栗原さんの家には、毎週土曜日の夕方に伺うことになっていた。

その日は夏だった。盛夏と言えるほど暑くはなかったけれど、十分暑かった。冷房を効かせた車から降りるとムッと暑さを感じた。シャツと肌の間を占める空気が暑くならないうちに、急いで栗原さんの家の中に入った。

ところが、栗原さんがいつもの挨拶の後に言った言葉は意外だった。「寒いよね。ヒーターつけようか?」

私は耳を疑った。相手が家族なら「はあ!?」と言うところだが、お客様に対してそれはありえない。

「そうですね…でも、ヒーターはつけなくとも大丈夫ですよ。」と言うのがやっとだった。

栗原さんは80歳を越えたお婆さん。本音と建前を使い分けていた世代であり、特に栗原さんはそれを大切にしているタイプ。私の言葉を、そのまま受け取ったりはしない。

「先生は真面目だから…遠慮して。」と素敵な微笑みを浮かべて、栗原さんはファンヒーターの電源を入れた。

私は「真面目じゃありません。本当のことしか言いません。素直な人間です。」と心の中で繰り返したが、耳が遠い彼女に心の声が聞こえるはずもない。

施術を始める前から、私の体からは汗が吹き出し始めた。気を紛らせようと、話題を探した。

「先日は神田さんをご紹介下さってありがとうございます!昨日行ってきましたよ。」と言うと、
「そうだったね。2時ごろでしょ?」と栗原さん。

神田さんの家は、栗原さんの家とは通りを挟んで向かい側にある。栗原さんの部屋の窓からは神田さんの玄関がよく見えるのである。

「神田さんとは同い年くらいですか?」
「ウメちゃんは85で、私は82よ。」

「あー、そうなんですね。だいたい同じですね。」
「え?全然違うわよ!私は3つ若いのよ!」

きつい口調で否定された。本音だ。さっきから滝のように流れていた汗に、冷や汗が加わった。

栗原さんはこの家に生まれ、お婿さんをもらい、ここに家庭を築いた。神田さんは結婚して一度は東京に住んだが、旦那さんが亡くなってからこちらに帰ってきた。二人は幼なじみである。3歳の子供と0歳の赤ちゃんでは全然違う。この二人はその頃からの付き合いで、歳の差もそのままなのだ。

〈つづく〉
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