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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第三章 仏教の意識論」(p154〜236)の「1.六塵の境界」(p155〜185)を読みました。

『般若心経』の「無色声香味触法」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p154)》
これを六塵という義は、この六塵も皆空なりと説きたまうなり。六塵という時は、皆塵の字をつけていうぞ。色塵・声塵・香塵・味塵・触塵・法塵、これなり。塵は、ちりと読めるは、物を汚すものなり。目も耳も、いまだ物の色を見ず、声を聞かざる以前は、元来清浄にして、無念無想なるものなれども、色を見、声を聞くことによりて、うつくしきものを見ては、欲しく思い、おもしろき声を聞いては、心をとられ、見ること、聞くことに迷い、貧着の思いを起こす故に、煩悩の汚れに染むを以て、塵というなり。しかるに、般若の智を以て、皆空なりと観ずる時は、六根・六塵ともになきものなり。なしというとも、今までありつる物を払い捨てて、今よりはじめてなしというにあらず。この六根・六塵の自体、元より空なるが故に、なしというなり。
《引用終わり》

解説です。

《以下引用(p164)》
まず、六根が身心(私)に備わる感覚ないし知覚器官であったのに対して、六塵は六根・六識の対象(対境)として、それぞれ対応している(この点では塵と言うよりも、境の方がその意味をよく表している。以後、適宜使い分ける)。また六根・六識を認識の主体とするならば、六境(六塵)は認識の客体ということになり、六根・六識と六境(六塵)は主客の関係にある。…

…色声香味触法の六塵などと聞くと、六境それ自身が汚れた塵のような印象を受けるが、一休の理解はそうではない。眼(眼根・眼識)と色(色境=色塵)の関係で示せば、ただ見るだけならば何の問題もないが、私たちは見た物(対象)が実際に存在すると思い、なおかつ自分かってに意味や好悪・美醜・価値(主観)を押し付け、実際の行動に移る。…

それを一休は見ることに迷うと言ったが、それは見ることにかぎったことではなく、色声香味触法のすべてが本来清浄な心(大心・本心・仏心)の鏡に積もる塵(客塵煩悩)となって、私たちは真実が観えていないだけではなく、三界・生死の世界を巡る「迷道の衆生」となっているのだ。ここに『般若心経』の底流にある「行」の必要性が生じてくる。提唱に沿って言えば、小心(人心)を尽くして、大心(仏心)を明らかにし、元より後者に備わる般若の智慧(般若の空智)で以て観る時、六根・六識が捉えていた「六塵の境界」(妄境界)はそこにはなく(般若の智を以て、皆空なりと観ずる時は、六根・六塵ともになきものなり)、その後から一真実(真実空相)の世界が了々と立ち現われてくるということだ。
《引用終わり》

「六塵は六根・六識の対象(対境)」という説明は分かりやすいですね。空海の言に「六塵ことごとく文字なり」というのがありましたが、またひとつシックリきました。

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