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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「第一章 菩薩―悟れる衆生」(p51〜98)の「1.有漏と無漏」(p53〜78)を読みました。

『般若心経』の「行深般若波羅蜜多時」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p52)》
行とは、修行することなり。深般若とは、深き智慧なり。世間世の常の浅き有漏の智慧にはあらず、真実出世無漏の智なり。漏とは、煩悩をいうなり。有漏とは、煩悩ありという義。無漏とは、煩悩なしというこころなり。有漏の智は、妄想分別なれば、世間の内を出でず。無漏の智は、煩悩妄想を離れて、三界を出離する智慧なれば、出世無漏の智というなり。即ちこの般若の真空実相のことなり。波羅蜜多とは、彼岸に到るという義なり。即ちこの菩薩の修行する法をいうなり。また時とは、この菩薩の般若を修行する時なり。修行すると言えばとて、修行し尽くし、すべきことのなきところに到り得たるを、般若の修行とはいうなり。般若は、畢竟、空なるが故なり。この空の上に修行すべき道理なし。修行すべきことのなきところに到り得るを、修行とはいうなり。これは僧俗の隔てなく、士農工商ともに業体とすべき道を、修行し尽くし、その身の職分、何一つ暗からぬところに到りぬるを示したまうなり。万法出離の修行とは、実に仏・菩薩の上ならでは、成し得がたしといえども、銘々受け持ちたる一業を修行し尽くし、その道に暗からずば、人たるべきなり。時とは、何業にもせよ、学び得べき時あればなり。その習い学び得べき時あればなり。その習い学ぶべき時を、等閑に年老て、後悔すること数多し。若きというとも、時ありと知りたるを、一業の知見というべし。
《引用終わり》

本文には西洋の賢人の名前が散見されます。

《以下引用(p65)》
この空しい希望をたしなめるかのように、ソクラテスはこの世から悪はなくならないと言った。善にはその反対の悪がなければならないというのがその理由であるが、それどころか人間にはどうしても必要であり、「それだからまた、できるだけ早く、この世(此岸)からかの世(彼岸)へ逃げて行くようにしなければならんということにもなるのです。そしてこの“世を逃げる”というのは、できるだけ神に似るということなのです」(『テアイテトス』)とは何という賢者であろう。これはもう若者たちに悪い影響を及ぼすだけではなく、分別あるすべての大人を敵に回すことになるだろう。しかしこれが、今も昔も、生死・善悪をはじめ二元葛藤するこの世(世間)の偽らざる姿であり、ソクラテスの「世を逃れ、できるだけ神に似る」を、仏教的(一休的)に言い換えれば、生死の苦界を渡り過ぎて、不生不滅の涅槃の岸に到る波羅蜜多(到彼岸)、即ち智慧の完成を通して「生死を離れ、仏となる」(道元の言葉)ということだ。
《引用終わり》

深いです。仏教的です。善と悪を区別する心によって悪は生じます。悪を排除しようとした時点で善は最早善ではない。ソクラテスの偉大さが初めて分かったような気がします。

《以下引用(p72)》
一休は禅家として、この執着(いずれ人我・法我の二つに分けられるが、詳細は第五章)を般若の智慧で以て断ち切り、涅槃の岸に渡ることを説いているのであるが、一方、浄土門を選んだ一遍が妻子も家も捨てたのは、「著」という一字をめぐってよくよく思量した末の結論であったろうが、これはなかなかできないとあなたも分かる筈だ。遠い記憶を遡れば、聖書には「まず神の国を求めよ」(『マタイの福音書』)とあるのに、まず経済的な基盤を固めて、居心地のいい家庭を作り、それから神の国を求める当時の聖職者を揶揄したのは単独者を貫いたキルケゴールであった。最近は彼についてあまり語られなくなったようであるが、僧俗ともども世間(四次元時空)にどっぷり浸かり、過剰に適応している現代人に、生半可な追随を許さない彼の「自己省察」の厳しさに一因があるのかもしれない。
《引用終わり》

キルケゴールについてはこちらも参照。

《以下引用(p73)》
『ダンマパダ』に「心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう」とあるように、修行の初めは私たち自身の心と取り組むことになるが、心は、畢竟、空なるがゆえに(「心とてげにもこころはなきものを」)、最後は悟るべき何もないところ、即ち無心、あるいは空なる心(大心・心空)に到れば、生死の苦界を渡り、(生と)死の束縛から逃れるであろうということだ。これが菩薩の修行ということで、一休は修行すると言えばとて、修行し尽くし、すべきことのなきところに到り得たるを、般若の修行とはいうなり。般若は、畢竟、空なるが故なり。この空の上に修行すべき道理なし。修行すべきことのなきところに到り得るを、修行とはいうなり、と「行」を徹底させることで言えば、世間において一つの道(業体)を究め、職分を果たすことと何ら違いはない(これは僧俗の隔てなく、士農工商ともに業体とすべき道を、修行し尽くし、その身の職分、何一つ暗からぬところに到りぬるを示したまうなり)。

さりとて、自己を含むすべてのもの(万法)が不生不滅、不去不来と悟る万法出離の修行(般若の修行)は、仏・菩薩ならでは成し難く、どの方法(アナパーナサティ、止観双修、坐禅、マントラなど)を選ぼうが、一つを徹底することが大切である(万法出離の修行とは、実に仏・菩薩の上ならでは、成し得がたしといえども、銘々受け持ちたる一業を修行し尽くし、その道に暗からずば、人たるべきなり)。いずれにせよ、心なければ人々観自在の菩薩(悟れる衆生)であり、一休もそのひとりであったが、彼の目に世間の人々はどう映っていたのだろう。

知恵あるは若きも道をつとむるに
老いて菩提を知らぬ愚かさ 『一休道歌』

若者ですら悟り(菩提)の道を歩むというのに、老いてなお菩提の修行する法(生死の苦界から涅槃の楽界に到る法)があるとも知らず、うつらうつらと夢を追い、波々として一生を渡るとは何と愚かなことだろう、と一休は慨嘆しているのだ。しかし機根拙く、また小賢しい小智(分別才覚・世知弁聡)が禍して、どうしてもそれが分からず、死ぬまで世事に明け暮れる。波羅蜜多(到彼岸)の「行」だけではなく、何ごとにも学ぶのに「時」というものがある(時とは、何業にもせよ、学び得べき時あればなり)。しかし、世間の人々を見るにつけ、その習い学ぶべき時を、等閑に年老て、後悔すること数多し。若きというとも、時ありと知りたるを、一業の知見というべし。一休のこの指摘は、時代が移ろうとも、老若ともども、よくよく味わうべきではなかろうか。
《引用終わり》

「若きというとも、時ありと知りたるを」の「時」は、時間ではなくて時機のことですね。

「士農工商」は江戸時代の言葉だと思っていましたが、室町時代から使われていたようです。

私的には、以下の一節がとても気に入りました。空海の修行観と読み比べてみたいところです。

修行すべきことのなきところに到り得るを、修行とはいうなり、と「行」を徹底させることで言えば、世間において一つの道(業体)を究め、職分を果たすことと何ら違いはない(これは僧俗の隔てなく、士農工商ともに業体とすべき道を、修行し尽くし、その身の職分、何一つ暗からぬところに到りぬるを示したまうなり)。

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