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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。

《以下引用(p253)》
われわれの認識が、知るもの(主観)と知られるもの(客観)というデカルト的二元論に基づく、知の活動であることは明らかである。そして、われわれはこの基本構造を自明のこととして一片の疑いを挟むことなく、主・客(心・物)の存在を認めてきた。
《引用終わり》

ルーミーのところ(第7章)でも、詳しく触れています物理学者のボームが同様の疑問を呈していることが、「瞑想の心理学」で引用されていました佐々木閑氏も同様のことを

《以下引用(p253)》
ところが、仏教はこのような実在論的二元論を人間の深層意識(集合無意識)に眠る執拗なまでの囚われ、習性(習気)という意味で「二取(能取・所取)の随眠(ずいめん)」と呼び、ここからあらゆる人間の問題と悲惨が生じてくるが故に、この構造的な迷妄からの離脱を説く。世間(サンサーラ:虚妄)と出世間(ニルヴァーナ:真実)の違いが二種の随眠に依ることを『成唯識論』は次のように述べている。「二取の随眠はこれ世間なり。唯しこれのみをよく断ずるを出世間と名づく」。

われわれ人間が生死の絆に繋ぎとめられているのは人・法(主・客)の妄執(人我見・法我見)にまつわる無知と捉え、仏教はその虚構と欺瞞を徹底的に暴こうとする。「我に二種あり、いわゆる人我と法我となり。この二種はみなこれ妄情の所執なり」(ここで我とは誤って実体的に捉える妄執を意味する)。
《引用終わり》

以前作成した唯識に関する記事にリンクを張って見ました。

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