*** My client showed me her aneurysm. ***
阿部光代さん(仮名)と出会ったのは、前回の山下さんのお宅でだった。山下さんに施術している最中に、阿部さんが立ち寄ったのだった。
阿部さんも80代。腰椎に圧迫骨折があり、体勢を変える時は痛みを感じるけれども、じっとしている分には痛みは無い。それでも車の運転は無理だから、お嫁さんが時には運転手、時には看護婦、時には秘書となり、常に脇に控えていた。お嫁さんと言っても、娘もいて、孫もいる。孫を幼稚園に迎えに行くのも彼女の仕事だった。
だから、光代さんの治療が自宅でできるとしたら、願っても無いことだったようだ。
彼女の自宅はサクランボ畑の真ん中にあった。この地域は今でこそ壮大な果樹畑であるが、光代さんが移ってきたころには荒地だったらしい。土の上に石がゴロゴロしていて、そのままでは何も作れないやせた土地だった。
それを日本一のサクランボの産地に仕立て上げた苦労は、とても我々には想像できない。彼女の家は大きくて立派な上に、高価な置物がたくさん飾ってある。少し変形した彼女の腰だけが、当時の苦労を物語っている。
彼女から依頼が来るときは、いつも近所の御茶飲み友達が3人くらい来ていて、一緒に施術をした。ある人は腰に、ある人は膝に、ある人は肩に、それぞれ若い時の苦労が深く刻まれていた。
そんな治療が数年途絶えて、久しぶりに電話をいただいた。秘書のような、あのお嫁さんからだった。
伺うと、奥の光代さんの部屋に通された。部屋の真ん中に介護用のベッドが置かれ、光代さんが横になっていた。寝たきりと言うわけでは無いが、トイレに自分で行く以外はベッドに寝たままの状態になっているという。枕元には、エアコンとテレビのリモコンが置かれていて、コードレス電話もある。
小一時間の施術中にも、かつての御茶飲み友達や、近くに住む娘から電話がかかってくる。身の回りの世話はその娘とお嫁さんが交代で担当。かなり恵まれた環境のように思えた。
自費出版したような歌集も置いてあったので、
「どなたの歌集ですか?」と尋ねたら、
「私の」と答えた。
趣味で短歌を詠んでいたらしい。結構、インテリなのだ。
ある日のこと、彼女が言った。
「私の腹がピクピク動くんだけど。なんで?」
私の場合、主に治療対象となるのは背中側の方で、お腹を診るということは滅多にない。
「痙攣ですかね?痛みはありますか?」
と聞きながらも、触診しようとしない私に焦れたようで、
「手、貸して」と言って、私の手を握るとヘソの辺りにゴソゴソっと導いた。
その時の彼女はいたずらっぽい笑顔をしていて、艶めかしくも感じられ、ドキリとした。
お腹はとても硬かった。
「便秘してますか?」と聞くと、首を横に振る。
確かにピクピクしているが、これは痙攣と言うより拍動のような気がする。
「今度は私に手を貸してもらえますか?」と言って、手首の脈を診た。
少し時間差があるけれども、同期している。
でも、こんなところに動脈?何だかとんでもないことのような気がした。
「主治医の先生に連絡は取れますか?」と言ったら、光代さんがダイヤルしてくれて、すぐに医師に説明することができた。
「なんだか、動脈みたいに脈が感じられるんですが…」と言うと、
「そうですよ。動脈ですよ。」
「え?」
「動脈瘤なんですよ。」と、主治医は平然と答えた。
「それって…大変なことじゃないんですか?」と私は叫んでしまった。本人の前で!
