限らない…

《つづく》

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チャプタ気痢崟こΔ蓮岼媼院廚鯢要としない?」「言語の恐ろしさ」「ニーチェとカツ丼」を読みました。

《以下引用》…世界の本質が、絶えざるダイナミクスによる世界の発展にだけあるのであれば、世界は意識を必要としない。すべては、無意識に進行していればよかったはずだからだ。《引用終わり》

うーん、世界が必要とするとかしないとか、世界自体が意識を持っているんだったら、お友達(となる意識)が必要なのでは?というか、比喩がかえって分かりにくいな。読みにくいな。

《以下引用》…ある概念の普遍性は、その概念の翻訳可能性と一致するとは限らない。たとえば、世界の中のある言語圏だけが到達し、把握している普遍性が存在するということはありうる。それでも、私たちは往々にして翻訳可能なものだけを普遍項として立てることを当然だとみなす。流通性と普遍性を安易に等式で結んでしまいがちなのである。《引用終わり》

漢文のまま取り込んで読み下してしまう日本人。英語をカタカナに置き換えて、そのまま使ってしまう日本人。おそらく他の言語でも同様のことは行われていると思うので、そんなに深刻でもないような気はしますけど。私は国際人じゃないから、分かんないのかな。

《以下引用》…意識とは、個別が普遍に接続する形式のことである。…人間は、個々の生という個別を生きていると同時に、時空間的な限定を受けない普遍をも生きている。「心ここにあらず」とは上の空の空想屋を揶揄する言葉であるが、まさに私たちは一人残らず、意識などというものを持ってしまったがために、世界という土壌をのたうち回るミミズには徹することができなくなっている。《引用終わり》

意識の超個的性格という話のようでもあるし、人間の宿命的な苦悩でもありますね。

《つづく》

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チャプタ気痢崟こΔ鬚修涼羶瓦播べるもの」「「曖昧さ」の芸術」を読みました。

《以下引用》…純粋培養の自然科学者にも、思想家にも、おそらくは世界全体を引き受けることなどできない。人が人として生きるということの困難さの核心、この世界を成り立たせている根本原理の神秘、ゲーテの『ファウスト』にいう「この世をその中心において統べているもの」を把握するためには、自然科学の卓越でも、思想の卓越でも足らない。両者の間に、思考の補助線を引かなければ、全体の構図は見えてこないのである。《引用終わり》

茂木さんも私も究極的に抱いている興味は同じところにあるようです。知らずに選んだこの本ですが、タイトルの補助線とはこういうことだったのですね。

《以下引用》…自然言語による思考は、曖昧だからこそ力を持つ、などと主張するつもりはない。ただ、曖昧さは確かに存在し、ときに疑いようもない力を言葉に与えることを確認するだけである。そのうえで、あえていえば、自然言語における思考とは、曖昧さの芸術なのである。恐ろしいことに、その曖昧であるはずの自然言語は、精密な自然法則に伴う脳内プロセスによって生み出されている。この点にこそ、安易な思考停止をすることなく、徹底的に考え抜くべき問題が潜んでいるのである。《引用終わり》

髄液の中にポッカリと浮かび、ホルモン等の化学物質の微妙な配合に影響を受けながらの脳の営みが、「精密な自然法則に伴う」ものと言えるのか?結局、曖昧なものではないのか?という疑問を私は抱いております。そして、探求を諦めている…すなわち思考停止。

思考停止を極力嫌う情熱家の冒険はどうなることやら…

《つづく》

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「序.内なる情熱」を読みました。自然科学をやる人は冷めた人が多いと思っていたので、なかなか情熱的な人なんだな〜と感心しました。経歴を見たら、東大の理学部と法学部を出ている。文系とか理系とかにこだわるな!と言うのも分かります。

「知る」ということは結局は脳に帰結する!という指摘は私も同感です。以前、そう思った時に手にした本が養老孟司であり、ペンローズ(茂木健一郎訳)だったのですから。

ちょっと首を傾げる比喩も多々あるのですが、それは私の文章とて同じでしょう。自称「自然哲学者」の文章を楽しんでいきたいと思います。

《つづく》

思考の補助線
思考の補助線

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