歴史、特に戦の辺りが好きだ。必ず死傷者が伴っているわけだから不謹慎ではあるのだが、どこかロマンを感じてしまう。

愛知に住む友人に、信長・秀吉・家康に関わる古戦場が多くて羨ましいと言ったら、隣の芝生でしょうと言われた。言われて思い出した。すぐ近くの「鷺ノ森」は古戦場だった。

・関ヶ原合戦が終わっても、東北では…

天下分け目の関ヶ原。何年も前から家康と三成はきな臭い感じになっていた。だから、きっかけは何でも良かったのだろうけど、直江状→家康の上杉討伐が引き金ということになっている。家康の肩透かしに会うまでは、間違いなく上杉が片方の主役だったのだ。

関ヶ原はあっという間に決まった。これが家康の思惑通りだったとしたら鮮やかと言う他ない。後世の人間は結果を知っているから家康に確信があったように見えてしまうが、そんなことは無かっただろう。直江兼続も最上義光も伊達政宗も、この展開には仰天したはずだ。関ヶ原が決した後も、半月ばかり東北では合戦が続いていたのだから。

全国区の主役だったはずの上杉が駆けつける間もなく、大勢は決してしまった。

・上杉 vs 東根、鷺ノ森の合戦!

そんなこととはつゆ知らず、いわゆる「北の関ヶ原」は上杉が優勢だった。最上と伊達の軍勢を足しても上杉には数で及ばない。その上、伊達は本腰を入れていなかったようだ。そんな中で善戦したのが東根城である。城主景佐(かげより)は長谷堂合戦(山形市)に参戦中。留守を、白岩→寒河江→谷地と快進撃の上杉軍が襲った。その戦場となったのが我が家の近くの鷺の森である。

この辺りはずっと湿地帯だったようで、ぬかるみが上杉軍の足を阻んだ。東根方の半田助左衛門が敵から奪ったという法螺貝が、現在戸村さん宅に保管されているという。そのすぐ近くに半田さんが住んでいる。とても温厚な人なので半田助左衛門の子孫なのかは分からない。機会があれば聞いてみよう。

・東根城城主景佐は先代を弑逆した?

さて、城主景佐であるが、先代の頼景を弑逆したようだ。頼景の弟で、頼景が酒田城攻めの際に死んだので家督を継いだという記録もあるようだが、最上義光の調略だろう。最上義光という人は調略や騙し討ちが多い印象がある。正々堂々と戦わなかった陰険な奴と思われがちだが、そこはスポーツとは違う。戦となれば人道的にも経済的にも多大の犠牲が伴う。これを避けるのが兵法では上策とされる。

調略や騙し討ちの記録が他の武将よりも多いのだとしたら、それは成功率が高かったからではないだろうか?こういうのはうまくいかなかったら、みんな知らんぷりだろうから。

・先代頼景の子孫はどうなった?

頼景の子孫は、坂本神社(岩手県和賀郡西和賀町沢内前郷3-21)付近に逃げた。その後、秋田県仙北郡美郷町六郷東根に移住。坂本姓を名乗る(坂本は東根氏初代頼高の姓)。

この血筋は明治期に花開いた。衆議院議員を務めた坂本理一郎を生んでいる。犬養毅とも親交があり中央政界で活躍できそうだったが、地方農村の遅れを看過できず帰郷。郷里の発展に尽力している。美郷町のヒーローだ。

なんだか、ホッとした。

【これから訪ねたい所】
・坂本神社(岩手県和賀郡西和賀町沢内前郷3-21)
・秋田県仙北郡美郷町六郷東根
・坂本東嶽邸(秋田県仙北郡美郷町千屋字中小森91)

【参考文献】
・「やまがた地名伝説 第一巻」山形新聞社刊
武将ジャパン
・Wikipedia 「東根氏」「東根頼景」「坂本理一郎」「東根景佐
秋田県美郷町サイト
最上義光歴史館サイト