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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「序章 『般若心経』概説」(p1〜50)の「2.小智と大智」(p19〜24)を読みました。

『般若心経』の「般若」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p2)》
般若とは、智慧という義なり。この般若の智慧とは、凡夫の思える分別才覚ありて、小賢しきをいうにあらず。この分別才覚は、世間の智慧なれば、小智にて大智にあらずして、世智弁聡とて、仏道に入ることを知らず。さるによって、小智は菩提のさまたげといえるも、この意をもっていうなり。真実般若の智というは、妄想分別を離れて、大虚空の如くなるをいうなり。三世の諸仏、その外諸々の智識たちも、皆この智慧を以て、無上菩提を悟りたまうなり。無上菩提は分別妄想の及ばざるところなり。さるほどに、この般若の智は生死の苦界を渡る船に譬えたるなり。
《引用終わり》

前回の「小心と大心」につなげて、解説があります。

《以下引用(p23)》
小心は大心から生じてくる妄想分別でしたが、要するに、大心は小心が生じてくる本源(マトリックス)であり、大心を本体とするならば、小心はその作用の関係にあります。また大心と小心が不一不異の関係にあるのは、水を離れて波はなく、波を離れて水がないことに比せられていましたが、そこにはやはり違いがあります。

まず、大心は私たち衆生に元より備わる本心・本性であり、そうすると般若の智慧(大智)もまた私たちに元より備わっている筈です。ところが、一般的に智慧というと(ここでは知識や情報といった方がいいかも知れません)、学習や研究を通して手に入れるものであると考えますが、それらはすべて世間の智慧(小智)であり、この世を渡るために善くも働けば、悪智慧ともなる小智(世智弁聡)は菩提の妨げとなっているのです。
《引用終わり》

「自己の風光を埋めて、前賢の途轍に負(そむ)く」。必要十分条件ではないかもしれませんが、世間的な観点から知者のように見えるなら、それは悟りから遠いということですから…

《以下引用(p20)》
…浄土門の法然(1133〜1212)が「知者のふるまいをせず」と自戒し、自らを「愚痴の法然房」と称し、また弟子の親鸞が「愚禿親鸞」と名告り、聖道門の最澄(767〜822)に至っては、自らを「塵禿の有情、底下の最澄」と呼んだことが思われる。
《引用終わり》

卑下が過ぎていて、私は余り好きじゃないですが(^_^;)

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