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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第一章 菩薩―悟れる衆生」(p51〜98)の「2.真我と仮我」(p79〜98)を読みました。


『般若心経』の「照見五蘊皆空」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p77)》
照見とは、照らし見るなり。観念のこころなり。五蘊とは、五つをつつみ集むるこころなり。五つとは、一つには色なり。地水火風の仮に和合したる、色かたちある身をいうなり。二つには受なり。うくると読む。苦楽を受くるをいうなり。三つには想なり。おもうと読む。深く思い尋ぬるをいうなり。四つには行なり。おこなうと読む。五つには識なり。種々の分別をなすものなり。受と想と行との三つも、この識の分別より起こるなり。この五蘊は、畢竟、色心の二法なり。色とは、地水火風の四大が仮に和合して、色かたちのあれば、色法というなり。受想行識の四つは、心のなすわざなれば、心法なり。

五蘊の中に、識というものが、先ず最初に、何事につけても分別を起こすなり。たとえば、苦楽などの事につけても、これは苦なり、これは楽なりと、分別するものは、識なり。さて、分別によりて、楽を楽なりと心に受け入れ、苦をば苦なりと心に受け入れおくを、受というなり。さてまた、その苦楽の事をあいついで、絶えず種々に思い尋ねて止まぬは、想なり。さてまた、思い尋ねて止まず、終にその苦楽などの事を企ててなすは、行なり。そのなすわざの善悪によりて、未来世に、餓鬼・畜生などの悪しき身に生まれ、あるいは、人間・天人などの身を受くるは色なり。即ち色身のことなり。五蘊元来自性なく、四大無主なれども、衆生は愚痴なるが故に迷い、真実にありと執着して、この四大の仮和合の身を我が身なりと思い、受想行識の四蘊を我が本心なりと思い、我が身を愛する故に、苦を厭い、楽を願いて、色々と業を作りて、無量の苦を受く。五道・六道に輪廻して、終に苦厄をまぬかれがたし。しかるに、この観自在菩薩は、般若の深き智慧を以て、生死の苦界を越えて、彼岸に到る法を修行す。時に、五蘊本来空にして、四大無我なることを観念して、諸々の苦をまぬかれたまうなり。
《引用終わり》

一休さんの説明は分かりやすいですが…

《以下引用(p80)》
…一点注意しておきたいことは、仏教はいわゆる心というものを感性(受)、思考(想)、意志(行)、分別(識)の四つ(四蘊)に分け理解しているが、もう一つの心の重要な機能として記憶があり、それは四蘊の中になく、後に記憶の貯蔵庫として取り上げる阿頼耶識の属性である。
《引用終わり》

「仏教入門」の唯識説の章での説明が該当するかと思います。

《以下引用(p82)》
あなたが自分と思っている身心は「父母和合の縁」により、五蘊(色受想行識)が仮に形を結んだ仮初の我に過ぎないがゆえに、実体(自性)を持たない空なるものである。とりわけ身体(色身)は地水火風の四大の仮和合であるがゆえに、いずれ朽ち果てて土(地)に帰る(キリスト教的に言うと「あなたたちは塵だから、塵に帰らねばならない」『創生記』)。しかし、それがあなたのすべてなら、観自在菩薩のように、わざわざ身心を構成している「五蘊は皆空なりと照見する」必要もない。事実は、仮初の我(仮我)の内側に仏と異なることなき不生不滅、不去不来の真実の我(真我)を想定しているからに他ならない。
《引用終わり》

「瞑想の心理学」にも五蘊の仮我について書いてありました。


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