ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p257)》
仮我は様々な姿をとって現れ、状況が変われば如何ようにも変化する。その背後に同じ真我を宿していることを知らないで、人は敵対し、憎悪をあらわにするけれども、いずれも仮我と仮我が利害をめぐって対立し、仮想の敵に戦いを挑んでいるに過ぎない。しかし、この無知と狂気ゆえに人類は今日に至るまで、どれほど多くの血を流し、悲嘆の涙にくれたことであろう。

仮我の本源に真我(大我)があることを知らず、仮我が紡ぎ出す如夢如幻の世界で存在の不条理を託つ人間。堂々巡りをするばかりでどこに行き着くのでもない行き場のなさこそ現代人が漠然と感じている不安なのだ。

五蘊の仮和合である私が自らの業(カルマ)に随って生死海に淪んでいる。それならばと肉体を放棄して、サンサーラの悪循環から逃れ、真我に到達しようと短絡的に考えてはならない。また殆どの人の場合がこれにあたるが、単なる肉体の死が仮我を捨てて、真我に帰し、永遠の生命にあずかると考えてもならない。「人死するとき、必ず性海に帰し、大我に帰して、更に生死の輪廻なしと云うは、外道の見なり」。
《引用終わり》

キーワードに関して、これまでの関連記事にリンクを張っています。併せてご覧下さい。

「死んで仏になる」ということを当たり前のように言い、亡くなった人はみんな仏になるようなことをお葬式の時にはお坊さんまでが言うようです。可藤さんや、他の方々が書かれた仏教書を読むと、このことがすごく引っかかるようになります。死ねば誰でも仏になれるのなら、何の努力も要らないし、仏のありがたみも皆無です。

「外道の見」とは凄まじい…でも、仏教の根本に矛盾しているのですから、全くその通りなのですが。

《インデックス》