ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第一章 菩薩―悟れる衆生」(p51〜98)の「2.真我と仮我」(p79〜98)を読みました。


『般若心経』の「度一切苦厄」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p78)》
さてまた、般若の御法を説きて、苦界に沈みたる衆生どもを、救い助けて、生死の此岸より彼岸に到らしむる故に、一切の苦厄を度すというなり。
《引用終わり》

悟れる衆生たる菩薩は「その衆生済度の誓願のあついゆえに、自ら仏となるより先に、すべての衆生を彼岸にわたそうと努める存在である」。

《以下引用(p93)》
生死去来(生死往来)を繰り返している仮我から不去不来の真我(「いにしへの我」)を知った真の宗教者にもし日々の心境などというものがあるとすれば、一休の、

有漏路より無漏路へ帰る一休み
雨降らば降れ風吹かば吹け 『一休道歌』

に尽きるのではなかろうか。というのも、仮の住処(世間)をどう生きるか、その一端を見て取ることができるからだ。
《引用終わり》

智慧によって、生死に住せず、慈悲によって、涅槃に住せず」涅槃に行くのをしばし止めて、世間で一休みする…これが「一休」という名の由来のようですね。

《以下引用(p98)》
真の主人公(真人・真実の我)を知った悟れる衆生はもはや生死の苦界に沈むことがないがゆえに、一切の苦厄(四苦八苦)から解き放たれ、真の自由を獲得した菩薩(観自在菩薩もその一人であった)であるということだ。

しかしそれで菩薩の「行」が終るのではない。廓庵の「入鄽垂手」(『十牛図』)、あるいは親鸞の「還相回向(げんそうえこう)」(『教行信証』)を例に出すまでもなく、自らの体験を踏まえて、般若の御法を説き、生死の苦界に淪む衆生を不生不滅の涅槃の岸へと到らしめ、一切の苦厄を除かんがために、利他の行に努められるのだ。それを「一切の苦厄を度す」(度一切苦厄)という。
《引用終わり》

《インデックス》