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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p259)》
人間は意識・無意識を問わず共同幻想の中に生きている。そして、人の一生は問題に継ぐ問題であるように思われるが、それらはすべて冗々として事、麻の如き共同幻想の中にのみ存在するものなのだ。存在の意味を共同幻想の枠組の中でいくら考えても見い出せないだろう。考えるほど泥沼の深みに嵌るのが落ちだ。

「世間虚仮」(聖徳太子)、「三界唯心夢幻空華」(臨済)、「三界虚偽唯心所作」(馬鳴)。このように彼らはいずれも同じ世界認識に到達している。共同幻想を生きているわれわれが世界は虚妄(夢のように仮有実無であるということ)であるなどと言うはずはないし、また言えない。当然、このように見たのは共同幻想から目覚めた覚者ということになる。しかし彼らは、われわれが今見ている世界が虚妄であると言ったのであって、世界そのものが虚妄であるとは言っていない。まして世界が自ら虚妄であると言うはずもない。

「三界は自ら我れは是れ三界なりと道(い)わず」(『臨済録』)。
《引用終わり》

他にも「三界虚妄」(『華厳経』)、「三界虚偽」(『起信論』)、「三界如幻」(『楞伽経』)というのがあります。

《以下引用(p260)》
事実、覚者の目には同じ世界がことごとく真実と映っている。ただ、われわれの目にそう見えていないだけ。つまり、われわれ人間の中で奇妙な転倒が起こっているのだ。…

「誠にこれ本に背き末に向ひ、源に違して……、幻野に荒猟して帰宅に心なく、夢落に長眠す。覚悟何れの時ぞ」(空海『吽字義』)。本源に背き末節に流れるが故に、夢の如き世界(夢落)に、長き眠りをむさぼって、一向に目覚めようとしない。これが人間の偽らざる姿なのだ。
《引用終わり》

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