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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十一章 慧能」(p221〜250)を読みました。

禅の大家、慧能(638〜713)を中心に、禅の文言を見ていきます。まずは、この言葉。慧能のものと思われます。

《以下引用(p221)》
「広劫多生のあいだ、いくたびか徒に生じ、徒に死せしに、まれに人身を受けて、たまたま仏法にあえる時、此の身を度せずんば、何れの生にか此の身を度せん」。生死に無自覚な人間の空しさ、痛ましさを何と見事に言い中てていることだろう。生の始めと終りが徒ごとなら、その間(あわい)もまた徒ごとであることは言うまでもないが、人類史上現れた真に稀な宗教的思想家はこのような危機意識をもって生を駆け抜けていった。…

この地上におけるすべての人為的な営みを徒ごととよく理解した上で、なお彼らに急ぎ為さねばならないただひとつのこと(一句)から眼をそらすことはなかった。それは現代社会の過剰適応者が何かに取り憑かれたような気まじめさとはおよそ無縁なものであった。

たとえ恒沙の書を読むも
一句を持するに如かず
人ありて もし相問わば
如実に自らの心を知れ
《引用終わり》

仏教では、それ自身を「百千万劫にも遭い遇うこと難し」と珍重しており、その価値は私も認めるところではありますが、いささか自画自賛ぽく感じておりました。しかし、「これほどの教えに出会って、己の生き方はそれでいいのか!?」という危機意識をもって迫ってくる慧能。

何をボヤボヤしていたんだろう…。

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