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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第五章 初転法輪」(p281〜298)を読みました。

『般若心経』の「無苦集滅道」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p282)》
これは四諦を空ずるなり。四諦とは、即ち苦諦・集諦・滅諦・道諦なり。先ず苦諦とは、過去の業障によって、今この身を受けて、種々の苦あるを、苦諦というなり。集諦とは、集はあつむると読めり。これは過去に諸々の悪業をの因を集め持ちたるをいうなり。滅(諦)とは、一切の煩悩妄想を滅し尽くすをいうなり。道(諦)とは、煩悩を滅して、不生不滅の涅槃の楽界に到る修行のところを、道というなり。これを取り合わせていうときは、先ず今この界へ生まれ、色々の苦を受くる、いかなる因縁ぞというに、過去にて悪行・煩悩を集め持ちたる故に、その因を以て、今この苦を受くる身をまねき得たるなり。さるほどに、この苦を厭い、出離を求むるには、先ず悪業・煩悩を滅する道を修行して、さて、不生不滅、寂滅為楽のところに到る。苦・集の体、元来自空なる間、滅すべき苦・集もなく、修行すべき道もなきが故なり。
《引用終わり》

「諦は真理を意味する」ということですが、釈尊による纏めがありますので、メモっておきます。

《以下引用(p284)》
苦しみを知り(苦諦)、また苦しみの生起するもとを知り(集諦)、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り(滅諦)、また苦しみの消滅に達する道(道諦)をも知った人々、彼らは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。彼らは輪廻を終滅させることができる。彼らは生と老いとを受けることがない。  『スッタニパータ』
《引用終わり》

さらに、苦しみのもととなる無明については次のようにまとめているそうです。

《以下引用(p285)》
,匹鵑紛譴靴澆生ずるのも、すべて無明に縁って起こるのである。
¬橘世残りなく消滅するならば、苦しみは生ずることがない。
このように二種を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。すなわち現世における悟りか、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。  『スッタニパータ』
《引用終わり》

現世における悟りとは、即身成仏ということでしょうか?

《以下引用(p286)》
二つの果報のうち「現世における悟り」を成し遂げたものを無余涅槃とするならば(これを親鸞は無上涅槃と言ったが、「余」とは身体に伴う煩悩のことであり、「無余」とはそれが無いこと)、いまだ身体を纏っているために、それに伴う煩悩を完全に拭い去ってはいないが、今生のこの身が最後(最後身)となり、再び「この迷いの生存に戻らない」ことから、それを有余涅槃という。親鸞はそれを「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」(『教行信証』)と言ったが、後者も身体を脱ぎ捨てる死の時、無余涅槃(無上涅槃)に入るであろうという含みがある。
《引用終わり》

密教と浄土教について、ちょっとだけ考えた記事を以前書いています。これと併せ読みながら、やはり親鸞の思想について学ぶ必要があると感じました。

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