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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第六章 迷悟は我にあり」(p299〜334)を読みました。

『般若心経』の「無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒無想 究竟涅槃」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p300)》
というは、真実相の上には、元来生滅なき故に、生死の恐れあることなし。顛倒無想とは、一切の有為の法は、夢の如く、幻の如くにして、実にあることなし。しかるを、凡夫は迷いて、実にありと思えるは、あだなる夢をまことと思えるが如し。これ顛倒無想なり。もし一念空ずる時、一法も得べきなし。これ即ち遠離なり。究竟とは、きわまり尽きたる義なり。万法、皆涅槃を至極とするなり。涅槃とは、不生不滅のところなり。円満清浄の義なり。清浄とは、空の異名なり。
《引用終わり》

解説としては、「仮我の死」と「肉体的な死」は違いますよ!という件を引用してみますと…

《以下引用(p309)》
…私たちは今、生死の二つに隔てられ、生まれることもなければ、死ぬこともない本分の自己(真実の我・本来の面目・金剛の正体)を知らず、世俗の我(五蘊の仮我)を自分と見なす妄執(我執・思惑)ゆえに生死流転しているのであるから、この仮我(妄執)はいつかどこかで終わらなければならない。それではと、仮我を力づくで終わらせ(例えば、自死などによって)、涅槃を得ようとしてはならない。それは鏡に映った自分の姿(「鏡中の像」)を消し去ろうとするようなもので、仮我を終わらせるどころか、かえって「無明の闇」(業縁)を深めることになる。というのも、この身体(仮我)は心が仮に形を結んだものであるから、直接身体に手を掛けるのではなく、つまり苦行をするのでもなく、向かうべきは心であるからだ。
《引用終わり》

以前「死亡したら仏にはならない」という記事を書きましたが、これに対応すると思います。

《以下引用(p312)》
…盤珪は「迷いも涅槃の迷い、悟りも涅槃の悟りなり。迷いて涅槃を出でず、悟りて涅槃に入らず」と言ったが、これは真正の覚者ならではの卓見であろう。すると仏と衆生に優劣・上下の区別はなく、本来無二平等でありながら、違いは「無明生死の夢」から目覚めるかどうか(覚・不覚)であり、しかも目覚めたところが、仏と同じ不生不滅の涅槃の楽界(涅槃の床)であるから、そのためにことさら何かをする、即ち親鸞のいう「自力修繕」(『正像末和讃』)ではないのだ。
《引用終わり》

この後、龍樹の『中論』に触れていきます。「生死即涅槃」を『中論』で初めて知ったときは、私も衝撃を受けました。

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