「ええ。大変なことです。」と、むしろ可笑しそうに答えた。
「説明はしてあるんです。本人にも説明したと思うんだけどな…」
電話を切って、光代さんには「大変」なところだけ省いて、お腹の所を通っている血管の脈がお臍の所で感じられるようになっているのだと説明した。
「ああ、そうなの。だったらいいけど。」という反応。
そして、それが最後の施術となった。数か月後、彼女の訃報を地方紙のおくやみ欄で見つけたのだ。
彼女の意図が何だったのか、今でもよくわからない。医師から説明を受けていたのであれば、私に尋ねる必要はない。自分が抱えている爆弾に驚く顔が見たかったのかもしれない。死への恐怖以上の苦労を経験している彼女には、「大変」なこととて、大したことではなかったような気がする。
ともかく、私は、治療師として貴重な体験をさせていただいた。それと共に、彼女のいたずらっぽい笑顔を今でも忘れることができない。
〔「訪問日記」一覧〕
◆◆◆鍼灸治療室.トガシ◆山形県東根市◆◆◆
阿部光代さん(仮名)と出会ったのは、前回の山下さんのお宅でだった。山下さんに施術している最中に、阿部さんが立ち寄ったのだった。
阿部さんも80代。腰椎に圧迫骨折があり、体勢を変える時は痛みを感じるけれども、じっとしている分には痛みは無い。それでも車の運転は無理だから、お嫁さんが時には運転手、時には看護婦、時には秘書となり、常に脇に控えていた。お嫁さんと言っても、娘もいて、孫もいる。孫を幼稚園に迎えに行くのも彼女の仕事だった。
だから、光代さんの治療が自宅でできるとしたら、願っても無いことだったようだ。
彼女の自宅はサクランボ畑の真ん中にあった。この地域は今でこそ壮大な果樹畑であるが、光代さんが移ってきたころには荒地だったらしい。土の上に石がゴロゴロしていて、そのままでは何も作れないやせた土地だった。
それを日本一のサクランボの産地に仕立て上げた苦労は、とても我々には想像できない。彼女の家は大きくて立派な上に、高価な置物がたくさん飾ってある。少し変形した彼女の腰だけが、当時の苦労を物語っている。
彼女から依頼が来るときは、いつも近所の御茶飲み友達が3人くらい来ていて、一緒に施術をした。ある人は腰に、ある人は膝に、ある人は肩に、それぞれ若い時の苦労が深く刻まれていた。
そんな治療が数年途絶えて、久しぶりに電話をいただいた。秘書のような、あのお嫁さんからだった。
伺うと、奥の光代さんの部屋に通された。部屋の真ん中に介護用のベッドが置かれ、光代さんが横になっていた。寝たきりと言うわけでは無いが、トイレに自分で行く以外はベッドに寝たままの状態になっているという。枕元には、エアコンとテレビのリモコンが置かれていて、コードレス電話もある。
小一時間の施術中にも、かつての御茶飲み友達や、近くに住む娘から電話がかかってくる。身の回りの世話はその娘とお嫁さんが交代で担当。かなり恵まれた環境のように思えた。
自費出版したような歌集も置いてあったので、
「どなたの歌集ですか?」と尋ねたら、
「私の」と答えた。
趣味で短歌を詠んでいたらしい。結構、インテリなのだ。
ある日のこと、彼女が言った。
「私の腹がピクピク動くんだけど。なんで?」
私の場合、主に治療対象となるのは背中側の方で、お腹を診るということは滅多にない。
「痙攣ですかね?痛みはありますか?」
と聞きながらも、触診しようとしない私に焦れたようで、
「手、貸して」と言って、私の手を握るとヘソの辺りにゴソゴソっと導いた。
その時の彼女はいたずらっぽい笑顔をしていて、艶めかしくも感じられ、ドキリとした。
お腹はとても硬かった。
「便秘してますか?」と聞くと、首を横に振る。
確かにピクピクしているが、これは痙攣と言うより拍動のような気がする。
「今度は私に手を貸してもらえますか?」と言って、手首の脈を診た。
少し時間差があるけれども、同期している。
でも、こんなところに動脈?何だかとんでもないことのような気がした。
「主治医の先生に連絡は取れますか?」と言ったら、光代さんがダイヤルしてくれて、すぐに医師に説明することができた。
「なんだか、動脈みたいに脈が感じられるんですが…」と言うと、
「そうですよ。動脈ですよ。」
「え?」
「動脈瘤なんですよ。」と、主治医は平然と答えた。
「それって…大変なことじゃないんですか?」と私は叫んでしまった。本人の前で!
「ええ。大変なことです。」と、むしろ可笑しそうに答えた。
「説明はしてあるんです。本人にも説明したと思うんだけどな…」
電話を切って、光代さんには「大変」なところだけ省いて、お腹の所を通っている血管の脈がお臍の所で感じられるようになっているのだと説明した。
「ああ、そうなの。だったらいいけど。」という反応。
そして、それが最後の施術となった。数か月後、彼女の訃報を地方紙のおくやみ欄で見つけたのだ。
彼女の意図が何だったのか、今でもよくわからない。医師から説明を受けていたのであれば、私に尋ねる必要はない。自分が抱えている爆弾に驚く顔が見たかったのかもしれない。死への恐怖以上の苦労を経験している彼女には、「大変」なこととて、大したことではなかったような気がする。
ともかく、私は、治療師として貴重な体験をさせていただいた。それと共に、彼女のいたずらっぽい笑顔を今でも忘れることができない。
〔「訪問日記」一覧〕
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