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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p262)》
…主客の実在論的二元論の構造が根底から崩れ、あらゆるものが銷殞するとき、初めて真理の一瞥が可能になるということだ。これを「人と法との二種において無我になることを知るを謂う。能取と所取とに体有ること無きを知るに由るが故なり」。(無著『大乗荘厳経論(随修品)』)
《引用終わり》

「銷殞」という言葉、好きです。p258にも出てきましたが、『十牛図』の説明でも出てきました。

《以下引用(p262)》
この場合の真理はその都度、単独者の主体的な体験として、各々が自ら獲得しなければならないものである。宗教が組織や団体になると形骸化が避けられないのも、宗教的真理のこの特異性にある。宗教が単独者の主体の問題であるといわれて、それに耐えられる人は多くないからである。
《引用終わり》

宗教の問題点ですね。これについては5章でも触れられていました。8章では、聖職者が凡夫の俗っぽい祈りを導いているおかしさが指摘されていました

《以下引用(p262)》
主客の実在論が捉えるいわゆる科学(客観)的真理と宗教(主体)的真理の違いは今述べた認識の形式にある。私が学問とはひとつの仮説に過ぎないというのも、観察するものと観察されるものがいずれも空から生じた仮有であり、主客の妄執が構築した理論(もの)であって、それには終るということがあるからだ。もっとも共同幻想の世界に生きる限り、その仮説にも意味はあろうが……。
《引用終わり》

これは科学(学問)の問題点ですね。学問と宗教の違いについて、もう少し詳しく書いているのがこちらです。

《以下引用(p262)》
このように摂末帰本の道を辿り、見るもの(人我)と見られるもの(法我)が消え去るところを空という。そして空の体験なくして真実は現われてこない。それは見ているあなたが消えて初めて起こり得ることなのだ。だから空海は「人我の空を解(さと)らずして、何ぞ法空の理を覚らん。この故に生死に流転して涅槃を得ず」(『十住心論』「第四唯蘊無我心」)と言うのだ。
《引用終わり》

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