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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十一章 慧能」(p221〜250)を読みました。

《以下引用(p233)》
「本心を識らずんば、仏法を学ぶも益無し。若し直下に自らの本心を識り、自らの本性を見れば、即ち仏と名づく」とあるように、慧能は、あなたの本心、あるいは本性が仏であると言う。さらにあなたが仏道を行じて仏になるというのでもない。あなたはすでにそれなのだから、さらに仏になることさえ要しない。「仏はまさに更に仏と作るべからず」(『臨済録』)。つまりあなたの本性に付け加えるべきものなど何もありはしないのだ。
《引用終わり》

あなたは何を達成する必要もない。あなた自身であればよいのだ。

《以下引用(p237)》
才能にめぐまれ、弛まぬ努力の結果、ひとりの天才が生まれるという意味で仏になることはない。すでにそれであるものに改めて成る必要もなければ、また成ることもできない。人為的な努力の結果あなたが何に成ろうとも、もしそれだけならばあなたは本来自分がそれであるものを取り逃がしたことになる。だからといって、本来仏であるから何の努力も必要ないと考えるならあなたは全く初歩的な誤りを犯すことになる(道元はこの問題をいだいて入宋した)。極めて逆説的な表現であるが、仏に成るためにあなたはあらゆる努力を傾けなければならないのだ。殊に現代のように宗教が形骸化し、その本質が見失われつつある状境を目の当りにして、その思いは強い。

そこで先程来述べてきたところを踏まえつつ、仏に成るとはどういうことかを要約すると、心を励して自らの努力の結果仏になるということではなく、すでにそれである本心、あるいは自性に目覚め、本来仏であることを自ら証するためにあらゆる努力が求められているとなろうか。
《引用終わり》

釈尊もそうでしたし、ヨハネもそうでした。バルドもそうでした。悟りの光明を前にして、私(生滅心)が仏にまで姿を変えて闇に留まらせようとする…。

《以下引用(p239)》
禅(だけではないが)の立場からいうと、仏でさえ心が投影したものである。粗大身から微細身に至るまで、仏は心のゆらぎが作り出した“光影”に過ぎない。本源へと辿るプロセスの中で、たとえ仏を見たとしても、そこに留まるべきではなく(臨済の「仏に逢うては仏を殺し」はこの意味である)、さらに内側へと辿ると、突然あなたは何も見ていない瞬間が訪れる。目が何も見ていないときあなたは心も見ていない。つまりあなたは無心となるのだ。
《引用終わり》

悟りのパラドクス…

《以下引用(p241)》
この一連のプロセスを見事に表現しているのは黄檗の次の言葉である。「心自ら無心ならば、亦た無心なる者なし」。私たちはこの意味を深く味わうべきだろう。「私」とは心が造り出した観念に過ぎない。その心が息むとき、さながら波が静まり大海とひとつに溶け合うように「私」も消える。心が消えて、あなたが無心となれば、無心なるあなたも無いのだ。
《引用終わり》

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