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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「序章 『般若心経』概説」(p1〜50)の「1.小心と大心」(p4〜19)を読みました。

『般若心経』の最初の2文字、「摩訶」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p2)》
これは天竺のことばなり。摩訶とは、大というこころなり。大というこころを知らんとならば、先ず我が小さき心を尽くすべし。小心とは、妄想分別なり。妄想分別あるが故に、我と人との隔てをなし、仏と衆生の隔てをなし、有無を隔てて、迷悟を分かち、是非・善悪の隔てあり。これを小心とはいうなり。この心を尽くせば、我と人の隔ても、仏と衆生の隔てもなくして、有無の心も、迷いということも、悟りということも、皆平等にして、さらに隔てあることを知らず。これを大心というなり。この意は、虚空の限りなきが如し。これ即ち一切衆生の我々の上に、元来備わりたる本性なり。しかれども、凡夫は妄想分別の小さき心におおわれて、この大心を見ることを知らず、色々分け隔ての心ある故に、有無の二つに迷い、生死の二つに隔てられ、種々に顚倒迷妄するなり。
《引用終わり》

「摩可」は「天竺のことば」と一休さんは解説していますが、「インドの古語であるサンスクリット語mahaの音訳」(p5)です。空海が「真言」と「陀羅尼」とか呼んだものと同じかと思います。

mahaは「大」という意味であるというところから、心にも「大」と「小」があるという話になっています。小心とは、「私たちが日常的に経験する生死・善悪・愛憎・悲喜・快苦・幸不幸・美醜・損得など」(p5)二元性をすべてと考え、それにとらわれてしまう心です。

こういった物事の区別を解する能力を分別と書き、「ふんべつ」と読んでも「ぶんべつ」と読んでも、現代社会を生きる上でとても必要なものです。これが無ければ社会的には尊敬されません。でも、仏教(一休)はこれを小心と呼んでいます。なぜなら、これが全ての苦しみの根源だからでしょう。

大心と小心を、浄影寺慧遠は心性と心相(p7)、空海は本心と妄念(p8)、親鸞は本心と散心(p8)、あるいは仏心と人心(p10)、王陽明は道心と人心(p10)、神道では赤心と黒心(p11)と、(全くイコールではないかもしれませんが)呼んでいるようです。

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