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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十一章 慧能」(p221〜250)を読みました。

《以下引用(p229)》
…存在を3つの範疇に分けて考えてみよう。まず初めは虚妄なるものという範疇である。…「心を起こせば即ち是れ妄」とあったように、心が生じてくると私たちは世界を捉えるようになる。そこで見るものは、もちろん目を通して見ているのだが、実は心の鏡に映った影像を見ている。「凡そ見る所の色は、皆な是れ心を見るなり。心は自ら心ならず、色に因るが故に心なり。心に因るが故に色なり。故に経に示く、色を見るは即ち是れ心を見るなりと」(『馬祖の語録』)…

そこで同じものを見ながら心の習性(ヴァーサナ)、あるいは変化(バリナーマ)によって様々に見えるということがある。例えば人間という意識(こころ)の構造が捉えているように動物が見ているのではない。人間と動物の意識の構造に違いがあるからだ。また同じ人間であっても意識の変化によって様々な幻影を見ることがある。いずれにせよ、心で見ている限り私たちは真実をあるがままに見ているのではなく、その影像を見ている。以上のような理由で今私たちが見ているものはすべて虚妄なのだ。
《引用終わり》

まず、ひとつは「虚妄なるもの」。動物のように、感覚器官が捉えたものに単純に反応しているだけの段階でしょうか。

《以下引用(p230)》
次に、心は真実を見ることはできないが、夢なら見ることができる。心は夢を未来に投影し、その周りに夢の世界を造る。私たちの生はその始めから夢というものから造られ、真実の上に築かれたものではない。心がそれを許さないのだ。生がどこまでも夢の投影であることは、私たちの関心が常に夢の実現に向けられていることからも分かる。そこでは何を為し遂げるかだけが意味を持つが、たとえ夢が実現されたとしても、それはひとときの美しい夢であったと知る時がいつか来るであろう。真実は夢が実現されるかどうかなど全く関係ない。それは夢見るあなたの内側に(臨済なら“即今目前”と言うだろう)常に存在する。そして私たちはいつまでも夢を見ているわけにはいかない。夢が真実にとって変わることなど絶対にありえないからだ。とはいえ、あなたが夢(大夢)から覚めない限り、生の徒ごとは営々と続く。夢は存在するように見えて実際には存在しない妄有であるが、夢を見ているものには確かなリアリティをもって存在している。心に依って住持されている夢の世界(妄有)であるが故に、第二の範疇は夢の如き存在と言えるだろう。夢から覚めない限り、世界は存続し、そこで起こるすべての事柄を指して現実と呼ぶ、というほどの意味である。

最後は言うまでもなく、あなたが夢から覚めたら、夢(現実)は消え去り、その後に第三の範疇である真実なるもの(真実在)が現れてくるというものだ(後述)。
《引用終わり》

大夢を現実と思い、さらに新たな夢を描いて、その夢が大夢(いわゆる現実)となるように頑張ることに夢中になる。そんな自分こそが「夢の如き存在」だから、仕方ないわけですが。

《以下引用(p231)》
現在人間は第二の範疇を生きているのだが、「この世は夢の如し」(ルーミー)と言われても、何故そうなのか分からないし、せいぜい感傷的に納得するのがおちだろう。人間にそれを夢だと分からせるのは殆ど不可能に近い。たとえ夢から目覚めた覚者が説得にあたろうとも笑って取りあわないだろう。「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る」というわけだ。勿論、覚者は生死の夢をむさぼる衆生(人間)を嘲笑いはしない。たとえ夢の中であれ、幸福であってほしいと思うだろう。そして、それ以上は口をつぐむ。それでも過去幾人かの覚者たちは重い口を開き、説いて倦むことを知らなかった。慧能もそのひとりであるが、夢か覚醒か、そのどちらの道を選ぶかは私たち一人ひとりに委ねられている。しかし、いつの時代もそうであったように、事は彼らが意図した通りには運ばなかった。ことそれほどまでに夢から目覚めることは難しいのだ。夢に夢を重ねるうちに益々現実を一面的、皮相的にしか理解できなくなった人間は、存在の意味(第三の範疇)も分からないまま徒に生死の夢を見続ける。
《引用終わり》

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