「遊び」も「勉強」も「仕事」も、大別して二つの種類があるような気がずっとして、モヤモヤしていたのだが、やっと整理がついた。「人と同じ○○」か「人と違う○○」かということだ。

高度経済成長期は「人と同じ仕事」を文句も言わず疑問も持たずにやってくれる人がたくさんいれば良かった。でも、もうそういう時代ではないことは明らか。今ある仕事のほとんどがもうすぐ無くなるかもしれない、と言われて既に何年か経っている。

昨日まで安全だと思って乗っていた大船(おおぶね)が、いつの間にか泥船に変わっている。いち早く水に飛び込んで、それぞれが信じる方向に自分で泳ぎ出さなければいけない瞬間が既に来ているのだ。

全員に共通した成功法など存在しない。神すらそれを知らない。でも、結果的に大丈夫な場所にたまたま泳ぎついた者だけに、神は手を差し伸べる。ずっと前からそうだった。人類が生まれる前から神はそうしていた。それが、この世の掟。

水の中は冷たいので、草原に移ろう。誰かが落としたコンタクトレンズを探す時のように、私たちの祖先はそれぞれが思う方向を手分けして獲物を探した。同じ場所を探す仲間など、この段階では要らない。

自分が探している場所には無さそうだと判断したら、すかさず別な場所に移る。これまで探したことは無駄だったなどと悲嘆にくれる必要はない。今まで探した場所には居ないと分かったことは失敗ではない。探す範囲が狭まったことは、むしろ小さな成功だ。小さく喜んで、別な場所を探し始めよう。

自分が探している場所に有りそうだと思ったら、周りに合図を送ろう。その場所をより詳しく調べるために。獲物を見つけたら、みんなで取り囲めるように。

狩猟であれば、みんなで同じことをするフェーズと違うことをするフェーズの切替は数分単位で発生しただろう。それを月単位にしたのが農業の発明。しかも、多人数での定住が始まったから、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な集団心理と、判断を誤れば全滅する危険性をも獲得した。

でも、それ以来ずっと私たちはみんなで同じことをしてきたわけではない。同じ農業をするにしても、米にするか、麦にするか、果樹にするか…絶えず別な作物を探さなければいけない事態は次々と訪れた。その度に私たちは、バラバラに広がって探索し、コミュニケーションを取りながら可能性を絞り込み、存亡の危機を乗り越えてきたのだ。

今まさに、何度目かの探索のフェーズがやってきた。仕事が変わり、必要とされる人材も変わるのだから、教育が変わらねばならないのは当然の帰結だ。人と同じ知識を、よりたくさん覚えるという学習は、最早意味をなさないのだ。

これまで知り得た情報を基に、これまでとは違う方法を見つけ出していく人を育てなければならない。たった一人になっても、自分の好奇心を守り、自分の能力を信じて、孤高を保てる人を育てなければならない。かと言って、自分の方法がダメだと分かったら、頑なにならず、これまでを嘆くこともせず、むしろ小さく喜ぶ柔軟な人を育てなければならい。逆に、自分の方法が良さそうだと気づいたら、勝ち誇ることはせず周囲に呼びかけ、コミュニケーションを取りながら掘り下げて広げていける人を育てなければならない。

そのためには「遊び」も選ばなければならない。お行儀よく座って黙って没頭できるゲーム、おとなしく長時間並んでからシートベルトを締めて乗るアトラクション…それはタスクではないのか?

「遊び」は子どもにとって勿論とても大切なことだが、大人にとっても同じだ。冗談が通じる柔軟な空間で、常識に囚われない好奇心と根拠のない自信のままに突き進む冒険心を醸成する…そんな「タスク」ではない「遊び」が必要だ。

だいぶ長くなったが、最後にもう一つ。一人の人間の中にも、昨日と同じことをすべきフェーズと昨日と違うことをすべきフェーズがある。人間は、違うことをすると疲れるので、昨日と同じことを繰り返しがちである。でも、それは「老いる」ということだ。

人と同じこと、昨日と同じことに飽きて、今日は違うことをする…それを繰り返すことで、私たちは人類になったのだと思う。