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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p258)》
数ある仏教の教義の中で、瞠目すべき教えは無我の思想であろう。五蘊の仮我が消えたところが無我であり、その後に現成してくるものを空海は大我(真我)と呼んだのだ。しかし、その大我にも実体はなく、あたかも雫が大海に溶け、一味となるように、あなたはどこにいるのでもないが、遍く存在して、ついに終るということがない。仮我が銷殞して無我の大我となる。これこそ空海が「我が理趣」を求めて行き着いた実践的結論であった。

人間に真我と仮我があるところから出発したが、ではその違いは一体どこから生じてくるのであろうか。結論からいうと、私の本源、それはまた全宇宙の本源でもあるのだが、それを見てとれないために(不覚)、人は妄りに生死の夢を見、自ら衆多の生を重ねることになるのだ。「世間の凡夫は諸法の本源を観ぜざるが故に、妄に生ありと見る。所以に生死の流れに随って自ら出ずること能わず」空海『吽字義』。

仮我と真我、生死と涅槃、虚妄と真実、世間と出世間、衆生と仏……これらの相違は本源(gzhi)の覚・不覚に依るのだ。しかし、あなたがいかなる状況にあろうとも、言い換えれば、覚・不覚にかかわりなく、本源を失うことはないのだが(「諸仏の真源は衆生の本有なり」廓庵『十牛図』)、その不覚ゆえに、自ら造り出した虚妄の世界(三界)に自ら淪み、妄りに生死を繰り返す。「自ら諸法の本源を運んで三界を画作して還って自らその中に没し、自心熾然にして備に諸苦を受く」空海『吽字義』。

分かるだろうか。われわれ人間が自ら泥濘に落ち込み、そこから抜け出せないブーツストラップ状態が如何に矛盾に満ちたものであるかが。われわれはこんなところで人生を語り、夢を描くが、自ら造り出した(画作)、如夢如幻の世界(三界)で、さらに夢を重ねてどうしようというのだろう。「一体この世界は幻想の上に成り立っている。それなのにこの世界を人は現実と呼ぶ。それが目に見え、直接感覚に訴えてくるからだ。そして、この世界の存在の源となる形而上的なものを幻想と呼ぶ。本当は正反対なのだ。この世界こそが夢幻である」ルーミー語録(井筒訳)。
《引用終わり》

「本当」の世界には…
すべての物があって、すべての者がいる。そして、すべての状態がある。


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